• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2014年11月24日主日礼拝

説教題:キリストを証するもの 聖書箇所:ヨハネによる福音書5章31-44節 

 ◆イエスについての証し 5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。 5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。 5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。 5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。 5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。 5:44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。

おはようございます。前回はヨハネによる福音書5章19-30節からべテスダの池で38年間病に苦しんでいた男を癒したのが、安息日であったことから、イエス様はユダヤ人に命を狙われるようになっていきました。そのユダヤ人を前に、ご自分は父なる神から遣わされた者であり、父の言われる通りのことをしていると伝えます。「Trust and Obey 信頼と服従」 と題して三つの事を中心にお話をしました。①十字架の恵みを深く味わい感謝を捧げよう ②裁きの日は必ずやってくる ③主に信頼し従っていこう でした。では、今朝の個所を見ていきましょう。

5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。前回もお話したように、イエス様は、ご自分に敵対してくるユダヤ人に向かって話しています。イエス様を神と信じないユダヤ人に対して、イエス様ご自身が「私は神である」といったところで信じないだろうが、イエス様を証するものについて話していきます。5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。父なる神ご自身が御子イエス・キリストが神であることを証されています。それは後で説明しますので、まずはバプテスマのヨハネの証です。 5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。すでにヨハネの福音書1:19から見てきたように、バプテスマのヨハネはイエス・キリストを証するために来ました。そして何度もキリストを証しました。ヨハネ1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。バプテスマのヨハネは荒野で叫ぶ声となって、イエス・キリストこそ、神が遣わされた救い主、メシヤであることを何度も証しました。イエス様もヨハネは、燃えて輝くともし火であった。と称賛しています。イエス様はあえて、ユダヤ人の救いのために、彼らが尊敬するバプテスマのヨハネの証を引き出してきました。証しには力があります。

①バプテスマのヨハネの証

5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。二番目はヨハネの証に勝る証として、父なる神様がイエス様に成し遂げるように与えた業、つまりイエス様が行っている業、しるしや奇跡です。たとえば水をぶどう酒に変えたことから始まり、病人の癒し、死人の生き返り、5000人の給食や、水上歩行といった奇跡です。尾山礼仁先生によると、奇跡はやたらに起こるのではなく救いに関して起こっているということです。聖書の中に、奇跡が集中的に起こった時代が4つあります。

  • は出エジプトの時、これは神の民の誕生という重大な時期です。紅海が真っ二つに分かれ、イスラエルの民は乾いた地を渡れたのに、エジプト人は全滅したことや、マナや水が与えられたことです。(出エジプト14章)
  • はエリヤ、エリシャの時代です。バアルの預言者450人を相手にエリヤが祈ったとき、主は火をもって答え、祭壇の雄牛もその上に注いだ水もすべて焼き尽くしました。これはバアル礼拝による本当の神信仰の危機に直面していたからです。(列王記上18章)
  • はイスラエルの民が捕囚となていた時代です。ネブカドネツアル王の建てた金の像を拝まなかったことで、ダニエル達3人は燃える炉の中に投げ込まれますが無傷のまま戻ります。これは生きておられる本当の神への信仰が、異教の地で危機に直面していた時のことです。(ダニエル書3章)
  • 最後に主イエス・キリストの地上生活の時代、主イエス様はたくさんの奇跡やしるしを行われました。これは神ご自身が遣わしたという証拠です。

しるしや奇跡は神の御業です。イエス様が行った業によって、神であることが証されたわけです。②しるしと奇跡

5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。三番目に、神が人間に与えてくださった聖書のみ言葉によって、イエス・キリストが神であることを証しているのです。イエス様も「聖書はわたしについて証しをするものだ。」と言われました。当時のユダヤ人たちはそれがわかりませんでした。私たちはどうでしょうか。聖書をよく読み、学べばイエス・キリストは旧約聖書に預言されていた、神が遣わされたメシアであることがわかります。良い本、ためになる本はたくさんありますが、私たちが本当に幸福になり、充実した生き方をするためには何よりも神が与えてくださった聖書を読むことです。日々熱心に聖書を読み、学びましょう。

