• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年8月8日主日礼拝

説教題: 律法の効用~キリストは約束されていた~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙⑥ 3章15-22節

律法と約束3:15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。3:16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。3:18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。◆奴隷ではなく神の子である3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

ハレルヤ!8月の第二主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその6回目です。先週は、3章1-14節から「主が呪いを受けてくださった」と題して三つのことを中心にお話をしました。①律法的な心に陥らない、②(アブラハムの時代に)福音は前もって伝えられていた、③キリストが(私たちの受けるべき)呪いを受けてくださったでした。今日は3章15-22節から「律法の効用~キリストは約束されていた~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

今日の個所は二分出来ます。15-18節と19-22節です。前半は新共同訳聖書の小見出しが「◆律法と約束」となっている通り、パウロは律法と約束を対比しながら語ります。パウロは3章で先ず、ガラテヤの人達が救われたのは律法を守ったからではなく信仰により義とされたことを宣べ、次に、アブラハムも信仰によって義とされたことを宣べました。そして、この15節からアブラハムとモーセ、つまり、約束と律法を混同させてはならないと語るのです。宗教改革の第一人者であるマルチン・ルターは大学で聖書を教えていたのですが、ガラテヤ書の講義の中で約束と律法について次のように分かり易く解説をしています。神がアブラハムに約束(祝福)を与えたとき、「私が~を与える」「私が~を増やす」と表現しています。神側の主権によるご計画と恵みがわかります。人間側の行動にかかわらず主権は神にあるのです。一方、律法には「あなたは~すべき」「あなたは~してはならない」と人間側の責任、義務が強調されています。つまり、人間側の行動により、その結果が変わるのです。律法を守れば祝福、守らなければ呪いです。

①神は約束を反故することはない

では、15,16節から見て参りましょう。3:15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。3:16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。3:15 Brethren, I speak after the manner of men; Though it be but a man’s covenant, yet if it be confirmed, no man disannulleth, or addeth thereto.KJB)「兄弟たち」とあります。3章1節では「物分かりの悪いガラテヤの人たち」と厳しく述べていますので、手紙を書き続けているうちに憤りが和らいだのでしょうか。いつものように「兄弟たち」と親愛の情を込めて語り始めます。「遺言」とあります。パウロが説明をしている通り、一度(ひちたび)、遺言が有効となるとそれを無効にしたり、何かを加えたりすることは出来ません。人間の遺言とはそれほど厳粛で厳格なものなのです。この「遺言」と訳された言葉は原語のギリシャ語では契約の意味です。ですから、新改訳聖書では「契約」、多くの英語の聖書ではcovenant(契約)と訳されています。人間の遺言(契約)ですらそうなのですから、神が一度、結んだ契約が途中で無効になったり、変更になったりすることなどありえないのです。この約束は神がアブラハムにしたものですが、それは「アブラハムとその子孫」つまり、「キリスト」を指し示しているのです。17節を見てみましょう。3:17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。17節は15節に揚げた問題に話を戻しています。パウロは律法が与えられたのはアブラハムに約束が与えられた「四百三十年後」と語ります。この430年は何を根拠にしているかというと出エジプト記の御言葉です。12章40節を見てみましょう。12:40 イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。430年間とはへブル人がエジプトに住んでいた期間です。パウロは律法の授与をこの個所から汲み取っているのです。先週、お話したようにモーセ律法はアブラハムの契約より約400年後にできたものです。そして律法が出来たからといってその「約束を反故にすることはないと」とパウロは語るのです。シナイ山で十戒は与えられましたが、約束は反故されることはありません。それは、神は生きておられるお方で真実なお方だからです。マルチン・ルターが「もし、律法によって約束が廃棄され、律法の行為によって義とされるのであれば、それは神を虚言者とすることになる。」と言った通りです。続く18節でパウロは「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。」と語り、律法と約束を明確に区分しているのです。①神は約束を反故することはない。神は約束を必ず守ります。一つ注意してほしい事があります。パウロは律法そのものを根絶しようとしているわけではありません、「律法の下にいる」という考え方を否定しているのです。フィリップ・ヤンシー(世界で1400万部の売り上げを誇るキリスト教の信仰書などの著述家)の著書にWhat’s So Amazing About Grace? (1997)邦訳『誰も知らなかった恵み』(いのちのことば社)があります。そこには律法(恵みにあらざるもの)の下に自分を閉じ込めてしまった様々な信仰生活について描かれているのですが、二話ほどご紹介します。一人の女性が十代半ばの娘を連れて教会に来ました。離婚の決意をし、牧師と相談をするためです。すると牧師婦人が近づいてきて「離婚をするそうですね。イエス様を愛し、ご主人を愛しているのにどうしてそんなことをするのですか、私にはわかりません」と言いました。この牧師婦人から声をかけられることはまずないのですが、娘の目前でで非難をされ、唖然としてその場に立ち尽くしたのです。また、ある日の礼拝前のことです。母親と小さな男の子が席に座ったのですが、男の子は、横を向いたり後ろを向いたりして、会衆に笑いかけていたのです。ただニコニコしていただけですが、母親は「にやにやするのはやめない!教会なんだから」と大声で叱り、頬を平手うちにしました。そして、少年の頬を涙が伝うのを見た母親は「その方がましよ!」といい、祈りに戻ったそうです。勿論、こんなことばかりが起こるのが教会ではありませんが、福音に生きているつもりが、律法の下に自分を縛ってしまうということが往々にしてあります。御国の相続は約束、信仰によるものです。律法ではありません。この二つを割礼派の教えのように混同してはならないのです。さて、私たちはどうでしょうか。信仰に律法的な考えを織り交ぜてしまってはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみたいと思います。

