• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年1月2日主日礼拝  

説教題:勝利の秘訣~イエスはまことのぶどうの木~ 聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1-11節

◆イエスはまことのぶどうの木15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

ハレルヤ!新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。1月の一主日を迎え、2022年の最初の礼拝となります。先週はマタイによる福音書2章13-23節から「悲しみは希望に通じる」と題し三つのことを中心にお話をしました。①新約聖書は救い主が到来する預言の成就、②全ての主権者は神、③主から示されたことは直ぐ実行するでした。今日はヨハネによる福音書15章1-11節から「勝利の秘訣~イエスはまことのぶどうの木~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主イエスと固く繋がり続けている

1節から順番に見てまいりましょう。15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」主イエスはご自身を「まことのぶどうの木」、御父を「農夫」にたとえて語りますが、このたとえは直接的には弟子に語られたものですが、イスラエルの民にとって非常にわかりやすいものです。というのは旧約聖書には、イスラエルは繰り返しぶどうの木、ぶどう畑として描かれているからです。エレミヤ書2:21を口語訳聖書で開いてみましょう。エレミヤ 2:21 わたしはあなたを、まったく良い種の/すぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか。開きませんが、他にもイザヤ5:1-7,エゼキエル19:10,ホセア10:1等にもぶどうの木や畑にたとえられていることが記されていますので、後ほどお読み下さい。ぶどうの木とは正に、イスラエル民族の象徴なのです。紀元前2世紀から前1世紀に存続したマカベア王朝時の貨幣の紋章はぶどうの木でした。しかし、良いぶどうの木であったはずのイスラエルが良い実を結ばず、悪い実を結ぶ結果になってしまっていたのです。そこで、神は古いイスラエルに代わり、新しい霊的なイスラエルを形成するために御子をこの世に遣わしたのです。2,3節を見てみましょう。15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。主イエスとイスラエルの民の関係がぶどうの幹と枝の関係にたとえられています。ぶどうの枝において大切なことは、実を結ぶということです。実を結ばない枝は、父なる神が取り除きます。では、どうして枝が実を結ばないのでしょうか。それは、枝が幹に固く結びついていないからです。枝が幹にしっかりと結びついていれば、必ず栄養分は幹から枝へと流れるものなのです。枝が幹にしっかりと結びついていないから必要な栄養分が流れずに実を結ぶことが出来ないのです。主は私たちに多くの実を結ぶことを期待されています。ですから、余分な枝を切り取って実を結ぶ枝だけにするのです。「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とある通りです。園芸用語で言えば剪定、刈込です。3節に「既に清くなっている」とありますが、完成した聖さではありません。聖い生活が始まっているという意味です。神学用語で言えば聖化のスタートです。キリスト者が日々聖められるために、「わたしの話した言葉」を聞き続ける必要があります。詩篇119:11にあるダビデ王の言葉を新改訳聖書で開いてみましょう。詩篇 119:11 あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。今年も命の言葉、御言葉を心に蓄えて参りましょう。4,5節を見てみましょう。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。4,5節には「つながって」という言葉が6回も記されています。主イエスと離れていてはキリスト者はなにもできないのです。ですから、どんなことがあっても主イエスとしっかり固く結びついていなければならないのです。キリスト者が実を結ぶために主イエスと固く結びついている。結び続けていることです。これが、今日、先ず覚えて頂きたいことです。もし、主イエスとつながっていない場合はどうなるのでしょうか。6節です。15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。主イエスにとどまっていないということは、最終的に非常に深刻な事態に陥るのです。始まりました2022年、先には何があるかわかりません。しかし、どんなことがあろうとも主イエスに固くしっかりとつながり続けて参りましょう。これが信仰生活の勝利の秘訣です。

