• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年7月4日主日礼拝  

説教題:さか戻りするな!聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙1章1-10節

◆挨拶1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、1:2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 ◆ほかの福音はない1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

ハレルヤ!7月の第一主日を迎えています。今日からガラテヤの信徒への手紙を講解で学びます。先ず、ガラテヤとは都市名でなく地方の名称です。場所については二つの学説があとます。ガラテヤ地方とする説(北ガラテヤ説)とガラテヤはローマ帝国の属州でフリギア、ポントスなどを加えたより広い地域をガラテヤ県とし、この県名とガラテヤする学説(南ガラテヤ説)がありますが、使徒言行録に16:6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。とありますので私は地方名での学説(南ガラテヤ説)を支持しています。大体この辺りにガラテヤの諸教会は点在していたのだと思います。執筆の時代はフィリピ書と同じ54~57年頃と考えられていますが、どこで書いたのかは不明です。今日は、ガラテヤの信徒への手紙1章1-11節から「さか戻りするな!」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①福音は唯一

それでは、1-3節から見てみましょう1:1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 1:2 ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 1:3 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。1:1Paul, an apostle, (not of men, neither by man, but by Jesus Christ, and God the Father, who raised him from the dead;(KJB) この手紙も他のパウロ書簡と同様に定番の書き出しで始まります。差出人(パウロ、兄弟一同)宛先(ガラテヤ地方の諸教会、一つの教会ではありません)、祝祷(父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように)という三つの要素です。しかし、この手紙には特筆すべきことが二つあります。「使徒とされたパウロ」とありますが、原語では「パウロ、使徒」と書き始められています。ですから、多くの英語の聖書では 「Paul, an apostle,」と訳しています。パウロ使徒という表現は使徒の権威を持って手紙を書く場合に使われています。一つの学説によるとガラテヤの人々の中には、パウロは十二使徒ではないという事実に基づいて、本物の使徒ではないと思い、パウロを見くびっていた人たちがいたのです。また、これから詳しく学んでまいりますが、ガラテヤの教会には使徒の権威をもって解決をしなければならない大きな問題があったのです。このパウロ使徒という表現はガラテヤ書以外では、一度も足を運んだことのないローマ信徒への手紙と分裂的な状態にあったコリントの信徒への手紙一、二やエフェソの信徒への手紙などで使われています。いずれも使徒の権威が必要と判断した場合のみに使われています。4,5節を見てみましょう。1:4 キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 1:5 わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 4節は3節の祝祷の中にある主イエス・キリストについての説明です。「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」とあります。私自身も主イエスと出会う前は決して品行方正ではありませんでしたが、いつから日本はこんなに悪い国になってしまったのだろうかと思うときがあります。お年寄りをターゲットにした特殊詐欺が後を絶ちません。2020年の被害総額は約277億円で、1日当たりの被害額は約7600万円です。しかし、この暗黒ともいえる悪い時代にあっても、キリストを信じる者は救われ、平安の中に生きることが出来るのです。恵みとしかいいようがありません。5節は頌栄です。賛美とも言えます。他のパウロ書簡では頌栄は最後の部分に記されているのですが、この手紙では最初に記されています。一方、他のパウロ書簡では冒頭に感謝の言葉が述べられているのですが、この手紙の冒頭には感謝の言葉はありません。そして、これが今日の個所の二つ目の特筆すべきことです。パウロはとても感謝を述べる気分ではなかったのです。その理由が6節以降に記されています。6,7a節を見てみましょう。1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。1:7a ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、 6節の後半に「わたしはあきれ果てています」 あります。とても感謝の言葉を述べる気分ではなかったのです。ガラテヤの諸教会の存亡にかかわる誤った教理の問題があったのです。福音が前進するどころか、律法へ後戻りしようとしていたのです。パウロはそれを「ほかの福音に乗り換えようとしている」と述べているのです。「ほかの福音」についての説明が7節です。福音は一つですから「ほかの福音」とは福音にあらざるものです。その正体は割礼派(ユダヤ教主義のキリスト者)の教えです。割礼派の教えでは主イエスを救い主として受け入れるだけでは不十分で割礼を受ける必要があるという教えです。十字架信仰は救いの入り口であって、モーセ律法を守ることで救われるというのです。信仰義認を真っ向から否定するものでパウロには断じて受け入れられないもとです。主イエスの十字架によりもたらされた福音が福音でなくなってしまうからです。今日、先ず覚えて頂きたいことは別の福音はない。福音は唯一ということです。英語では福音をgood newsと言います。なぜ良いお知らせなのかというと、イエスキリストを救い主と受け入れるだけで天国にいけるからです。その他に必要なものは一切ありません。主キリスト・イエスの十字架によってなされた福音に「ほかの福音」(福音にあらざるもの)が混じりこみ、ガラテヤの諸教会が「こんなにも早く」乗っ取られそうになっていたのです。そのことで、パウロはとても驚き憤慨していたのです。ガラテヤの信徒への手紙は戦いの手紙と呼ばれる場合がありますが、その戦う相手は「ほかの福音」(福音にあらざるもの)を広めようとする人です。

