• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年12月5日主日礼拝     

説教題:賜物は全員に与えられている、聖書箇所:ルカによる福音書19章11-27節

◆「ムナ」のたとえ19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。19:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。19:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』19:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。19:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』19:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。19:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』19:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

ハレルヤ!早いもので師走になりました。アドベント第二主日を迎えています。私たちの教会では、ルカによる福音書に記されている主イエスが語られたたとえ話を学んでいて、今日はその八回目です。先週は13章1-19節から「塔が倒れる前に」と題し三つのことを中心にお話をしました。①自分自身の死後のことを考える、②悔い改めの実を結ぶ、③福音伝道が急務でした。今日は19章11-27節から「賜物は全員に与えられている」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。今日のたとえ話を理解する上で二つの重要なことがあります。先ず、今日のたとえ話に類似したたとえ話がマタイによる福音書25章14-30節に記されています。新共同訳聖書の小見出しは「タラントンのたとえ」です。二つのたとえ話で同じ点は、キリスト者には主から賜物が与えられている。預けられていて、それをどのように活用したかが、再臨の時に主から問われるのです。違う点は「タラントンのたとえ」では僕たちに預ける額が僕によって異なるのにたいして、今日、これから学ぶたとえでは全員に同額のものが預けられています。また、使われている通貨の単位も異なります。マタイではタラントン、今日の箇所ではムナです。今日のたとえ話を理解する上でもう一つ重要なことがあります。それはたとえ話の一部は実際にあった史実に基づいているからです。その出来事をお話します。紀元前4年にヘロデ大王(マタイ2章16-18節参照)が死ぬと、遺言によりその子アケラオが王位を継承することになっていました。ローマ皇帝の承認を求めるためローマを訪問することになっていましたが、その少し前に、一つの事件がきっかけで、アケラオの兵により三千人もの人々が殺されてしまったのです。反アケラオの勢力はこの大量殺戮をローマ皇帝に直訴して、アケラオが王として不適格でローマ総督によるユダヤの支配を認めさせたのです。しかし、アケラオはローマ皇帝からユダヤ、サマリヤ、イドマドの国王として認められ、反対派に対する残虐な処刑を行ったのです。結局はそれらのことが理由で紀元6年に国王としての任を解かれてしまったのです。当時は誰でも知っているこの出来事がたとえ話のベースとなっています。

①賜物はキリスト者全員に与えられている

では、11節から順番に見てまいりましょう。19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。「人々がこれらのことに聞き入っているとき」とあります。直前の19章1-10節に記されている主イエスと徴税人ザアカイとの会話を聞いてのことです。「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあるように主イエスは神に国についてユダヤの人々が正しく理解をしていないことを見抜いていました。ですから、「更に一つのたとえを話されたのです。」12節を見てみましょう。19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。これは先程お話しした。アケラオ王の出来事になぞり、主イエスはご自分が神のもとに帰り、やがて王として再臨をすることを語っているのです。13節を見てみましょう。19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。ムナという通貨単位が使われています。1ムナ=100デナリオンで、1デナリオンは一人の一日分の賃金です。わかりやすいように1デナリオンを一万円としてみますと、1ムナ(100ナデナリオン)は100万円で、10ムナは1000万円です。このたとえで主人は十人の僕たち一人一人に大金を渡したのです。「1タラントン」は「1ムナ」の60倍ですので、「タラントンのたとえ」は6,000万円という莫大なお金が預けられています。「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」とあります。主イエスは再臨の時迄、ご自身を信じるものに与えられた賜物を有効に用いることを命じられたのです。冒頭でお話をした通り、タラントンのたとえでは僕たちに預ける額が僕によって異なっていますが、今日の箇所では皆に同額のものが預かっています。これは賜物の見方の違いです。私の知っているビジネスで大成功したクリスチャンの方がいます。商才の賜物といえるでしょう。お茶の水の宣教団体で働いていた時に「クリスマスプレゼントだよ」と言い、びっくりする大金をミニストリーに献金をしてくださったこともありました。また、芸大を首席で卒業し、色々な場所で主の働きをされている方もいます。音楽の賜物です。全くのご奉仕で何回もお茶の水に来てくださいました。誰もがこのような賜物は与えられていませんが、与えられている賜物を生かして主のために働き主の栄光を表しているのです。与えられている賜物は異なる。これが「タラントンのたとえ」の意味することです。一方、今日の箇所は誰に対してもある賜物が与えられていることが強調されているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは賜物はキリスト者全員に与えられているといことです。「瞬きの詩人」として有名な水野源三さんというクリスチャンの詩人がいます。水野源三さんは9歳のときに脳性麻痺となり、目と耳以外のすべての機能を失いました。12歳で聖書に触れ18歳でクリスチャンとなり47歳で天国に行くまで数多くの作品を生み出しています。水野さんは体が動きません。しかし、詩を作るという素晴らしい賜物が与えられています。秀作揃いですが私の好きな「ありがとう」をご紹介します。「今年も毎朝 物が言えない私は ありがとうのかわりにほほえむ 朝から何回もほほえむ 苦しいときも 悲しいときも心から ほほえむ」キリスト者には一人残らず主の働きのため、主の栄光を表すために賜物が与えられているのです。ですから、「十ムナの金を渡し」の部分を「賜物を与え」に置き換えるとその意味がよくわかると思いますいす。いずれのたとえ話も賜物を生かすことが求められているのです。与えられている賜物は違うかもしれませんが、一日は誰に対しても24時間です。ですから必ず与えられている賜物をどのように使うのかが問われるのです。14節を見てみましょう。19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。「我々はこの人を王にいただきたくない」この箇所もアケラオ王の出来事になぞり語られています。主イエスが神のもとに帰っても、人々はイエスを救い主と望まない、信じないことを予知されています。たとえ話は続きます。人々の憎悪、妨害がありながらも「ある立派な家柄の人が」ついに王になったのです。 15節です。19:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。再臨の時、一人一人のキリスト者は主イエスからお預かりした賜物を信仰によりどのように用いたかが問われるのです。