②主はまことのぶどうの木

7節を見てみましょう。15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。7節は祈りについての教えです。「あなたがたがわたしにつながっており、」とありますが、直前の1-6節で教えられたことを発展させ、それを祈りに適用しています。ぶどうはイスラエルで盛んに栽培をされていましたが、栽培には手間がかかる果実です。農夫は良い実を得ることを期待し額に汗をかきながら働きまします。良い実がなることは農夫の願いであり喜びそのものなのです。ですから、枝である私たちが主イエスに結びついて実を結ぶことは、農夫である神の栄誉であり喜びなのです。新共同聖書では15章の小見出しは「主はまことのぶどうの木」で、主は1節で御自身を「まことのぶどうの木」と語られていました。単にぶどうの木ではありません。なぜまことのぶどうの木なのでしょうか。先程、旧約聖書でイスラエルの民はぶどうにたとえられ、堕落して悪質なぶどうになってしまいましたが、主イエスはどんなことがあっても絶対に悪くなることはありません。果実のぶどうの木は嵐が来れば根こそぎ倒れます。しかし、主イエスなるぶどうの木の幹は絶対に倒れることも枯れることもないのです。ですから私たちは安心して繋がり続けられるのです。これが、単なるぶどうの木ではなくてまことのぶどうの木たる所以です。そして、主イエスこそが神と私たちの架け橋になってくださったのです。ヨハネによる福音書14章6節には次のように記されています。 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスはまことのぶどうの木だということです。7節に後半に「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とありますが、これは、祈れば、無条件に何でも欲しいものが与えられるというわけではありません。条件があるのですが、その条件が、前半の「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、」です。言葉を換えて言えば、私たちが主イエスとの親しい交わりの中にいるということです。「わたしの言葉」とは聖書です。そこ聖書に記されているキリストの御心です。キリストとの親しい交わりを通し、そして聖書に記されているキリストの御心が理解できるのなら、私たちの祈りは必然的に御心にかなったものになるのです。ですから祈りは聞かれるのです。御心に適った祈りは必ず答えられるのです。キリスト者の家族の救いは主の御心に適ったものです。聖書のお約束です。ですから決して諦めることなく家族の救いを今年も祈り続けて参りましょう。ここで、主イエスに繋がり続け祈りが答えられた私の母教会の先生の証をご紹介したいと思います。私の母教会は熊本県阿蘇市にある単立の教会で、ご夫妻で牧会されています。奥様のさつき先生は四十年以上前、東京にある神学校を卒業後、音楽の勉強のために渡米したのですが、ビジネスに転じ大成功をしました。所謂、アメリカンドリームを掴まれたのです。二人の子どもにも恵まれ、カリフォルニア州の州都のサクラメントで大型レストランを経営していました。全てが順風満帆の人生です。ジャンキー、麻薬中毒者の更生のために積極的にレストランで雇用をしていたのですが、ある日、根拠のない逆恨みから一人のジャンキーに最愛のご主人が刺殺されてしまいました。私はさつき先生に「どうやってこの想像を絶する事件を乗り越えたのですか。」と尋ねました。先生は「私はね。どんなときもどんなことがあっても神様、イエス様をずっと握りしめていました。絶対に離れませんでした。伏見さんの人生にも色々なことがあるかもしれませんが、絶対に神様、イエス様から手を放しちゃだめよ」と。ご主人の刺殺から5年が過ぎ、さつき先生は今後の人生を考え祈り始めました。今後の事を考えるようになれたのには5年の年月が必要だったそうです。すると主から、日本に戻り教会を建てて福音を伝えよう示されました。この想像を絶する事件をどうやって乗り越えたのかを証しなさいと占めされたのです。しかし、神学校を卒業しているとは言え、長い年月が流れています。ですから、ともに牧会ができる協力者を祈っていたのですが、主は大学教授の方をパートナーとして与えてくださりました。再婚して、2005年から、さつき先生の生まれ故郷の阿蘇市で教会開拓を始められたのです。ヨハネの手紙一 5章14 節を見てみましょう。5:14何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。 5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。もし、祈りが答えられない場合、私たちの側に問題があるとも言えます。私たちはどうでしょうか。日々、主と親しく交わりが出来ているでしょうか。御心を理解しているでしょうか。真剣に自問してみようではありませんか。8節を見てみましょう。15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。キリスト者の祈りが答えられることを見るとき、未信者の目も心も神に向けられるものです。豊かに実を結ぶキリスト者の生涯、それは御心に適った全ての祈りが聞かれる生涯であるとともに、そのことによって神の栄光を現す生涯でもあるのです。

③主の喜びを私たちの喜びとする

9-11節を見てみましょう。15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。9節で記されている愛とは、父なる神と御子イエスとの親しい交わりと同様な交わりを主イエスは私たちとして下さっていることです。ですから「わたしの愛にとどまりなさい。」と勧めるのです。そしてその愛とは主イエスの掟をまもることによって具現化されるのです。それが、10節です。そして、11節で、主イエスはこれらのことを話された理由を「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と語りました。この部分を言い換えると次のように言えます。私たちが主との深い交わりの中で、主の御心を知る。そして、主に祈り求めるとき、その祈りが答えられます。それはまた、主の喜びを私たちの喜びとすることであるのです。これが、今日最後に覚えて頂きたいことです。2022年が始まりました。何が起こるかはわかりません。しかし、主が生きておられる真の神であることを信じていれば、私たちは祈りの力を実感することが出来、主にある喜びに溢れた毎日を力強く過ごすことができるのです。

Today’s Point①主イエスと固く繋がり続けている、②主はまことのぶどうの木、③主の喜びを私たちの喜びとする

Thinking Time 日々の主との交わり(デボーション)は十分に出来ていますか。