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2021年9月19日主日礼拝 

説教題: 実が結ばれる 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

◆霊の実と肉の業 5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

ハレルヤ!9月の第三主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその11回目となります。先週は、ガラテヤの信徒への手紙5章2-15節から「愛を伴う信仰と自由」と題して三つのことを中心にお話をしました。①割礼主義が人間をキリストから離す、②悪いパン種はわずかでも取り除く、③隣人を自分のように愛するでした。今日は5章16-26節から「実が結ばれる」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①自由とは聖霊により歩む自由

16-17節から見て参りましょう。5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。パウロはこの手紙で一貫して、律法からの解放を説き割礼派の教えを断罪してきました。割礼派の教えとはイエスキリストの十字架信仰に加え、律法の教えである割礼を救いの条件に加えたものですから、この教えは主イエスの十字架を真っ向から否定することになります。パウロにとって断じて容認ができなかったのです。また、パウロは律法の存在理由を語りました。律法が定められたのは神のご計画のうちで罪を自覚させるものでキリストが来るまでの暫定定なものとして存在の意味がありました。律法自体は存在しますが、キリスト者にはその効力が及ばないことも語りました。注意しなくてならないことは、私たちの本当の敵は律法ではありません。罪です。パウロ書簡の特長の一つに、二つの物事を対比し、分かり易く説明をすることが挙げられます。今日の聖書個所では「霊」と「肉」がそうです。「霊」とは口語訳と新改訳では御霊と訳されていて聖霊です。肉とありますが、聖書では三種類の意味で肉が使われています。先ず、食べる肉です。次が、肉体です。最後が今日の聖書個所で使われていますが、罪の同義語です。ですから、「肉の欲望」とは「罪から生じる欲望」の意味で解釈をして頂ければと思います。17節に「肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」とあります。聖霊が与えられているキリスト者でこの葛藤を経験しない人はいないでしょう。キリスト者になる以前に罪の言いなりになっていた時には全く感じなかったことです。聖霊の働きです。作者不明ですが、一人の兵士がこの個所を歌った思われるイギリスの古い詩があります。私は人であり、人は混合物である。まさにその誕生の時から。その一部は天から預かり、そして、その一部は地から受けたものなのだから。また、4世紀、正統信仰の確立に貢献した教父アウグスティヌスは少年時代から異教徒的で、大人になっても異教徒的な環境から抜け出すことが出来ずにいました。そのときのことが著書の「告白」にこう書かれています。「二つの意志が私の中にあり、古いのと新しいのとが、肉的のと霊的のとが相争い、両者の争闘が私の心を引き裂いた」と。そんなアウグスティヌスですが、32歳のある日、どこからともなく「取りて読め、取りて読め」との声が聞こえ、すぐに聖書を開くと次の御言葉が目にとまりました。ローマ13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。この御言葉によりアウグスティヌスは真に回心をしたと言われています。18節を見てみましょう。5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。18節に「霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」とあります。パウロはキリスト者の自由と自主性とは人間の欲望を満足させる自由ではなく、聖霊による生活を歩む自由だと語ります。今日、先ず覚えて頂きたいことはキスト者の自由とは聖霊により歩む自由ということです。

