• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年7月24日主日礼拝

説教題:約束を誓われた神~愛の業を行おう~ 聖書箇所:ヘブライ人への手紙6章9-20節

6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。◆神の確かな約束6:13 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、6:14 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。6:15 こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。6:16 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。6:17 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。6:18 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。6:20 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。

ハレルヤ!7月の第四主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその10回目です。先週は5章11節-6章8節を通し、「初歩から卒業する」と題し三つの事を中心にお話をしました。一人の問題は教会全体の問題②成熟を目指す、③福音から脱落しないでした。今日は、6章9-20節を通し、「約束を誓われた神~愛の業を行おう~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀お互いに愛の業を行う

9節から見て参りましょう。9節はAlive訳がわかりやすいのでAlive訳も見てみましょう。6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。6:9愛する友よ。そうは言っても、すべてが、あなたがたに当てはまるわけではないだろう。私は、あなたがたが救いにふさわしい実を結んでいるものと、信じている。(Alive訳)「しかし、愛する人たち、」、「愛する友よ。」(Alive訳)とあります。この手紙中、「愛する人たち」、「愛する友よ。」という表現が使われているのはこの箇所だけです。続いて、「そうは言っても、すべてが、あなたがたに当てはまるわけではないだろう。私は、あなたがたが救いにふさわしい実を結んでいるものと、信じている」(Alive訳)とあります。著者はこの手紙の受取り人が霊的に成長していないと厳しい警告をしました。しかし、「愛する友よ。」(Alive訳と優しく呼びかけ、この手紙の受取人の全てが霊的な幼子ではないだろうと語るのです。植物は若木の場合に実を結ぶことはありません。桃栗三年柿八年と言いますが、実がなるのに桃や栗では三年かかり、柿にいたっては八年もかかるのです。人間でも大人にならなければ結婚し子どもをもうけることは出来ません。著者は受取人の中には成長をした人もいると確信し、「救いにふさわしい実を結んでいるものと、信じている」(Alive訳)と語るのです。では、「救いにふさわしい実」とはなんでしょうか。10節に記されています。10節を見てみましょう。6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。「救いにふさわしい実」とは「神の名のために示したあの愛」です。そして、その実は「聖なる者たちに以前も今も仕えることによって」実るのです。つまり、「救いにふさわしい実」はキリスト者同士の愛に基づく奉仕を通して実るものなのです。愛の業です。主イエスはヨハネによる福音書で愛についてつぎのように教えています。ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

キリスト者同士であってもお互いに愛によって仕え合うことは難しい場合があります。中には気の合わない人もいるでしょう。会いたくない人もいるでしょう。それ故に集会を休んでしまうことはありませんか。しかし、それこそが悪魔の手口なのです。悪魔の策略に陥ってはいけません。神は私たちが成長し愛の業を互いなすことを期待しています。そのキリスト者がした愛の業を神は「お忘れになるようなこと」ないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはお互いに愛の業を行うということです。

