• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年9月5日主日礼拝  

説教題:真の自由~律法主義を追い出せ!~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙4章21節-5章1節

二人の女のたとえ4:21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。4:22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。4:23 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。4:24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。4:25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。4:26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。4:27 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」4:28 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。4:29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。4:30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。4:31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

ハレルヤ!9月の第一主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその9回目となります。先週は千葉栄光教会の60周年記念合同礼拝で、私たちの教会での礼拝はありませんでしたので、復習から始めましょう。この手紙はパウロが導いて生まれたガラテヤの諸教会の人々が異端である割礼派の教え(救いはキリスト信仰と割礼)に惑わされてしまったため、真の福音に戻って欲しいことを切望し書かれたものです。この手紙の主題が2章16節に記されています。

 2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。先々週は、4章8-20節から「パウロの願い~律法に戻るな!~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①神に知られている②背後の働きも重要③律法に戻ってはいけないでした。今日は「真の自由~律法主義を追い出せ!~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①アブラハム、イサクの霊的子孫

21-22節から見て参りましょう。4:21 わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。4:22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。今日の聖書個所で、パウロは二人の女性とその子どもたちを比較対照しつつ、律法についての持論を展開しています。先ず、「わたしに答えてください。」という少し厳しい呼びかけで始まります。先月、学びましたが、律法とは信仰が現れる前の養育係で罪を自覚させるものにすぎなかったのです。ですから、律法の下に留まり続けるのであれば、イエス・キリストの十字架上で流された血が無意味なものとなってしまうのです。「律法の言うことに耳を貸さないのですか。とあり、続く22節以降で律法(創世記)を引用し福音の恵みを語ります。22節に「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれた」とありますが、これは創世記16,17章に記されているアブラハムの二人の息子のイシュマエルとイサクのことです。パウロはこの二人が誕生した出来事をこれから語ることの例えとして説明をするのです。先ず、イシュマエルとイサク二人が誕生した経緯を簡単にお話します。アブラム(アブラハム)と妻のサライ(サラ)は高齢となりましたが、子どもに恵まれませんでした。そんなある日、サラは夫のアブラハムに一つの提案(創世記16:2)をします。16:2 サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。これは当時の慣習です。こどもが出来ない場合、夫が妻の女奴隷と関係を持ち、子を授かることが認められていたのです。そして、アブラハムが86歳の時にイシュマエルが誕生しました。ですから、イシュマエルの誕生は人間的な思い、人間的な策での誕生です。しかし、その13年後、アブラハムが99歳の時に、神がサラの胎を開き、イサクが与えられたのです。17:19 神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イサクの誕生は人智をはるかに超えた神の御業による誕生です。ですからパウロは23節でイシュマエルとイサクのことを「女奴隷の子は肉によって生まれた」、「自由な女から生まれた子は約束によって生まれた」と語るのです。前者が律法を指し示し、後者は福音を指し示しています。24,25節を見てみましょう。4:24 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。4:25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。24節に「別の意味が隠されています。」とありますが口語訳と新改訳では「比喩」と訳されています。パウロは引き続き比喩を使いながらイシュマエルとイサクの関係を語ります。25節にかけて「子を奴隷の身分に産む方=シナイ山=ハガル=今のエルサレム」とあります。シナイ山とはモーセ律法が授与された場所です。律法の総本山のような場所です。ですからパウロはハガルをシナイ山にたとえたのです。真の福音を語っていたエルサレム教会が、今や律法主義的に陥ってしまったと語るのです。26,27節を見てみましょう。4:26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。4:27 なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」イザヤ54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。「他方」と始まり、今のエルサレムとの比較をします。パウロは「天のエルサレム=自由な身の女=わたしたちの母」と語ります。続く27節でパウロは自分の主張を裏付けるためイザヤ書54章1節の御言葉を引用します。「子を産まない不妊の女」とあります。イスラエルの民はバビロンに捕囚されてしました。その荒れ果てたエルサレムをさしています。その荒れ果てたエルサレムも回復するとの預言です。また、「子を産まない不妊の女」とは長年不妊であったサラをも意味します。そして、「夫ある女」とは、捕囚以前のエルサレムのことで、ハガイを意味します。パウロはこの個所で約束通りに、サラから神の民が増えたことを伝えているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリスト者とはアブラハム、イサクの霊的子孫だということです。アブラハムの霊的子孫ではありますが、イシュマエルの霊的子孫ではありません。

