• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年10月10日八街主日礼拝  

説教題:あなたは愚か者ですか? 聖書箇所:ルカによる福音書12章13-21節

「愚かな金持ち」のたとえ12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」私たちは自分のために宝を集め富むことなく、神に対して富を積むのです。これこそが真の富なのです。

ハレルヤ!10月の第二主日を迎えています。今年からパウロ書簡(一テサロニケ、フィリピ、ガラテヤ)を講解で学んでまいりましたが、今日から福音書に記されている主イエスが語られたたとえ話から学んでみたいと思います。主イエスのたとえ話はマタイ、マルコ、ルカの福音書に記されていて平行個所もあるたとえ話もありますが、ルカには固有のたとえ話が多く記されていて、今日の箇所もそうです。たとえ話は読む人に大きな感動、感銘を与えます。私たちの心の目に、まっすぐに訴えるからです。ある教会で、説教の後に何名かの教会員の方が説教要旨を書いて牧師に提出をしていたのですが、その牧師は、提出された説教要旨を読むうちに説教そのものよりも、たとえ話の方が記憶に残ることに気が付いたそうです。言われてみれば確かにそうかもしれません。私自身5年間、超教派の団体でも働いており、牧師、伝道者、信徒説教者など色々な立場の方から数多くの説教を聞きましたが、説教そのものよりもたとえ話の方が記憶に残っていたことが多いです。今日はルカによる福音書12章13-21節「あなたは愚か者ですか?」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①貪欲は罪

13,14節から見て参りましょう。12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とあります。「群衆一人」が、遺産相続で問題が起こっているので、主イエスにその解決法を求めに来たのです。当時は色々な問題が起こるとユダヤ教の師であるラビのところに行くのが普通ですが、主イエスなら円満に解決をしてくださるに違いないと思って訪ねたのでしょう。「群衆の一人」は兄弟と遺産をめぐる争いに巻き込まれてしまったのです。相続にまつわるトラブルは昔から今日に至るまで続いています。それまで仲の良かった兄弟が骨肉の争いとなる場合もあります。最も醜い争いの一つではないでしょうか。セゾングループの代表だった故 堤清二氏と西武グループ総帥だった堤義明氏は義兄弟ですが、犬猿の仲だったそうです。この兄弟の対立も相続に端を発していると聞いたことがあります。「群衆の一人」の質問に対する主イエスの答えを見てみましょう。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と意外なものでした。主イエスは「群衆の一人」に律法に基づいた事務的な答えを直接出すことが出来ました。しかし、敢えてこの直接の答えを出ださなかったのです。それは、この人がまだまだ多くのものを欲しがるようになるからです。続く15節を見てみましょう。12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」「一同に言われた。」とあります。主イエスはそこにいる群衆全員に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と語り始めたのです。これは推測ですが、主イエスに相続の問題を訴えに来た人は、おそらく一定のものは相続していたと思います。というのは、当時のユダヤでは遺産の分配についての決まりがあったからです。父親が死亡した場合、長男は他の相続者の二倍の遺産を相続することになっていました。残された母親や未婚の弟妹を養う義務があるからです。開きませんが申命記21章17節に記されています。主イエスに訴えを起こした人が長男かそうでなかったかはわかりませんが、全く遺産相続が出来なかったとは考えにくいです。ですから、主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」と語られたのだと思います。貪欲とは辞書によると「 物欲・金銭欲・食欲が強く、手に入れたものではなかなか満足せず、さらに欲しがること。欲の深いこと。」の意味です。強欲とも言います。ローマには貪欲について次の諺があります。「金は海水のようだ」。海の水を飲めば飲むほど乾くからです。尽きることのない欲望をあらわしています。すべての欲望は罪ではありませんが、今日先ず覚えて頂きたいことは貪欲は罪ということです。開きませんがコリントの信徒への手紙一6章10節には強欲な者は御国を受け継げないとあります。また、イザヤ書には貪欲により傲慢となった天使が堕落して悪魔になったことが記されています。もっと偉くなりたい神ようになりたいという欲望です。イザヤ書14章12-15節を見てみましょう。 14:12 ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。 14:13 かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し 14:14 雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。 14:15 しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。創世記3章にはエバは蛇(悪魔)から誘惑をされてしまったことが記されていますが、その根底には貪欲という罪があったのです。エバは神から次のように命じられていました。創世記3:2,3「 3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」しかし、エバの欲は尽きることなく禁断の実に手を付けてしまったのです。6節です。3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。これ以降、人類は貪欲という罪によって戦争や殺人が起こり続けています。財産や地位が与えられてもそれで満足のできない心が問題を起こすのです。

