• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年5月23日主日礼拝  

説教題:最初の説教~十字架に掛けられたメシア~ 聖書箇所:使徒言行録2章22-36節

2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

ハレルヤ!5月の第四主日を迎えています。先月から私たちの教会ではフィリピの信徒への手紙を学んでいますが、今日はペンテコステ礼拝ですので、フィリピ書の講解説教はお休みとなります。使徒言行録2章の1-13節には聖霊降誕の出来事が記されています。新共同訳聖書の小見出しは「聖霊が下る」です。 2:1,2を見てみましょう。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、」とあります。5-13節には、その物音に驚いて集まった大勢の人を前にして、主イエスの弟子たちは、神の大きな御業について語り、それを聞いた人々は驚きとあざけりをもって応答をしたことが記されています。14節からはペトロと11名の弟子が立ち上がり、ペトロが弟子を代表して説教を語ります。これはキリスト教会が誕生し、初めての説教と言えます。この説教は14-21節が序論、22-35節が本論、36節が結論です。37-42節は結果(説教を聞いた人の変化)について記されています。今日は本論と結論にあたる22-36節を通し、「最初の説教~十字架に掛けられたメシア~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。ペトロは22節以降で、壮大なキリスト論を展開しています。主イエスの十字架の死、復活、そして昇天の三つです。これらは教会の誕生をもたらした聖霊降誕が実現するため、絶対に必要な条件だったのです。このペトロが語った説教の特徴は三つあります。先ず、聖霊の力を受け大胆に語りました。次に、十字架、復活、昇天という歴史的な事実の順序にかなった論理的なものでした。最後に、旧約聖書(当時の聖書)からの多くの引用が挙げられます。

①字架は無償の愛の現れ

22節から見てまいりましょう。この個所には主イエスの十字架の死について記されています。2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。ペテロの語った最初の説教は、「イスラエルの人たちこれから話すことを聞いてください。」と始まり 続いて「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」と語ります。先ず、イエスが神から遣わされた方であることを語りました。そして、「奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」 と記されていますので、聴衆は主イエスの公生涯でなされた奇跡、不思議な業、しるしについて良く知ったことがわかります。23節を見てみましょう。「お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたとあります。」主イエスが十字架にかかることは神がお定めになったことです。全人類が救われるためのご計画の一環です。旧約時代、救いはイスラエルの民に限られていましたが、主イエスの十字架により、すべての民が永遠の命を持てるようになったのです。しかし、ペトロは、神のご計画にもかかわらず、聴衆にあなた方が主イエスを「十字架につけて殺してしまったのです。」と語り聴衆の道徳的責任を問いました。神の永遠のご計画があったとしても、御子を十字架につけた責任は神にはありません。責任の所在はイスラエルの民にあったのです。主イエスが公生涯でなされた奇跡、不思議な業、しるしについて良く知ったにもかかわらず。主イエスを十字架にかけたのは、イスラエルの民なのです。神はご自身の計画に沿って、主イエスをこの世に遣わされました。そして、主イエスは十字架で処刑されてしまったのです。一テモテ 2:4 には次のように記されています。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は全ての人が救われることを望まれていますが、この救いの御業は、独り子を十字架にかけるという大きな犠牲によりなされたのです。十字架は無償の愛をこの世にいる私たちに示すためなのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは、十字架は神の無償の愛を現すということです。十字架はファッションではありません。