②迫害は続いている

28,29節を見てみましょう。4:28 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。4:29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。「イサク」とあります。サラとハガイ、約束と律法、「天のエルサレム」「今のエルサレム」と比較してきたパウロは「約束の子」のイサクと「肉によって生まれた」イシュマエルを比較対照しながら更に話を展開します。ガラテヤの人々はユダヤ人ではなく異邦人ですが、約束により、信仰によって「天のエルサレム」の者とされたものです。一方、割礼派、律法主義的なキリスト者たちは「肉によって生まれた」イシュマエルと同様に律法の子であるから、「天のエルサレム」、神の国を継ぐことは出来ないと語ります。事実、福音はその後も異邦人の中で広がり続けましたが、割礼派のキリスト者たちはいつの間にかその存在が消えてしまったという歴史が示す通りです。パウロはガラテヤの人々にあなたたちはイサクと同じ「約束の子」だと訴えているのです。29節に「肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、」とあります。イシュマエルがイサクを迫害したの意味です。創世記 21:9 を見てみましょう。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、このときイシュマエルは13歳でイサク0歳児だったと思われます。この個所にはイシュマエルがイサクを迫害したとは記されていませんが、「からかって」と記されています。また、弓矢に長じたイシュマエルがイサクを殺そうとしたという口伝があったそうです。いずれにせよ、パウロは年長のユダヤ教が生まれたばかりのキリスト者、教会を迫害したと述べているのです。今日、日本ではクリスチャンというだけで迫害を受けることはないと思いますが、世界に目を向ければそうでありません。パウロの時代から今日に至る迄、迫害は続いています。二年ほど前のデーターですが、アジアではキリスト教徒の3人に1人が頻繁に迫害に直面しています。特に、中国では約1億人のキリスト教徒の約半数が迫害に遭っています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは、迫害は続いているということです。迫害に遭っている兄弟姉妹のため、また、迫害に遭わないよう祈りましょう。30.31節を見てみましょう。4:30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。4:31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。 30節は創世記21章10節からの引用です。サラがアブラハムに訴えた言葉です。 21:10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」30節の「女奴隷とその子」、「あの女とあの子」とは直接的にはハガルとイシュマエルのことですが、割礼派(律法主義者)を意味します。エルサレム教会を中心として、割礼派(ユダヤ主義、律法主義)の勢力が増え、パウロが命がけで立て上げたガラテヤの諸教会さえもその影響を受けてしまっていたのです。パウロは福音と律法の共存をきっぱりと否定し、その断絶をここに宣言したのです。この手紙でパウロは律法に遡ろうとしているガラテヤの人々を嘆き、律法になんか戻るなと訴え続けてきますが、今日の個所ではさらに語気を強めて律法主義を追い出せと訴えているのです。

③主イエスにより自由とされた

5章1節を見てみましょう。5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」とあります。5章1節は今日の聖書個所の結論です。ここにはキリストの名前がはっきりと記されています。ハガルの比喩を使うことも、アブラハムの信仰を使うこともなく、ただただ、キリストが完成された御業を宣言しているのです。そして、この宣言に基づいてガラテヤの人々に「しっかりしなさい。」と語り、律法という「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と勧告をしているのです。私たちは主イエスにあって、律法という奴隷の身から贖われ真の自由を得たのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは、主により真の自由が与えられたということです。注意して頂きたいことはこの自由はなんでも好きかって出来るということではありません。自由と奔放とは異なります。この自由は律法からの解放です。律法とは罪を自覚するものです。罪のあるところには自由がありません。罪を犯したダビデは次のように告白をしています。詩編32編3,4節と詩編51編12節を口語訳聖書で見てみましょう。 32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。 32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。 51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。罪を犯した者に真の自由はありません。この憐れな罪びとを罪から解放するために主イエスはこの世に人間として生まれ十字架に掛かられたのです。私たちはこの十字架により霊的な真の自由を謳歌することが出来るのです。これが福音です。ですから「奴隷の軛に二度と」バックスライドしてはならないのです。

Today’s  Point①アブラハム、イサクの霊的子孫、②迫害は続いている、③主により真の自由が与えられた

Thinking Time主から赦して頂くことはありませんか。どうしますか。