• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021.11.17聖書の学び

本日は、コリントの信徒への手紙一1章12,13節から「壁が崩れるよう祈ろう!」と題し、短くお話をします。

1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。

この箇所を読むと初代教会の時代から既に派閥があり、使徒パウロがそれをたしなめていたことがわかります。主イエスが十字架に掛かったエルサレムのゴルゴダの丘の上に、聖墳墓教会があります。この教会堂はキリストの墓の上に建てられたと言われていて、管理は東方正教会(ギリシャ正教)、アルメニア使徒教会、カトリック教会、コプト正教会、シリア正教会の複数教派による共同管理となっています。会堂は長らく修復が必要な状態であったのにもかかわらず、派閥意識により改築がはかどりませんでした。修繕に着手したのが1964年で1968年に終了したのですが、今でも会堂内での争いは続いているそうです。一日中それぞれ何らかの教派によるミサ・聖体礼儀などが行われています。この状態を英国のある新聞記者は「教会のベトナム」と書きました。資本主義陣営と社会主義陣営とに二分し、多くの国が参戦したベトナム戦争になぞった表現です。私たち一人一人のために主イエスが十字架に掛かってくださったその場所で、お互いに兄弟姉妹であるキリストの僕が、縄張り争いをするかのように礼拝の競争をしていることは本当に悲しいことです。教派間の対立は聖墳墓教会に限ったことではありません。残念ながら今日の日本でも存在します。かっては、何々の群れとは一切、交流をしない旨をホームページ上で公表していた教団もあったほどです。教派をもたらすものは神学の異なりです。神学は必要なものですが、人間が作り出したものです。神学が異なっても福音は一つです。もし、福音が異なればそれはキリスト教ではありません。東日本大震災後、ある東北の教会の牧師がこう語りました。「計り知れないものを失ってしまったが、得たものも大きい」と。これは、震災後、神学の差ゆえ、それまで付き合いがなかった教団、教派の方たちと力を合わせたボランティア活動が始ったことがきっかけで、交わりが生まれ、ともに祈り合える関係になったのです。教団、教派間の壁が日本のリバイバルを妨げている要因の大きな一つです。壁が崩れるよう祈りましょう!