• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年7月11日主日礼拝   

説教題:パウロの召命~人は救われる~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節

パウロが使徒として選ばれた次第1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

ハレルヤ!7月の第二主日を迎えています。先週からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその二回目です。先週は、1章1-10節から「さか戻りするな!」と題して三つのことを中心にお話をしました。①福音は唯一、②福音を正しく守り続ける、③主(あるじ)はキリスト・イエス でした。今日は1章11-24節から「パウロの召命~人は救われる~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。先週学んだ1章1節の最後でパウロは「使徒とされたパウロ」と表現をしましたが、1章1節は原語のギリシア語では「パウロ、使徒」と始まります。ガラテヤの人々の中には、パウロは十二使徒ではないという事実に基づいて、本物の使徒ではないと思い、パウロを見くびっていた人たちがいたのです。また、ガラテヤの教会はユダヤ教の律法主義に遡ろうとしていたので、使徒の権威をもって解決をしようとしたのです。今日の個所はパウロが使徒として召された理由を弁明しています。

①アンチクリスチャンでも救われる

11,12節から見てみましょう。1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。「兄弟たち」とあります。パウロはこの呼びかけを親しみの現れとして使う場合がありますが、今日の個所では、「はっきり言います」とあるように、重要な内容を伝えるため、読者の注意を喚起するために用いています。「福音は、人によるものではありません」とあり、12節の前半には「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく」と同じことが強調のため繰り返されてして、最後に「イエス・キリストの啓示によって知らされ」と福音を聞いた出所を明確にしています。十二使徒は直接、主イエスのから福音を聞きましたが、使徒パウロも復活された主イエスから直接、啓示を受けたと語ります。「イエス・キリストの啓示とは」ダマスコ途上での出来事です。使徒言行録9章に記されていますが、要約をしますと、サウル/サウロ(パウロ)は熱心なユダヤ教徒でキリスト者への迫害を続けていました。ある日、ダマスコにイエスの弟子が大勢いることを聞き及び、迫害をするためダマスコに向かったのです。その途上において、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)と、天からの光とともに主イエス・キリストの声を聞いいたのです。その後、目が見えなくなったのですが、主イエスの弟子のアナニアが、主のお告げによって祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになり、パウロ(サウル)は回心をしたのです。13,14節を見てみましょう。1:13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。1:14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。13節と14節で、パウロは回心以前の自分自身について語ります。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。」とあり、自ら迫害者であったことを認めています。「人一倍熱心、ユダヤ教に徹しよう」とありますので、熱心中の熱心なユダヤ教徒でキリスト者を迫害し続けていたのです。使徒言行録8章3節には次のように記されています。8:3 一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。パウロは、ユダヤ教の価値観に凝り固まっていたのです。他のどんな価値観もパウロには入り込むスキがなかったのです。そんなパウロが回心をしたのです。これは人間のなせる業ではありません。御業です。神はパウロのようにキリスト者を迫害する人にも啓示を与えることが出来る、信仰を与えることが出来るのです。今日、先ず、覚えて頂きたいことはキリストを否定する人も救われるのです。アンチクリスチャンでも救われるのです。ですから、家族や身近な方にアンチクリスチャンの方がいても絶対に諦めてはいけないのです。祈り続けましょう。

②救いには人間側の要素もある

15-16節を見てみましょう。1:15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、1:16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、この個所はパウロの回心、召命直後の行動についての記述です。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が」とあります。パウロは人一倍熱心なユダヤ教徒で旧約聖書に長けていました。この個所は預言書エレミヤ書からの引用です。エレミヤ書1章5節にはこのように記されています。 1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」パウロは預言者エレミヤのように、生まれる前から聖別をされ、恵みをもって召していたと語ります。「神が、御心のままに、1:16 御子をわたしに示して」とあるように、全ては神のご計画に則り、ダマスコ途上での回心が起こったのです。キリスト者を迫害していたパウロにとって回心するとは想像だにしないことだったでしょう。御心でなければユダヤ教の価値観に凝り固まっていた世界から抜け出すことなどできません。主イエスがパウロ以外の人にも現れ、その瞬間に回心した例があります。

