• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年9月12日主日礼拝 

説教題: 愛を伴う信仰と自由 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙5章2-15節

キリスト者の自由5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

ハレルヤ!9月の第二主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその10回目となります。先週は、ガラテヤの信徒への手紙4章21節-5章1節から「主による自由~律法という奴隷を追い出せ!~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①アブラハム、イサクの霊的子孫、②迫害は続いている、③主により真の自由が与えられたでした。今日は5章2-15節から「愛を伴う信仰と自由」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①割礼主義が人間をキリストから離す

2,3節から見て参りましょう。5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。パウロは2,3節と4,5節で二つの理由から律法を退けます。「わたしパウロはあなたがたに断言します」とあります。この個所には「わたし使徒パウロ」とは記されていませんが、「割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない」と断言をしていて使徒の権威を強く感じます。割礼とはユダヤ人のアイデンティーであり、ユダヤ教徒のシンボルです。パウロが再三にわたり警告をしている律法主事の象徴なのです。そして割礼を受けたユダヤ人には「律法全体を行う義務があるのです」。4,5節を見てみましょう。5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。「キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」とあります。ユダヤ人には律法を厳守する義務がありました。中でも、年に一回の大贖罪日は、ユダヤ人にとって最も聖なる、厳かな日です。大祭司が贖罪の生贄をささげユダヤの民は罪を赦して頂いていたのです。開きませんが出エジプト30章10節やレビ16章2-20節等に記されています。しかし、キリスト者は主イエスの十字架の御業により罪赦され、律法は過去のものとなっているのです。マルチン・ルターは小信仰問答書(結城浩兄訳)であがないについて次のように記しています。「イエスは私をあがないました。 私は道に迷い、呪われた人間でした。 すべての罪、死、悪魔の支配下から、イエスは、私を買い取り、私を勝ち取りました。 それは金や銀で買い取ったのではありません。 イエスさまの聖なる貴い血潮、イエスさまの無実の体 —— イエスさまの死によってです。」律法を守ることで義とされるのであれば神との関係を断ち切ることになります。それは暗黒に落ちるようなものです。神が信じる者を誰一人として例外なく救うため世に遣わした「キリストとは縁もゆかりもない者」となり、せっかく「いただいた恵み」も無駄になってしまうのです。割礼への服従は人間をキリストから離してしまうものなのです。5節に「義とされた者の希望が実現する」とあります。神の恵みから落ちる律法主義者、割礼派の人たちとは天地の差です。そして、この「希望」とは漠然とした希望ではありません。「“霊”により」とあるように聖霊の働きです。パウロはエフェソの信徒への手紙1章14節で次のように述べています。エフェソ 1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。ですから、5節 義とされた者の内に働く聖霊によって希望が与えられ「信仰に基づいて(希望が実現することを)切に待ち望んでいるのです。」と語るのです。6節を見てみましょう。5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく」とあります。パウロは割礼派の教えである救いの条件としての割礼は断じて容認することは出来ませんが、信仰と結び付かない割礼を全面否定していたわけではありません。使徒言行録16章3節からそのことがわかります。見てみましょう。使徒 16:3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。「ユダヤ人の手前」とあるようにユダヤ人への伝道のためです。ひとりでも多くを救いたいとの願いの現れです。決して割礼派の教えに屈したわけではありません。今日、先ず覚えて頂きたいことは割礼主義が人間をキリストから離すということです。信仰を伴わない割礼の有無は問題がないのです。6節の後半に「愛の実践を伴う信仰」とあります。これは信仰から生み出される愛です。信仰の実としての愛で、愛を生み出すような信仰です。信仰によって義とされたキリスト者は、今は信仰の実である愛の実践を行おうではないかとパウロは語るのです。