②一人一人が満足する形で報いてくださる

16-19節を見てみましょう。19:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』19:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。最初に呼ばれた僕は預かった「一ムナで十ムナ」儲けたのです。すると主人からお褒めの言葉を頂き「十の町の支配権」を与えられたのです。二番目に呼ばれた僕は預かった「一ムナで五ムナ」儲けたのです。すると主人からお褒めの言葉を頂き「五つの町」の支配権を与えられたのです。主イエスを救い主と受け入れたものには全員が御国での生活が保障されています。そしてこの箇所から御国での報いは異なると思われるかもしれませんが、報いが異なるというよりも。報いは本人が心からあふれるばかりに満足が出来る形で、一人一人に与えられるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは一人一人が満足する形で報いてくださるということです。それは、御国は愛と喜びにあふれ妬みや嫉みといったネガティブな感情が一切ないからです。この世では、自分と他人の実績を比較して報酬になっとくがいかずにネガティブな感情を抱くこともあるかもしれませんが、御国では異なります。20,21節を見てみましょう。19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。19:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』この三番目に呼び出された僕はせっかく預かった「一ムナ」を全く用いませんでした。「布に包んでしまって」いたのです、その理由が「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」この僕は主人を恐ろしく思っていたので、うっかりして預かったお金をなくしてしまったら大変なことになると思い、そのまま返せばお咎めがないと思っていたのです。言葉を換えれば、初めから預かってないもの、蒔かれていないものと勝手に思っていたのです。この僕に対する主人の応答が22節以降に記されています。

③信仰を働かせて賜物を用いる

22,23節を見てみましょう。19:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。19:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』主人は三番目に呼び出された僕対して「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。」と厳しく断罪します。そして自分の厳しさを知っていたのに、何もしなかったことに対して「わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』と語ります。なぜ、少しでも増えることをしなかったのかと問うているのです。 24-26節を見てみましょう。19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』19:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。主人は「そばに立っていた人々」に一ムナをしまっておいた僕から取り上げて「十ムナ持っている者に与えよ。」と命じます。すると僕たちは「御主人様、あの人は既に十ムナ持っています」と答えます。それに対して主人は「持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」と伝えたのです。与えられているムナ(賜物)を忠実に生かす者には、更に多くの物が与えられ、与えられているムナ(賜物)に不忠実な者には、賜物がわずかでも全部取り上げられてしまうのです。つまり与えられている賜物は忠実に活用しなくてはならないことが教えられているのです。17節の忠実と訳された言葉は真実とも信仰という言葉にも訳すことが出来ます。信仰をもって預かったもの、賜物を使うかどうかなのです。結果が第一ではありません。今日、最後に覚えて頂きたいことは信仰を働かせて賜物を用いるということです。 27節を見てみましょう。19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」「ところで、」とあるように話は変わりますが、この27節もアケラオ王が、反対派に対する処刑をおこなったことになぞられています。再臨の時にキリスト・イエスが救い主である事を望まず、受け入れず、否定した者の姿です。主イエスがこのたとえ話の最後で語られたことはまことに厳しい内容です。しかし、愛と憐れみに満ちた神はその解決方法も与えてくださっているのです。先月、学んだルカによる福音書14章に記されている「大宴会のたとえ」の御言葉を見てみましょう。14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』神は「無理にでも」とイエスに命じました。主イエスは無理をなされて十字架に掛かかってくださったのです。この十字架によりなされた御業、信じるだけで天国に行けるという福音が用意されているのです。是非、受け入れて頂きたいと思います。

Today’s Point①賜物はキリスト者全員に与えられている、②一人一人が満足する形で報いてくださる、③信仰を働かせて賜物を用いる

Thinking Time眠っている賜物はありませんか。