②律法とはキリストが来るまでの一時的なもの

神がアブラハムの信仰を良しとし、アブラハムを義としたのであれば、なぜ、その430年後に律法が与えられたのか、更にその約1350年後、どうしてキリストが十字架にかかってくださり罪の呪いを受けなければならなかったのでしょうか。パウロは後半の19-22節で約束と区別した律法を、神の救いの歴史の中で改めて正しく位置づけをしようと試みます。律法が定められたには神のご計画のうちで存在の意味があるのです。19節を見てみましょう。3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。「約束を与えられたあの子孫」とありますが、これは16節にも記されていましたが、キリストのことです。「違犯を明らかにするために付け加えられたもの」とありますが、パウロは同じことを言葉を変え、ローマの信徒への手紙3章20節で次のように語ります。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。つまり、律法とは「違犯を明らかにするため=罪の自覚しか生じない」ためのものなのです。19節に「天使たちを通し」とありますが、使徒言行録にも記されています。使徒 7:53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」約束は神から直接、アブラハムに与えられましたが、律法は「天使たちを通し」て間接的に与えられたとパウロは言いたいのです。律法の方が格下と言わんばかりの表現です。20節を見てみましょう。「仲介者」とありますが、これはモーセのことを表しています。仲介者は少なくとも二者間に存在します。仲介者を必要とする律法の二者とは神とユダヤの民です。この神とユダヤの民の両者が条件を満たす限りにおいて有効です。一方、「約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」とあるように、約束を与えたもう神はただお一人ですから、絶対的に無条件なのです。また、「あの子孫が来られるときまでとありますが、パウロはローマの信徒への手紙10章4節で次のように語ります。口語訳で見てみましょう。ロ-マ 10:4 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。律法には条件があり暫定的なものということです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは律法とはキリストが来るまでの一時的なものだったということです。

③キリスト・イエスは約束されていた

21,22節を見てみましょう。3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。21節に「律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。」とあります。律法は神の約束に対立するものではないとパウロははっきりと断定します。続いて「人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」とありますが、この個所の言わんとすることは、「万一、人を生かすことができる律法」があったとしたらそれは神の約束に対立する、しかし、そんな律法はあり得ない。したがって神の約束に対立をするはずがないということです。22節に「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」とあります。着目すべきは律法ではなく「聖書」と記されています。聖書がすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。これは、言葉を換えれば、神がすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたということです。実際、神の言葉である聖書は私たちに罪の自覚を与えますが、それだけではありません、私たちをその罪から救ってくださるのです。そのことが「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」とある通りです。「神の約束」とはアブラハム契約によって祝福が与えられることです。聖書を読むことで私たちは自分の罪を示されます。光であるキリストに出会い永遠の命を持ち信仰生活が始まります。もしも、律法のみが神の言葉であるとしたら私たちは絶望するしかありません。しかし、律法に先立ち、約束があり、律法の後には救い主キリスト・イエスが約束されていたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト・イエスは約束されていたということです。神のなされることは全てがご計画にそったもので、その一つ一つに存在の意味があるのです。

Today’s Point①神は約束を反故することはない、②律法とはキリストが来るまでの一時的なもの、③キリスト・イエスは約束されていた

Thinking Time自覚したままになっている罪はありませんか。

どうしますか。