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2021年5月19日 聖書の学び

本日は、イザヤ書1章4節から「神を侮るな!」と題して短くお話をします。

 1:4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。預言者イザヤがイスラエル史上に現れたのは紀元前740年でした。これは時のユダヤの王ウジヤ(別名アザルヤ)が死んだ年です。イスラエルは既に北のイスラエルと南のユダに分裂をしていた時です。イザヤの活動は約40年続きました。「イスラエル」は神に選ばれた民です。それにも係わらず、その選民が神との正しい関係を続けられなくなってしまっていたのです。その大きな理由が「侮り」です。侮るとは辞書によれば「人を軽くみてばかにする。軽蔑する。見下す。」の意味です。自分たち創られて、神の民としてくださったお方を神と思わない。いい加減に考えてしまったのです。初めの人類であるアダムとエバも神の言葉を侮りました。神の言葉とは一点一画、変えられるものではありませんが、悪魔は言葉巧みに神の言葉を侮らせたのです。その結果、禁断の木の実に手を出してしまったのです。(創世記3章)イスラエルもまた、信仰に慣れて、いつの間にか神を疎んじ、侮るようになってしまい、その結果、様々な災いがイスラエルとユダに降りかかりました。分裂から始まり、王族同士の婚姻関係があった時期もありますが、基本的に対立し、北のイスラエルは722年、アッシリアに滅ぼされ、南のユダは586年、バビロンに滅ぼされてしまいました。では、神を侮るとは具体的にどういうことなのでしょうか。先ず、神は全知全能のお方であります。その神を信じていると言いながらも、自分自身や他のものに頼ってしまっているとすれば、侮りです。次に、神は聖なるお方です。一点の汚れもない完全に聖なるお方です。その聖なるお方にたいして、これくらいの罪ならいいだろうと勝手に解釈をしてしまます。これも侮りです。また、神は義なるお方です。一点の不義をも認めないお方です。その義なる神に対して、人間の正しさをもって、歩もうとするのであれば、これも侮りとしかいいようがありません。老子の言葉に「天網恢恢疎にして漏らさず」があります。意味は、「天が悪い人を見つけ出すために張り巡らされた網の目は粗野で粗いかもしれないが、悪人は誰一人として逃すことはない」です。神は見ているのです。 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙で次のように記しています。 6:7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。私たちは、神を侮ってはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみましょう。