• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年9月26日主日礼拝    

説教題:キリストの律法~主の愛に押し出される~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節

信仰に基づいた助け合い6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。6:6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

ハレルヤ!9月の第四主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその12回目となります。先週は、ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節から「実が結ばれる」と題して三つのことを中心にお話をしました。①(キリスト者の)自由とは聖霊により歩む自由、②聖霊により実が結ばれる、③日々、十字架を見上げるでした。今日は6章1-10節から「キリストの律法~主の愛に押し出される~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主の愛に押し出される

1節から見て参りましょう。6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。1節に「不注意にも何かの罪に陥ったなら」とあります。この箇所の罪は原語では「知らずに横道にそれた行為」という意味です。先週、学びましたが、パウロはこの手紙の5章16節で次のように語りました。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」しかし、現実はなかなかそういかないものです。知らず知らずのうちに横道にそれてしまうものなのです。ですから、聖霊に導かれているキリスト者が、罪を犯してしまった人を「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と諭しているのです。「柔和」とはこれも先週、学んだように「霊の結ぶ実の一つ」(523節)です。愛の一つの形です。私たちは他人の罪や欠点に直面したときに「霊の結ぶ実」で対応をしているでしょうか。創世記に記されているノアの物語から学ばされる場面があります。洪水後、ノアはブドウの栽培を始めたのですが、ある日、ブドウ酒を飲み過ぎて裸で寝てしまいました。ノアの息子のハムは父親の大失態を目撃するのですが、何もすることなく二人の兄のセムとヤフェトに伝えました。セムとヤフェトのとった行動を現代訳聖書で見てみましょう。9:23それを聞いたセムとヤペテは、父親の弱さに同情し、父親の醜態を見ないように後ろ向きの姿勢で、服を持って、父親の裸を覆った。」私たちはハムでしょうか。あるいは、セムとヤフェトでしょうか。心を探ってみたいと思います。後半に「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」とあります。以前にもお話をしましたが、悪魔は誰でも誘惑をします。自分は正しく生きているから大丈夫だ、聖霊に満たされているから大丈夫だなどと決して思わないことです、そう思う時点でまんまと悪魔の策略にはまり傲慢になってしまっているのです。2節を見てみましょう。6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。「互いに重荷を担いなさい。」とあります。キリストが私たちの重荷を負ってくださるように私たちも重荷を負いあうのです。キリスト者の生き方とは人は人、我は我ではありません。お互いに重荷を担う生き方です。それによって「キリストの律法を全うすることになるのです。」着目すべきことは律法ではありません、「キリストの律法」です。パウロが戻るなと訴えていたあの律法ではありません。これは新しい律法で、愛の律法ともいえるものです。主イエスは次のように語りました。ヨハネによる福音書13章34節を見てみましょう。13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。「キリストの律法」とは互いに愛し合うことなのです。ですから、パウロはガラテヤの人々へ互いに重荷を負いながら愛し合いなさいと勧めているのです。重荷を負い合うという行為は愛の現れなのです。ところで、この互いにという言葉には注意が必要です。お互いにという言葉には、落とし穴のようなものがあります。両者が合意しなければ互いにということにはならないと思ってしまってはいないでしょうか。誰かが自分を愛してくれたからその人を愛するではありませんし、誰かが自分を愛してくれないからその人を愛せないというのでもありません。「わたしがあなたがたを愛したように」。とあります。これは単にキリストが愛したようにというよりも、キリストの愛によって、私たちの愛が周りの方に押し出されるのです。その押し出された愛で愛し合いなさいという意味なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主の愛に押し出されるということです。