昔、シリアの山奥にオフェロという名の若者がいました。オフェロとはギリシア語で背負うという意味です。オフェロはその名の通り子どものころから力もちで、世界で一番強い人に仕えたいと思い、王様の家来となりました。しかし、その王様が悪魔を恐れていることを知ると、オフェロは悪魔の家来となりました。悪魔はオフェロの怪力を利用して、次から次へと悪事に彼を利用しました。オフェロも悪魔の家来であることに誇りもっていました。そんなある日、オフェロと悪魔が街を歩いていると小さな教会堂があり、十字架がありました。十字架を見た悪魔はぶるぶる震え始めました。それを見たオフェロは悪魔にその理由を尋ねると悪魔は「あれはキリストのしるしだ。俺には何一つ怖いものはないが、キリストは例外だ」と答えました。それを聞くやいなやオフェロは悪魔を離れ、キリストの家来になることを決心し、交通の往来が多い川の渡し守となりキリストを待ち続けました。3年たったある日、嵐の夜に一人の少年がどうしても川を渡らなければならない急用があるとオフェロを訪ねてきました。オフェロは迷いましたが、少年の申し入れを聞き、彼を背負って川を渡り始めました。不思議なことに少年の体重がだんだん重く感じ始めました。今まで何千もの人を背負ってきたオフェロにとって初めての経験です。オフェロは少年にこんなに重い人は初めてだと伝えると、少年は次のように答えました。「重いでしょう。私は全ての人の罪を背負っているのですから」と。少年は主イエスだったのです。その瞬間から、オフェロはキリストを主としてその僕となり、信仰と奉仕の生涯を送ったのです。そのオフェロとは、3世紀に殉教したといわれている聖クリストファーです。クリストファーとは、キリストを背負う者という意味があります。

このように神のご計画による啓示には圧倒的な力がありますが、同時に一つのことを忘れてはいけません。パウロは使徒言行録26章19,20節で次のように語ります。 26:19 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、 26:20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。「私は天から示されたことに背かず」とあります。主から啓示をされたことを素直に受け入れることが必要なのです。私たちの生まれる前から定められているご計画で、どんなに圧倒的な力で示されたとしても、私たちがそれを拒むなら、その恵みは虚しく実りのないものとなってしまうのです。「悔い改めて神に立ち帰り」とあります。啓示を素直に受け入れ悔い改めることで福音の恵みに預かれるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは救いには人間側の要素もあるということです。聖書個所に戻り、17節を見てみましょう。1:17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。1:17Neither went I up to Jerusalem to them which were apostles before me; but I went into Arabia, and returned again unto Damascus.(KJB)17節に「アラビアに退いて」とあります。聖書の中でアラビアと記されているのはこの個所だけです。またアラビアは広く、アラビアのどこに何の目的でいったのかは明確ではありませんが、退くとありますがので、この手紙を書いている場所を退かなければならない何かががあったのかと思うかもしれませんが、原語では「立ち去る」の意味です。英語の聖書でもwent toですので深い意味はわかりません。18-20節を見てみましょう。1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。18節以降には第一回目のエルサレム教会の訪問についての記述です。このことは使徒言行録9章26-29節に記されています。新共同訳の小見出しは◆サウロ、エルサレムで使徒たちと会うとなっています。当時、エルサレム教会はキリスト教の中心で、この手紙が記された時点ではペトロを筆頭とした使徒たちによる指導体制が存続しており、「主の兄弟ヤコブ」はナンバー2の地位であったと思われますが、パウロはエルサレムの権威に自分が依存していないことを伝えたのです。「それから三年後」とありますが、これは回心から三年後の意味です。また、「ケファ」とありますが、ペトロの事です。ペトロと会うことが目的でエルサレムを訪問したのですが、その滞在は15日と短いものでした。19節に「ただ主の兄弟ヤコブにだけに会いました」とありますが、この記述からもエルサレムからの独立性を伝えています。20節で「うそをついているのではありません」と言い切るほど自分の使徒としての召命がエルサレムの使徒の影響下になかったことを伝えたかったのです。

③召命には使命が伴う

21-24節を見てみましょう。1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。「シリアおよびキリキアの地方へ行きました」とありますが、その理由は使命です。1章16節をもう一度みてみましょう。御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、とあるように福音を異邦人に告げ知らせることがパウロの使命なのです。異邦人伝道です。キリキアにはパウロの生まれ故郷であるタルソがあります。故郷で異邦人伝道をしたかったのでしょう。パウロは「ユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」が、「ユダヤの諸教会の人々」は、自分たちの迫害者だったパウロが主イエスにより変えられ、今では福音を延べ伝えられるものになったことを神に感謝しているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは召命には使命が伴うということです。パウロの使命は異邦人伝道でした。その後のパウロの働きは正に異邦人伝道に命をかけ、その生涯を全うしたのでした。

Today’s point①アンチクリスチャンでも救われる、②救いには人間側の要素もある、③召命には使命が伴う

Thinking time具体的な使命は何でしょうか。