③聖書のみ言葉

このようにバプテスマのヨハネによる証、また父なる神様ご自身が証してくださること、具体的にはしるしや奇跡を通し、また聖書の御言葉を通して、イエス・キリストが神であることを証されています。 5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。ユダヤ人、とくに宗教指導者たちはそれを認めず、逆に敵意をもって殺そうとしているのです。なんと愚かでもったいないことでしょうか。せっかく命の主であるイエス・キリストが来てくださったのに、命を得るためにイエス様のもとに行こうとしないのです。それは自分たちの教え、過去の伝統や経験にとらわれていて、イエス様の教えを受け入れることができなかったのです。「新しい葡萄酒は、新しい革袋に」とあるように、頑固で強情な心を捨て、真理を見分け従っていく柔らかな心が必要です。こんなに近くに救いがあるのに、また聖書を読めばイエス・キリストが神であることが証されているのに認めることができないのです。私たちはどうでしょうか。クリスチャンといは言え、この恵みを無駄にしてはいないでしょうか。命そのもの、命の与え主であるイエス様を知っているのですから、日々、主のもとに近づき神の命に満たされましょう。 5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。 5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。 5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。 5:44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。当時のユダヤ人たちの信仰は表面的なものとなっていて、本当に神の御心にかなうものではありませんでした。だから神からの誉れを求めるよりも、人からの誉、人から良く思われるように動いていたのです。イエス様は「あなた方は白く塗った墓だ」と言われました。表面はきれいでも中は汚いもの、醜いもので満ちているということです。彼らの中には本当の神に対する愛がなかったのです。自分のことが第一になっていました。イエス様はそのことを突いたわけです。私たちはどうでしょうか。神様に対する愛があるでしょうか。心の中心に、神の栄光のために、神に喜んでいただけるようにという思いがあるでしょうか。もしその愛が冷えてしまっているならば、最初の愛に戻りましょう。救いの喜びを思い出しましょう。自分がどのような状況から救われたか。罪赦され、神の子とされ、私自身を新しく変え、人生を新しく変えていただきました。主はどんな時もいつも共にいて愛し、正しく導き、決して見捨てることなく、永遠の天国へ入れてくださるのです。この恵みを忘れないように、いつも主を喜びましょう。「主を喜ぶことはあなた方の力です」(ネヘミヤ8:10 口語訳)人からの誉れを得るためではなく、神様からの誉れをいただけるように、こんなにも私たちを愛してくださっている神に喜んでいただけるように、神を愛する生きたかをしたいです。キリストを証するもの、最後は何しょう。それは救いの恵みの中を生きる私たちです。神の愛と恵に感動した者たちです。強いられてではなく、愛があふれてそうせずにはいられないのです。パウロもコリント二5:14でそう言っています。

コリント二 5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

④キリストの愛に感動した私たち

神の願いは人が救われることです。私たちは自分に与えられている賜物を用いて、キリストを証していくことです。すぐに結果は出なくても忍耐して、結果は主に委ねて、信頼して、キリストを証しし続けていきましょう。神はそのことを喜んでくださいます。コヘレト11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。一見、パンを水の上に投げたらパンが無駄になり、無益に思えますが、しかし御言葉は、それが無駄ではないと言っています。歳月がたってから、後の日に結果が現れると。伝道すること、証しすること、チラシを配っても、証しをしても、結果が全く見えない。パンを無駄に水に流しているように、ガッカリ徒労に感じますが、すぐに結果は現われなくても、しかし「ずっと後の日に」見いだすと、聖書は語ります。マルコ11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。私たちは人々の救い、特に家族の救いのために日々祈り、証し続けていますが、すぐに結果は出なくても、諦めずに、疑わず、信じて祈り続け、自分にできるやり方で証続けましょう。主の再臨は近づいています。聖霊様の助けを求めつつ励んでいきましょう。

キリストを証するもの

バプテスマのヨハネの証父なる神の証―しるしと奇跡父なる神の証―聖書のみ言葉 ④キリストの愛に感動した私たち