②自分の負うべき責務を果たす

3節を見てみましょう。6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。「自分をひとかどの者だと思う」とあります。3節は私たちの虚栄心から来る高慢について記されています。周りの人の重荷を避け、裁いたり、比べたりして自分を立派な人物だと思ってしまうのは自己欺瞞に他なりません。パウロはローマの信徒への手紙で次のように記しています。ロ-マ2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。人間の性質はパウロの時代も今もかわりがありません。ですから、パウロは続く4節でこのように語ります。6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。自分の行いを吟味してみなさい。」とあります。自己欺瞞で自分を誇る人のよりどころは、他人との比較です。御前にて、自分の一切の行いを見つめた場合、誰一人として誇ることができるでしょうか。ですから、パウロは続いて「自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」と語るのです。この箇所は少しわかりにくい文章ですが、意味するところは誇るのべきものはキリスト以外にはないもないという意味です。「他人に対しては誇ることができないでしょう。」とは遜りから来ています。「自分に対してだけは誇れる」とはどういう意味でしょうか。パウロはコリントの信徒への手紙二で次のように述べています。12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」。自分の弱さゆえに主イエスの力が現れるのです。ですから、「自分に対してだけは誇れる」とパウロは語るのです。5節を見てみましょう。6:5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。この個所をみると2節の「互いに重荷を担いなさい。」と矛盾をするのではないかと思うかもしれませんが、そうではありません。日本語の聖書では両節とも重荷と訳されていますが、原語では2節と5節の意味は原語では異なります。 6:2Bear one another’s burdens, and so fulfill the law of Christ.6:5For each one shall bear his own load.英語(NKJV)ではburden(重い荷物)とload (割り当てられた仕事量)と訳し分けられています。2節の重荷と訳された原語の意味は、あやまちの結果の重圧です。5節の重荷と訳された原語の意味は、責任や義務という意味です。ですから、5節は人にはそれぞれ自分の行動に対して責任を持たなければならないという意味です。自分の負うべき責務を果たすことが出来るからこそ、お互いの重荷を担うことが出来るのです。今日、二番目に覚えていただきたいことは自分の負うべき責務を果たすということです。 6節を見てみましょう。6:6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。6節に「御言葉を教えてもらう人、教えてくれる人」とあります。「御言葉を教えてもらう人」とは信徒の方で、「教えてくれる人」とは牧師や伝道者です。ガラテヤの教会は割礼派の教えに惑わされていたので、福音を正しく伝えている牧師や伝道者に経済的援助が出来ていなかったものと考えられます。パウロ自身はテントメーカーとして自給伝道をしていましたが、コリントの信徒への手紙一で次のように述べています。9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。福音を正しく伝えている牧師や伝道者に経済的援助を軽んじることは彼らをお立てになった神を軽んじることに繋がります。ですから、続く7節で6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。と警告をするのです。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」とありますが、ガラテヤの人々がこのまま、神と神に立てられている人たちを軽んじ続けるのなら、ガラテヤの人たちはその結果を刈り取ることになるのです。真の福音から離れ永遠の祝福を失ってしまうのです。また、この個所は、信徒間同士の相互援助について述べたものとも解釈が出来ます。お互いに「持ち物」を惜しみなく分かち合う者に神は豊かに報いて下さるのです。逆に、自分のためだけに「持ち物」を独占するものに報いはないのです。コリントの信徒への手紙二に記されている通りです。9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。

③神の法則は霊の世界も支配する

8節を見てみましょう。6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。「自分の肉に蒔く者」とあります。割礼派の教えに惑わされ続け、お互いに重荷を負うことも経済的援助や持ち物も分かち合うこともせず、自分の利益を図る者の意味です。そのような者は自ら「滅びを刈り取り」ます。一方、「霊に蒔く者」とはお互いに重い荷を負い合い、経済的援助をしつつ、持ち物を分かち合う者の意味です。割礼派の教えに惑わされる以前のガラテヤの人々のあり方とも言えます。これらの人々は「永遠の命を刈り取ります」。蒔いた物の刈り取りとは作物という自然界だけではなく霊の世界をも支配している神の法則なのです。今日、最後に覚えていただきたいことは神の法則は霊の世界も支配するということです。9,10節を見てみましょう。6:9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。9節と10節に「善を行いましょう。」とありますが、善とは愛の業です。この愛の業は教会の中と外に分けることが出来ます。先ず、教会の中の愛の業とは交わりです。この交わりとはともに聖書を学び祈ったり、経済的な支援をしたりすることです。教会の外の愛の業とは福音宣教やボランティアなどの社会奉仕もそうです。私の母教会は熊本県の阿蘇市にある単立の教会ですが、5年前の熊本大地震で私の母教会も壊滅的な被害を受けましたが九州キリスト災害支援センター(略称:九キ災)の働きで回復をしました。心から感謝をしています。愛の業は多くの犠牲を伴う献身的な奉仕ですが、「飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取る」のです。また、「すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して」おこなうのです。この個所は、英語の諺Charity begins at home.(善意はまず家庭から)を彷彿させ、この諺のキリスト教的解釈とも言えるのではないでしょうか。

Today’s Point①主の愛に押し出される、②自分の負うべき責務を果たす、③神の法則は霊の世界も支配する

Thinking Time自己欺瞞になってはいませんか。どうしますか。