②神が約束を誓われた

11,12節を見てみましょう。6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。約束されたもの」とありますが、来るべき世、天国の意味です。先週もお話ししましたが、信仰生活において大切なことは成長することです。聖霊様に満たされ着実に成長をすることです。三歩歩いて二歩下がるときもあるかもしれませんが着実に成長をするのです。救われた喜に満足し、そこに安住してはいけないのです。霊的な幼子から成長をするのです。そうでないと背教の危険に晒し続けられてしまうのです。「信仰と忍耐とによって」とあります。単に苦難の中にあって耐え忍ぶことではありません。信仰を働かせて希望をもち忍耐をすることです。「希望」は漢字で希な望みと書きます。私は昔、希望高校に入学が出来ませんでした。希な望み。高望みだったのです。希望は単なる望みではありません。例えば、今晩TVで好きなドラマを見たいと思っても、信仰を働かせる必要はないと思います。希望と信仰の関係は、希望があるところに信仰を働かせるのです。希な望みであるがゆえに信仰を働かせる必要があるのです。キリスト者のゴールである天国を目指しての歩むには様々な障害があります。ですから、希望を持ち信仰を働かせて切り抜け前進をする必要があるのです。13節を見てみましょう。6:13 神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い13節以降には神が約束をされたこと、誓われたことについて記されています。この誓いは、目上の者から目下の者へのケースです。例えば、親が子どもに好きなものを誕生にプレゼントする場合、それを守るかどうかは親次第です。人間の親であれば寝不足などでうっかりし、プレゼントすることを忘れてしまい約束が守れないこともあるでしょう。しかし、神はそのようなお方ではありません。まどろむことなく、眠ることもなく私たちのことを心に留めてくださり、約束は守られるのです。しかし、人間はそのことを信じようとせずに、何らかの保証を求めるのです。そのことを信仰の父と言われる「アブラハム」の例をもって説明をするのです。12節に「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たち」とありました。アブラハムがその一人として引き合いに出されています。14,15節を見てみましょう。6:14 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。6:15 こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。14節は創世記22章17節からの引用ですが、16,17節を見てみましょう。22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、 22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 この御言葉はどのような状況の時に語られたものでしょうか。アブラハムが主のご命令に従って愛する息子のイサクを生贄として捧げようとしました。その時に主がアブラハムの信仰に対して語られたものです。この引用には二つの意味があります。先ず、神の言葉は確かなものであること。次に、その確かさは誓いによって証明されているということです。また、イサクが捧げられたことは主イエスの贖罪の御業の予型であることが読み取れます。「アブラハムは根気よく待って」とあります。12節でも信仰と忍耐について語りましたが、約束のものを手に入れるためには、信仰に立ち、「根気よく待」つ必要があることを繰り返し述べています。このことはアブラハムだけでなく今日の私たちにもあてはまります。神が約束をされたこと、誓われたことは必ず実現しますが、時間がかかる場合があります。しかし、その約束は信仰に固く立って忍耐強く約束を待つ人には時にかなって実現するのです。神が約束を誓われたからです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神が約束を誓われたということです。16,17節を見てみましょう。6:16 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。6:17 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。古代教会の指導者であるクレメンスは「船の錨はキリスト者の指輪の飾りにふさわしい」と言いました。当時、錨は希望の象徴と考えられていたからです。16-20節には私たちの希望の根拠が記されています。「人間は、自分より偉大な者にかけて誓う」とあります。八百万神が信仰されている日本では良心に従うと言います。法廷での宣誓もそうです。「宣誓 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」。しかし、キリスト教国では神にかけて誓うといいます。英語では I swear to god I didn’t do it!などと言います。この神にかけての誓いは「あらゆる反対論にけりをつける保証となります。」とあるように、絶大な力があるのです。人間ですら神にかけての誓にはこのような力があるのだから、神自らの誓いが破られることなどあろうかと暗に伝えているのです。「神は約束されたものを受け継ぐ人々」とあります。「約束されたもの」とはキリストの贖罪による祝福、つまり天国で「受け継ぐ人々」とは全てのキリスト者の意味です。神は全てのキリスト者に贖罪の御業による祝福を「誓いによって保証なさったのです。」ここに私たちの希望の根底があります。18節を見てみましょう。6:18 それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。「目指す希望」とは御国に行けることです。「世を逃れて来たわたしたち」とありますが、原文には世はありません。逃避するという意味です。当時、キリスト者は各地で迫害を受けていましたので、その意味で世から逃避したとも解釈ができます。ローマ帝国下で迫害に耐えていたキリスト者は地下墳墓で集会を持っていました。そこにはキリスト者を表す魚や希望の象徴である錨が刻まれていたのです。また、逃避するとは、神を避けどころとしていたとも解釈が出来ます。詩編46編2節には次のように記されています。46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。(口語訳、新改訳は1節)。19節で希望の象徴である「錨」という言葉が使われていますので、嵐に荒れ狂う人生行路から、神の港に避難する希望の暗示とも言えると思います。「二つの不変の事柄」とあります。これは今まで述べてきた神の約束と誓いの意味です。私たちはこの絶対に揺るぐことのない「二つの不変の事柄」によって「力強く励まされる」のです。神はこの「二つの不変の事柄」「偽ること」はありえないのです。ヤコブの手紙1章17節bをAlive訳と一緒に見てみましょう。 1:17 b御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。1:17 b神は光輝くが、その光に照らされてゆれる影のように、変化することはない。(Alive訳)

③大胆に神に近づく

19節を見てみましょう。6:19 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。「安定した錨のようなもの」とあります。二章でも使われていましたが、著者は船員用語を時々この手紙で使っています。船が港や沖に停泊をする場合に錨をおろします。海がどのような状態であれ、この錨のおかげで船は安定しひっくり返ったり、押し流されたりすることはないのです。これと同様に、私たちも変わることがない神に信仰の錨をおろしていれば揺れ動くことなく平安な信仰生活を送ることができるのです。それは、信仰生活とは神の臨在を覚える日々だからです。「至聖所の垂れ幕」とあります。以前もお話ししましたが、旧約の時代、幕屋の中には垂れ幕があり聖所と至聖所に区切られていました。至聖所は神ご自身が宿られる場所です。至聖所に入れるのは大祭司だけで年に一回の贖罪日だけでしたが、主イエスが十字架刑に掛けられた直後、神殿の垂れ幕が上から下へと裂けたのです。マタイによる福音書27章51節を見てみましょう。27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、天におられる神ご自身が、その幕を破られたのです。それにより、主イエスの死によって罪ある人間が、キリストによって、大胆に神に近づくことができるようになったのです。「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、」とあります。「先駆者」にはその後に続く人々の存在が前提です。幕屋内の垂れ幕がなくなったので、主イエスが私たちのために幕の内側、神の直接的な臨在の中におられるという既成事実を述べているのです。そして私たちはそれに続くものとされているのです。臆することなく大胆に神に近づこうではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことは大胆に神に近づくということです。20節を見てみましょう。6:20 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」とあります。メルキゼデクの名前は5章10節にもありましたが、メルキゼデクについては次回7章で詳しく学びます。

Today’s Take-away

➀お互いに愛の業を行う、②神が約束を誓われた、③大胆に神に近づく

Thinking Time

信仰の錨をしっかりと降ろしていますか