②悪いパン種はわずかでも取り除く

7-12節ではパウロはほこ先を律法そのものから律法主義者(割礼派)の人にかえて持論を展開します。7-9節を見てみましょう。5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。「よく走っていました。」とあります。ガラテヤの人々は信仰生活をそれることなくまっすぐに歩んでいたのです。「いったいだれが邪魔をして」とありますが、パウロは犯人を知らないわけではありません。割礼派の人々を暗に示しているのです。ガラテヤの人が割礼派の人に惑わされたことよりも割礼派の人々の方が問題なのです。「このような誘い」とは割礼派の人からの誘惑です。これは勿論、ガラテヤの人々を「召し出しておられる方」から、つまり、神からのものではありません。「わずかなパン種」とあります。この個所でのパン種は天国を毒する者。取り除かなければならないものです。パウロはコリントの信徒への手紙一で次のように記しています。 5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。今年、2月から3月にかけて栃木県足利市で大きな山火事(焼失面積167ヘクタール=東京ドーム約37個分)が起こりました。原因は「たばこと推定されています。十分に消されていないたった一本の煙草の火が大山火事になるのです。異端も同じです。パウロの時代から今日に至るまで教会は異端に惑わされ混乱され続けています。ですから、たとえわずかであったとしてもよくないパン種には十分に気を付けなければならないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは悪いパン種はわずかでも取り除くということです。10節を見てみましょう。5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 「主をよりどころとして」とありますが、原語に忠実な新改訳と口語訳の「主にあって」の訳の方が良いと思います。英語の聖書はin the Lordです。パウロは主にあって「あなたがたが決して別な考えを持つことはない」と確信をしています。これは、パウロを強めてくれるお方、主がガラテヤの人々をも強めてくださるに違いないとの信仰の現れです。主に在って信頼すること以外はないのです。このパウロの信頼に対してガラテヤの人々はどうして答えられずにいられるのだろうか。信頼が信頼を呼ぶのです。一方、パウロは割礼派の人たちには厳しくその罪を「あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。」と断罪します。11,12節を見てみましょう。5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。11節に「迫害」とあります。パウロは自身の体験を語り、ガラテヤの人が正しい福音に立ち返るよう呼び掛けています。パウロが受けた迫害をガラテヤの人々は良く知っています。その迫害を受けた理由は福音を宣べ伝えたからです。ですから、パウロは逆説的に「割礼を宣べ伝えている」のであれば迫害を受けることはないと語るのです。パウロがあらゆる迫害に耐えてきた福音の象徴が十字架です。「十字架のつまずき」とあります。当時、十字架はユダヤ人をつまずかせるものとされていました、開きませんがコリントの信徒の手紙一1章17-25節を後で読まれてください。ですから、「割礼を宣べ伝えている」のであれば「十字架のつまずきもなくなっていた」と逆説的に語るのです。12節に「自ら去勢してしまえばよい」とあります。ガラテヤはフリギヤに近く、フリギヤではキュベル神への礼拝が盛んに行われており、キュベル神の祭司や熱心な信奉者は皆、去勢していたのです。「自ら去勢してしまえばよい」とは非常に厳しい表現かもしれませんが、フリギヤの事情に精通していたガラテヤの人々には真にせまった言葉なのです。

③隣人を自分のように愛する

13節を見てみましょう。

5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。「自由を得るために召し出された」とあります。人が救われるという事は自由を与えられることです。罪からの自由であり、魂の自由です。ですから、「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」とパウロは語るのです。「この自由」とは自由奔放、放縦ではありません。肉の思う通りになんでも好き放題にすることではありません。パウロは自由についてコリントの信徒への手紙一で次のように語ります。 6:12 ab「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。キリスト者には全てのことをする自由はありますが、必ずしも益とならない場合があります。例えば未信者を躓かせるような行いは絶対に避けなければなりません。そして「愛によって」とありますが、周りの人のために自分のもっている自由を制限するものも一つの愛です。14節を見てみましょう。5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。14節はレビ記19章18b節からの引用です。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。主イエスご自身もこの御言葉を引用しています。「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ23:38b)。パウロは6節で「愛の実践を伴う信仰」と語りましたが、愛の実践の一歩は人を愛することから始まります。20世紀前半のドイツ文学を代表するヘルマン・ヘッセの作品に「アウグストゥス」があります。『アウグストゥスとは主人公の少年です。少年が生まれた時、お母さんは魔力を持つ老人から「子どもに対する願いをひとつ叶えてあげる」と言われ、母親は「生まれてくる子供が誰からも愛される子になるように」と伝えました。魔力がかけられた少年は人々の愛に包まれて育ちます。しかし、誰からも愛されるあまり、彼は傲慢になり、富と名声を得て、堕落し、悪事を尽くしたのです。あらゆる欲望に満たされても幸福になれない彼は、いよいよ自殺を図ろうとするのですが、魔力をかけた老人が現れました。そこで、アウグストゥスは、老人に「魔力を取り消し、周りの人を愛することができるように」と願ったのです。愛されることを望むよりも、自らが人を愛することのできる人間になれることの大切さを、強く刻みつけてくれる作品です。今日、三番目に覚えて頂きたいことは隣人を自分のように愛するということです。最後に15節を見てみましょう。5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。かみ合い、共食いしている」とあります。これは猛獣同士の争いに使う言葉ですが、パウロは敢えてこの表現を使い、いい加減に目をさまして、もう割礼派の人に惑わされることがないよう、「互いに滅ぼされないように注意しなさい。」と勧告をしているのです。

Today’s Point①割礼主義が人間をキリストから離す、②悪いパン種はわずかでも取り除く、③隣人を自分のように愛する 

Thinking Time悪いパン種はありませんか