②神のご計画は水面下で進んでいる

24-32節は主の復活についてです。使徒言行録には聖霊についての記述が多いため口語訳聖書の使徒行伝に因み、「聖霊行伝」と呼ばれることがありますが、聖書学者のウイリアム・バークレーは使徒言行録を「復活の福音書」と紹介し、次のように解説をしています。「復活がなかったらキリスト教会はこの世に存在しえない。教会が復活の説教をイースターまで閉じ込めているのは悲劇である。毎日曜日が主の日である。そして主の日はいつも復活の日として守られるべきである」と。24節を見てみましょう。2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ペトロは十字架に続いて復活の御業を語ります。「しかし」、とあります。イスラエルの民はイエスを十字架に掛けましたが、神はそのイエスを復活させたのです。ここに神と人間の判断の違いがあります。イエスを十字架につけた人間はこれで終わりだと思っていたことでしょう。人間は自分が全ての主導権を握っていると考えてしまうのですが、それは人間の思い上がりに過ぎません。人智をはるかに超えた神が存在するのです。そして、人間が気づかないところで、神のご計画が着々と進められているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは、神のご計画は水面下で進んでいるということです。25-28節を見てみましょう。2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』この個所はダビデが記した旧約聖書の詩編16編8-11節からの引用です。ペトロは主の復活を述べるにあたり聖書を引用します。詩編16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。一字一句同じではありませんが、内容は同じです。また、開きませんが、説教の序論をなす17-21節はヨエル書3:1-5(新改訳、口語訳は2:28-32)からの引用です。ヨエルは(紀元前830年頃)の預言者で、メシアの到来とイスラエルの復興について預言をしています。そして、信仰復興は聖霊が注がれて起こると預言をしています。ですから、ペトロはその予言が成就したと宣言をしたのです。29-31節は25-28節の説明です。29節を見てみましょう。2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ペトロは25節に記されているわたしがダビデ自身ではないと語ります。その理由が29節です。「先祖ダビデ」とあります。ダビデは尊敬をされる人物ですが、死んで葬られその墓があると語ったのです。それではダビデは誰について語ったのでしょうか。それが30,31節です。ダビデは彼のはるか後に来られるキリストを預言していたのです。詩編132編12節には次のように記されています。見てみましょう。132:12 あなたの子らがわたしの契約と/わたしが教える定めを守るなら/彼らの子らも、永遠に/あなたの王座につく者となる。」一部の東方教会では復活祭の日に、二人の人が道で出会うと、一人が「主が復活された」と言うと、もう一人は「まことに主は復活されておられる」と答えるそうです。クリスチャンとは復活された主と共にある生活を歩んでいることを、いつも忘れない人です。

③十字架につけられたイエスがメシア

32-35節を見てみましょう。ペトロは復活された主の昇天について語ります。2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』32節にはペトロが預言の成就とともに、わずか50日前の復活の出来事の目撃者として聴衆に語ったことが記されています。ペトロは昇天の論証のため、この個所(34,35節の『』)でも詩編を引用しています。詩編110:1を見てみましょう。詩編110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」この引用されている箇所もダビデにはあてはまりません。34節に記されている通り、「ダビデは天に昇ら」なかったからです。そして、この引用した個所はメシア預言として、当時のユダヤ人は良く知っていました。50日前に復活され、10日ほど前にイエスが昇天したことは、イエスがメシアであることを示す強力な証拠だったのです。また、イエスが昇天したからこそ、約束の聖霊がくだり、聴衆は目撃することが出来たのです。ペトロの語った説教の結論である36節を見てみましょう。2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」この言葉を聞いて聴衆は心を刺されたことでしょう。彼らはイエスの公生涯を見て、行われた奇跡も見ていたことでしょう。それにもかかわらず、主イエスを救い主、メシアと認めずに十字架につけてしまったのです。十字架につけられたイエスがメシアだったのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは、十字架に掛けられたイエスがメシアだったということです。 私たちはどうでしょうか。主イエスがなされた御業、歴史的な事実を正しく理解し、受け入れているでしょうか。2千年前の話と一蹴してはいないでしょうか。主イエスを十字架にかけたのは当時の人々のためだけではありません。今日の私たちが永遠の命を持つためでもあったのです。主イエスは民族や国籍を超えた全ての人のために人の子として天からこられたのです。十字架の死も復活も昇天も、みな私たちのためにほかならないのです。

Today’s point ①十字架は無償の愛の現れ②神のご計画は水面下で進んでいる③十字架に掛けられたイエスがメシア Thinking time 37-42節(説教の結果)を読んでみてください。