• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年8月15日主日礼拝  

説教題:皆が約束による相続人 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章23節-4章7節

3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。4:1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

ハレルヤ!8月の第三主日を迎えています。先月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその7回目です。先週は、3章15-22節から「律法の効用~キリストは約束されていた~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①神は約束を反故することはない、②律法とはキリストが来るまでの一時的なもの、③キリスト・イエスは約束されていたでした。今日は3章23節-4章7節から「皆が約束による相続人」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①律法の効力が及ばない

23-25節から見てみましょう。

3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。23節には「信仰」と二か所記されていますが、これは22節で記されている通り、「イエス・キリストへの信仰」です。「閉じ込められていました」とありますが、この福音への信仰が「啓示」される日まで、人々は律法の監視下におかれた囚人だったのです。罪の奴隷だったのです。見方を変えれば律法とは、キリストによる救いの到来まで、我々を監視するための後見人のような存在だったのです。先週、3章19節とローマの信徒による手紙3章20節から律法とは罪を自覚させるもので、キリストが来るまでの一時的なものと学びましたが、今日の個所の24節では律法を「キリストのもとへ導く養育係」と述べ、律法を養育係になぞらえています。当時、養育係とは裕福な家庭が雇っていた幼いこどもをお世話する人です。成人となるまで、こどもたちが事故に遭わないように学校へ送り迎えをするのが主な仕事でした。幼い子どもが成長する過程において外せない存在でした。しかし、今や「信仰が現れたので」養育係であった律法は不要なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは律法が存在しても信仰が現れた以上、私たちに対する律法の効力が及ばないということです。誰でも律法主義者になる危険性があります。宗教改革の第一人者であるマルチン・ルターが悪魔から誘惑をされ律法主義に陥りそうになったことがありました。ある夜、悪魔がルターの前に現れました。ルターが犯した罪をリストにして、お前はこんなことをしてきた、こんなこともしてきたと律法的にルターを攻め続けたのですが、ルターは傍らにあったペンを取り、このリストの上に一ヨハネ1章7節の御言葉1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。と書き、その瞬間に悪魔が消え去ったと言われています。ガラテヤの人々は律法に戻ろうとしていたのですが、私たちはどうでしょうか。今ここで心を探ってみようではありませんか。26-29節には16節で述べられたことを発展して描いています。26節を見てみましょう。3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。26節でパウロは「あなたがたは皆」と語りかけます。今まで述べてきたことガラテヤの諸教会の一人一人と直接、関係があることを示しているのです。そして、あなたがたの誰かではなく皆が「神の子」と語ります。「あなたがたは皆」という表現は28節でも使われています。この「あなたがたは皆」という言葉を元日本基督教団総会議長の鈴木正久先生は著書「信仰と自由の手紙―ガラテヤ人への手紙」の中で大変分かり易く解説をしていますのでそのままご紹介します。「わたしたちのうち、だれであれ、このキリスト・イエスにある信仰によって神の子とされないものはないのです。私は体重が重いから空を飛ぶことはできないと思うことはありません。飛行機に乗れば体重の差なんか問題がないのです。同様に、私は罪のしがらみの重荷が入り組んでまとわりついているから、とても神の子として祝福された生活は出来まいと考える理由はないのです。キリストは力強い神の恵みの飛行機です。このわたしを主のみ国へ、主の祝福のもとへ運んでゆく力をもっています。信仰とはこの飛行機にとにかく乗り込むことです。」パウロの口から出てくる言葉は全てキリスト・イエスにある信仰なのです。皆が神の子であるということは割礼でも律法でも行為によってでもなく、ただただキリスト・イエスにある信仰のみによるものなです。使徒ヨハネもこのことを福音書で次のように述べています。1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。27節を見てみましょう。27節に「洗礼を受けて」とありますが、洗礼式とは信仰によってキリストと一つとされたことを表す儀式です。浸礼の場合は通例、白い衣を身に着けるのですが、白は罪や汚れのなさを表すからです。洗礼を受ける者が白い衣を身に着けるように、私たちは十字架に死んで復活をされ今も生きておられる御子を着たのです。キリストご自身を着た私たちも皆神の子なのです。