②聖霊により実が結ばれる

19-21a節を見てみましょう。5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、5:20a 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。「肉の業」とあります。一言で言えば「罪」です。キリスト教が教える罪です。この個所は罪の見本市、罪のリストと言えます。パウロはこの罪のリストに類するものを他の書簡でも好んで使っています。開きませんがローマ1章29-31節、エフェソ5章3-5節等にも同様なリストがありますので、後ほど読まれてください。このリストは四つに分類することが出来ます。「姦淫、わいせつ、好色」とありますが、性的な罪です。自分自身に対する罪ですので対自関係の罪です。対人関係の罪にもなりえます。「姦淫」と訳されている原語はポルネイア(πορνεία)で英語のポルノの由来です。当時、このような性的罪は異教の祭りに付随していたと言われています。ですから続いて異教的な罪である「偶像礼拝、魔術」を挙げているのです。これは対神関係の罪です。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」は兄弟愛を破る罪と言え、対人関係の罪です。「泥酔、酒宴」は不節制の罪で、対自関係の罪です。いずれの罪も対神関係の罪に集約が出来るのですが、今日の聖書個所にはこの対人関係の罪が多く記されていることに着目をしたいと思います。その理由は、愛の欠如だと思います。 後程、詳しくお話しますが、22節に記されている「霊の結ぶ実」の筆頭が愛であり、また、今日の聖書個所の最後の御言葉 5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。からもわかると思います。そして、「その他このたぐいのもの」とあるようにこの悪徳表ともいえるリストにあるものだけが罪ではありません。このリストにないものなら大丈夫だろうという安直な考えにパウロは釘を刺し、更に、「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」とパウロは厳しく断罪をします。この個所だけを見ると主イエスを救い主と受け入れれば誰でも神の国に行けるという福音と矛盾するのではないかと思うかもしれませんが、そうではありません。コリントの信徒への手紙二 3:18を見てみましょう。 3:18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。昔、私が、福音を初めて聞いたときに「これは良い知らせかもしれない。もしこれが本当なら、好き勝手、やりたい放題に人生を過ごし、最後の最後でキリストに赦しを請えば良いのだ」などと思いましたがそうはなりませんでした。それは聖霊の働きです。既に教会に導かれた時点で聖霊が働いているのです。そして、主イエスを救い主と受け入れた瞬間から聖霊が内に留まりはじめます。神学用語でいえば聖化のスタートです。この内住の聖霊の働きにより日々、作り変えられ最終的にはキリストと同じ姿まで成長をさせて頂けるのです。勿論、キリスト者でも罪は犯します。しかし、キリスト者の罪は点です。罪を犯し続ける線にはならないのです。私たちの内に住まれる聖霊のお働きです。開きませんがエフェソ 4章13節 にも同様な御言葉がありますので、後ほど読まれてください。22-23節を見てみましょう。5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。22節からパウロは、「肉の業」と対比して聖霊の働き、「霊の結ぶ実」について語り始めます。具体的には「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と九つの徳目を挙げています。「霊の結ぶ実」の実は原語のギリシャ語では単数形ですので、この実は一房のぶどうのようなものと考えることが出来ますし、最初に記されている愛の具体的な表れが残りの八つの徳目とも解釈が出来ます。いずれにしても、聖霊の働きにより、ここに記されている九つの徳目の実の全てを結ぶということなのです。ですから、愛という実を結んだら節制という実を結ばないということはないのです。逆に、節制という実を結んだら愛という実を結ばないということもないのです。もし何かが欠けていると感じてしまうのであれば、完全に実を結んでいないのです。パウロはこの聖霊の働きに対して「これらを禁じる掟はありません。」とダメ押しを加えています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは聖霊により実が結ばれるということです。聖霊の実は私たちの人格に結ばれ現れるのです。聖霊の満たしを求めましょう。

③日々、十字架を見上げる

4節を見てみましょう。5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。このように「霊の結ぶ実」を持つキリスト者とは「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」のです。勿論、これは言うまでもなく、自分で十字架に付ける行為という意味ではありません。この手紙の2章19-20節の御言葉に記されている通りです。2:19わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。自分が十字架につけたのではありません。キリストが十字架で死なれた時、私たちの肉(罪)もキリストとともに死んだのです。このことを信仰によって受け入れたのです。これが、「キリスト・イエスのものとなった人たち」であり、キリスト者に他ならないのです。キリスト者は主イエスを信じて従う決心をしたときに、自己中心的な肉の願いを自分から剥ぎ取り、十字架に付けられます。しかし、十字架につけられた罪はともすると外れてしまうことがあります。ですから、定期的に十字架を見上げる必要があるのです。ヘブル書の記者が語る通りです。12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(新改訳)今日、最後に覚えて頂きたいことは日々、十字架を見上げるということです。そこには自分の罪が張り付けられていることを見ることが出来るのです。パウロは続く25,26節で聖霊の導きについて語ります。25-26節を見てみましょう。5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。5:26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。そして、キリスト者とは聖霊によって生まれかわったもので、「霊の導きに従って生き、霊の導きに従ってまた前進」するものなのです。聖霊の支配に服従して歩む人生には本当の自由があります。愛による自由とも言えます。ですから、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」ことはやめなければならなにのです。もし、他のキリスト者と自分を比較して虚栄に走ると優越感を持って他人を裁いたり、劣等感を抱いて他の人々をそねむようになってしまったりするのです。ですから、パウロはフィリピの信徒への手紙で次のように語ります。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。「わたしたちは到達したところ」の部分は「わたしたちは聖霊の導きで到達したところ」と言葉を補うとその意味が一層、明らかになります。信仰者の力、動力とは聖霊の力に他ならないのです。聖霊に導かれ、聖霊に満たされ御霊の実を結ばせて頂こうではありませんか。

①自由とは聖霊により歩む自由、②聖霊により実が結ばれる、③日々、十字架を見上げる

自分の力に頼り過ぎてはいませんか。どうしますか。