②自己中心と過信を自己点検する

16節を見てみましょう。12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。膨大な財産を持っていたとしても、それは人間の命にとって代わることは出来ません。遺産相続の問題は、単にこの世の権利の問題だけではなく、永遠の命を求めることさえしなくなるのです。そこで主イエスはこのことを分かり易く教えるために一つのたとえ話を語られたのです。「ある金持ちの畑が豊作だった」とあります。普通の人の畑が豊作だったのではありません。お金もちの畑が豊作で、お金もちはさらに富を得ることができるという状況です。この状況の中でお金持ちが思いめぐらしたことが17-19節です。英語の聖書と一緒に見てみましょう。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』Luke 12:17 “And he thought within himself, saying, ‘What shall I do, since I have no room to store my crops?’ 12:18 “So he said, ‘I will do this: I will pull down my barns and build greater, and there I will store all my crops and my goods. (NKJV)金持ちは「作物をしまっておく場所がない」から「もっと大きいのを建て」ようと思ったのです。このことは別に悪い事ではありません。むしろ賢い判断かもしれません。しかし、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と更に富が増えることで悦に入っていたのです。「食べたり飲んだりして楽しめ」るという喜びで頭がいっぱいだったのです。17,18節を英語で見ますとmy(私の)という所有格が意図的に多用されていて、この金持ちについて二つのことがわかります。先ず、金持ちは神と自分との関係を知ることなく、自分のことだけしか考えていないということです。作物の豊かさに心を奪われて、私が、私がという生活を過ごしているのです。神とキリスト者との関係とは、マタイによる福音書の18章に記されているように、多くの借金のある僕を憐れんで、主人が僕を赦してやったように、私たちは神から赦され愛されているという関係です。しかし、このたとえ話の金持ちは神を知らないので豊作をもたらしてくださる神への感謝もありませんし、周りの人たちへの配慮も感じません。また、貧しい人たちへの愛も感じません。私たちが属する日本ホーリネス教団はジョン・ウエスレーの流れを汲んでいますが、ジョン・ウエスレーの信条は、できるだけ節約をし、周りに最大限に与えることでした。年収30ポンドの時は28ポンドで生活をし、残りの2ポンドを寄付しました。収入が倍増し60ポンドとなっても28ポンドで生活をし、更に倍増し120ポンドとなっても28ポンドで生活をし、残りを全て寄付したと言われています。さて、私たちはどうでしょうか。日々、神に感謝し、周りの人に配慮し、愛の手を差し伸べているでしょうか。今、ここで心を探ってみたいと思います。所有格が多用されていることからわかるもう一つのことは自分に対する過信の現れです。「私が、私が」と言っているのは過信の現れです。自分の力により頼んで生きていこうとするのなら、それは律法であって福音ではありません。キリスト者とは私たちの罪の身代わりとなり十字架に掛かってくださったキリスト・イエスにより頼むものなのです。主イエスが語られたたとえ話の金もちは自己中心で過信な人物でした。今日、二番目に覚えて頂きたいことは自己中心と過信を自己点検するという事です。自己中心と過信に陥ってしまってはいないでしょうか。自己点検セルフチェックをしましょう。

③全てが主から預かっている

20,21節を見てみましょう。12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」私たちは自分のために宝を集め富むことなく、神に対して富を積むのです。これこそが真の富なのです。更に富が築けると思い巡らして、ほくそ笑んでいる金持ちに神は「愚かな者よ」と呼びかけます。その理由が「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」です。そして、21節の後半に自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。とあります。「神の前に豊かにならない者」は、働いても無益なのです。富を手にいても無駄なのです。この金持ちは一生懸命に働き財を築き上げました。多くの収穫を得てそれをしまっておくことを考えたのです。しかし、死んでしまえばその富がどうなるのかは自明の理です。このわかりきったことで主イエスはこの金持ちを愚か者と呼んでいるわけではありませんし、その豊かさゆえに非難をしているわけでもありません。神が愚か者と呼んだ理由はこの金持ちが富では得られないものに気づいていないことです。富やお金には限界はあります。ノルウェーの詩人アルネ・ガルボルグは,こう述べました。「お金があれば食べる物は買えるが,食欲は買えない。薬は買えるが,健康は買えない。寝心地の良いベッドは買えるが,安眠は買えない。知識は買えるが,知恵は買えない。華やかさは買えるが,美しさは買えない。豪華さは買えるが,温かさは買えない。楽しみは買えるが,喜びは買えない。知人は得られるが,友情は買えない。使用人は雇えるが,忠実さは買えない」。と。15節の後半をもう一度見てみましょう。12:15b有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。富、財産はこの世の人間の命の保証をするものではありませんし、永遠の命も手に入れることは出来ません。どんなに富があろうとも永遠の命は手に入れることは出来ないのです。永遠の命は罪びとであることを認め、主イエスを救い主と受け入れることのみによってあたえられるのです。20節に戻ってみましょう。「お前の命は取り上げられる。」とありますが、原語では「自分が当然返してもらうべきものを要求する」です。世の中の人は自分の財産にしても時間にしても命にしても自分のものだと思っていると思います。主イエスと出会う前の私もそうでした。しかし、これらのものは何一つ自分のものではありません。全てのものは主から預けられているものなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは全ては主から預かっているということです。ですから、いつに日か主とお会いするときに主から預けられていたものをどのように管理し活用したかが問われるということになるのです。ルカによる福音書には次のように記されています。ルカ19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』「ごく小さな事」とはこの世の働きのことです。主イエスにお会いした時にこのような誉め言葉を頂けることを皆で目指そうではありませんか。どんなことがあっても主イエスと歩み続ける。そうすれば財産を分け合うために主イエスに調停を頼む必要もなく、神から「愚か者」と呼ばれることもないのです。

Today’s Point①貪欲は罪、②自己中心と過信を自己点検する、③全ては主から預かっている

Thinking Time「真の富」を積んでいますか。