②皆が約束による相続人

28,29節を見てみましょう。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。28節に「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」とありますが、キリスト者は民族、社会、男女の差を越えてキリストにあって一つとされるのです。キリストにあって神の子とされ、全ての差がなくなるのです。キリストにあって差別はないということです。古来より、紛争や戦争の原因は主義や民族間の対立です。ですから、家族が全員救われ、学校や会社の人が全員救われ、地域が全員救われ、日本が全員救われ、世界が全員救われたら戦争も根絶するのです。福音宣教は民族の壁を越え、戦争の根絶にも繋がるのです。世界の平和のために、このことも覚え祈り続けましょう。29節に「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」とあります。パウロは今までに述べてきたことを再確認しています。(3章7.9,14節を参照)「神の子」=「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」なのだから、なぜ、今更、律法の子に戻ろうとするのかと問うているのです。1,2節を見てみましょう。4:1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく。」とあります。相続人が未成年の場合には全財産を相続する権利があっても自由には相続ができないのです。ですから未成年の相続者は僕と変わらないのです。「父親が定めた期日まで」とありますが、養育係や後見人や管理者は父親が選定していました。当時のローマの法律によるとこどもが14歳になるまでは父の定めた後見人の下に置かれ、財産の管理では25歳になるまで管理人に託されていたそうです。ですから、たとえ正当な相続人であったとして「父親が定めた期日まで」は自分かってに相続が出来なかったのです。3節を新改訳と一緒に見てみましょう。4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。(新改訳改訂第3版)3節に「未成年であったとき」とあります。1,2節でパウロは相続人が、「未成年である間」の例えを用いていますが、「未成年であったとき」とは23節の「信仰が現れる前」を意味します。また、「世を支配する諸霊」と新共同訳では訳されていますが、この原語は「初歩的な要素」が基本的な意味ですので、新改訳聖書の訳「この世の幼稚な教え」の方が良いと思います。私たちは「この世の幼稚な教え」から卒業した「約束による相続人」なのです。4,5節を見てみましょう。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。4節に「時が満ちると」とありますが、天の父なる神がお定めになった時です。続いて、「女から」、「律法の下に生まれた者」とあります。「女から」の意味は、イエス・キリストは乙女マリアから生まれました。イエスは100%神の子であり、100%人間の子でもあるのです。「律法の下に生まれた者」とは、律法を完全に服従させるための義人の意味です。その説明が5節です。「贖い出して」とありますが、贖いをするためには金品などを差し出す必要があります。また、贖いには「買い取られる」の意味もあります。主イエスの十字架という犠牲が払われたことにより私たちは買い取られたのです。律法から解放され、私たちを神の子とするためなのです。

③聖霊により神の子とわかる

6節を見てみましょう。4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。6節に「アッバ、父よ」とありますが、これは今日で言えば「パパ」に相当します。当時、ユダヤ人の子どもたちは自分の父親を呼ぶのに用いていた言葉です。ですから敬虔なユダヤ人にとってこの「アッバ」という言葉を神に対して用いるなどとは夢にも考えていなかったでしょうが、主イエスはこの言葉を十字架にかかる前のゲッセマネの祈りで使っています。マルコ 14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」主イエスと同様に、十字架の御業により神の子とされているキリスト者は天の父なる神を地上の父と同様に親しみを込めて「アッバ」と呼ぶ特権が与えられているのです。ではどうして神の子であることがわかるのでしょうか。それが、「御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実」だからです。ローマの信徒への手紙8章15節にも同様なことが記されています。見てみましょう。8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは神の子の自覚は聖霊の働きということです。キリスト者は内なる聖霊の働きにより天の父なる神を「アッバ、父よ」と呼べるのです。7節を見てみましょう。7節は今日の個所のまとめと言えます。私たちは律法から解放をされているので「奴隷ではなく、子です。」。神の子であるので、当然、「神によって立てられた相続人」なのです。キリスト者には誰もが恵みにより信仰のみによって義とされ、神の子とされ、聖霊を与えられ、永遠の命の権利を相続することができるのです。キリスト者は全員が約束による相続人なのです。

Today’s Point ①律法の効力が及ばない②皆が約束による相続人③神の子の自覚は聖霊の働き 

Thinking Time 相続人とされていることにどう応えますか。