鳥のカッコウには托卵という驚くべき習性があります。カッコウは、オオヨシキリの巣を見つけ、そこにあった卵を蹴落として自分の卵を産むのです。巣の持ち主の親鳥はそうとは知らず、卵を孵化させます。孵化したヒナは他の卵を巣の外に捨てるのです。ヒナが、他の卵を捨てるのは自分だけが育てられるようにする為です。この行動は、親から教わったわけではなく、生まれた時から備わっている本能なのです。ドイツの神学者のヘルムート・ティリーケは、このカッコウの本能に譬えて「悪魔は敬虔という巣の中に自分のカッコウの卵を産みつける」と言いました。私たちはどうでしょうか。この悪魔が産み付けた律法主義という卵を知らず知らずのうちに温めてしまってはいないでしょうか。汚れた空気を吸っていると、それが当たり前になってしまい気がつかないものです。今、ここで心を探ってみようではありませんか。

②福音を正しく守り続ける

7b-9節を見てみましょう。1:7bある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。7節の後半に「ある人々があなたがたを惑わし、」とあります。ある人々とは先ほど申し上げて割礼派の人々のことだと思われます。名指しこそ避けていますが、続く8節で「反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」とその罪を断罪しています。9節は強調のための単なる繰り返しではありません。「わたしたちが前にも言っておいたように」とありますので、実際、この手紙を読む人の中には呪われるべき人がいて、その人に向かって発せられているのです。パウロは「呪われるがよい。」と大変厳しい言葉を使っています。憤慨の心が読みとれ、律法になんかさか戻りするな!との叫び声が聞こえます。パウロにとって割礼派の教えは断じて受け入れられない、認めることのできないものなのです。イエスキリストの十字架によって成し遂げられた福音が福音でなくなってしまうからです。パウロはエフェソの信徒への手紙で次のように記しています。エフェソ 2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。人が救われるのは行為によるものではありません。恵みによる信仰のみなのです。行為義認ではなく信仰義認なのです。このことがパウロの徹頭徹尾の福音理解なのです。パウロの時代から今日に至る迄、数えきれない異端が起こり、教会、社会を混乱させ続けています。異端の手口は聖書に独自の教えを付け加え福音を福音でないものとすり替えるのです。私たちは唯一の福音により救われました。私たちはこの唯一の福音を正しく守り続けなくてはならないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはこのことです。福音を正しく守り続けることです。異端には十分、警戒し時に戦わなければなりませんが、一つ注意をしたいことがあります。それは福音の本質でないことは受け入れるということです。私は超教派の宣教団体でも5年間働いていましたので、日本のキリスト教界の実情を良く知っています。細かく分けると日本には200以上の教団教派あるのですが、福音の本質でない嗜好品や献金や賛美の在り方には大きな温度差があります。温度差があっても良いのですが、問題はその温度差を認めずに自分たちの群れの教えこそ正しいと主張して譲らず、相手を罵り、裁いてしまう場合があります。日本のクリスチャン人口が増えない理由の一つとして、この裁き合いがあげられています。是非、福音の本質でない事項は受け入れて参ろうではありませんか。異端には厳しく対処する必要はありますが、福音の本質でない事項は受け入れて参りましょう。

③主はキリスト・イエス

10節を見てみましょう。1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。10節で、パウロは自分自身の宣教活動の基本的性格を述べています。「しているのでしょうか。」と三か所ありますが、最初と最後は修辞疑問文とも言えます。言わんとしていることは「~しているのでしょうか。いやそうではない。」の意味です。人間に取り入ったり、気に入ってもらったりするのであれば、「キリストの僕」ではないからです。僕とはいうまでもなく主従関係を現す表現です。キリストとの主従関係です。人間との主従関係ではないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは主(あるじ)はキリスト・イエスということです。パウロは自信を持って、キリストの僕、主はキリストだと言い切ったのです。キリストとは救い主です、ですから、キリストの僕とはある意味において、使徒に等しい、いや使徒よりも権威のある肩書ではないでしょうか。私たちも恵みによってキリストの僕とされていることに感謝しつつ、自信を持って「キリストの僕主(あるじ)はキリスト・イエス」と言い切りたいと思います。

Today’s point ①福音は唯一、②福音を正しく守り続ける、③主(あるじ)はキリスト・イエス

Thinking time異端に惑わされないためには何が必要でしょうか。