• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年1月23日主日礼拝

説教題:福音の中心を離れるな!聖書箇所:コロサイの信徒への手紙1章24節-2章5節

パウロに与えられた務め1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。1:25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。1:26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。1:27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。1:28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。1:29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。2:1 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。2:2 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。2:3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。2:4 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。 2:5 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。

ハレルヤ!1月の第四主日を迎えています。今、私たちの教会ではコロサイの信徒への手紙を講解で学んでいて今日はその三回目です。先週は、1章9-23節から「教会の頭は神なるキリスト」と題し、四つのことを中心にお話をしました。①光輝くクリスチャンであり続ける、②キリストは神そのもの、③キリストは教会の頭、聖化の完成は再臨時でした。今日は続く1章24節-2章4節から「福音の中心を離れるな!」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①聖書全体を正しく伝える

24節から順番に見て参りましょう。1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。パウロはコロサイの教会の兄弟姉妹のために祈り、キリストのご人格と御業についての教理を語りました。そして福音を宣べ伝える務めに任じられ、福音に仕える者とされた事を思うと喜びに満たされ「あなたがたのために苦しむことを喜びとし」と語るのです。その一つの理由が後半の、「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」「キリストの苦しみの欠けたところ」とありますが、これはキリストが十字架の上で受けた苦しみが欠けていた、贖罪が不十分だったということを言っているのではありません。体なるキリストの苦しみの欠けです。キリストと教会は一体です。先週、学んだ通り教会の頭はキリストで、教会はキリストの体です。キリストによる贖罪は完成していますが、教会はこの世に合って完成をしているわけではありません。未完成です。欠けた状態なのです。再臨の時まで成長をし続け、また、迫害を受け続けるものなのです。迫害を受ければ教会は苦しみキリストも苦しむのです。パウロは世の終わりが来るまでの苦しみを想定し、自身もその苦しみの一翼を担うことを喜んでいるのです。キリストに仕えて受ける苦難は罰ではありません。それは、特権であり名誉なのです。「あなたがたのために苦しむことを喜びとし」のもう一つの理由が25節です。英語の聖書と一緒に見てみましょう。1:25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。1:25of which I became a minister according to the stewardship from God which was given to me for you, to fulfill the word of God,(NKJV)パウロは数えきれないほどの苦しみを福音宣教の中で経験をしてきていました。しかし、その苦しみを喜んでいるのです。それは御言葉を伝える「務め」が与えられたからです。この務めとは原語では管理をする者の意味ですので、英語の聖書ではstewardship(管理)と訳されている聖書もあります。神からの御言葉を管理する使者とは具体的にはどういうことでしょうか。二つのことが考えられます。量と質です。つまり、聖書を広く伝える事と、聖書全体を伝えるということです。さて、私たちはどうでしょうか。都合の良い御言葉だけを好んで伝えていなしでしょうか。今日、先ず覚えて頂きたいことは聖書全体を広く伝えるということです。

②キリストが真の希望

26,27節を見てみましょう。1:26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。1:27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。「秘められた計画」とあります。口語訳と新改訳では「奥義」と訳されています。「秘められた計画」、「奥義」とは広義にはイエス・キリストによってもたらされた救いである福音全体ですが、狭義においては、教会の頭として働くキリスト、キリスト者一人一人の内に生きて働かれているキリストと言えます。この奥義観は、パウロ書簡に一貫して見られるもので、それまでは神に御心の中に秘められていたものが、時いたって、26節「聖なるものたちに明らかにされた」たのです。開きませんが、奥義について、ダニエル書2章28,29節、コリント一2章6-10節、エフェソ1章9節、テモテ一3章16節等にも記されています。後ほどお読みください。聖書の中心は人類の救いです。旧約聖書はそれを預言で語り、新約聖書はその預言の成就です。イエス・キリストという神の救いの栄光のご計画がついに実現したのです。27節に「栄光の希望」とありますが、栄光には「幸いを表す光」という意味もあります。キリストこそが世を照らす光であり、真の幸いを現す希望そのものです。この世が与えるはかない希望のようのように、やがて失望と変わってしまうものではありません。キリストは栄光に輝く希望なのです。暗闇に光り輝いているものなのです。キリストは私たちに希望を与え、私たちを正しく導くことが出来るのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストが真の希望ということです。28,29節を英語の聖書と一緒に見てみましょう。1:28 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。1:29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。1:29To this end I strenuously contend with all the energy Christ so powerfully works in me.(NIV)パウロは声を大にして語ります。パウロが述べ伝えているメッセージはこの栄光のキリストにほかなりません。人間による思想や哲学ではありません。「わたしたちは宣べ伝えており」とあります。複数形のわたしたちです。パウロは個人一人ではなく、自分たちが伝えていることこそが福音だと語るのです。このことは原文からわかります。一般的にギリシャ語は主語を省きます。動詞を見れば主語がわかるからです。しかし、この28節の原文は強調のため「私たち」という主語を入れています。日本語に直訳すれば「私たちは私たちは宣べ伝えている」です。この宣べ伝えていることの中心がキリストです。キリストは罪からの救い主です。キリストがいなければ神と和解することが出来すに滅びの道に至るからです。ですから、パウロはすべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えて」いるのです。キリストと繋がり続け、日々のディボーションを通しての歩みにより、すべての人が」主と再びお会いするときに「完全な者」とさせて頂けるのです。この素晴らしさを思えば、このために受ける苦しみも苦とは思わずにかえって喜ぶことが出来るのです。28節です。その原動力が「わたしの内に力強く働く、キリストの力です。「キリストの力」の力の部分は、原語のἐνέργειαν (エナゲイアン) の意訳で、英語のenergyの元となった言葉です。実際、パウロの生涯は苦労の連続でした。コリントの信徒への手紙二11:23-27を見てみましょう。11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。パウロの生涯は苦労の連続でした。しかし、内なるキリストのエネルギーの働きによって数々の試練を乗り越えることが出来たのです。

③面識のない方のために祈る

2:1節を見てみましょう。2:1 わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。以前にもお話ししたように、この箇所からパウロはこの手紙を書いている時点では、コロサイを訪問したことがなかったことがわかります。「どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。」とありますが、これはコロサイのラオディキアにいる人々への祈りの意味です。一度もあったことのない人のためにパウロはグノーシス主義の異端と格闘するかのごとく熱心に祈ったのです。この箇所からとても大事なことがわかります。今日、三番目に覚えて頂きたいことは面識のない方のためにも祈るということです。面識のない方だと祈ってもピンとこないとか、神は祈りに応えてくださるのだろうかと思っていませんか。先月、私たちの教会で面識のない方のための祈りが答えられましたので、ご紹介したいと思います。八街にMさんという語学が堪能な女性のクリスチャンがいます。話は2015年に遡るのですが、Mさんは、中国語のスキルアップのため台湾在住のHさんという未信者の台湾人女性とお互いに学びはじめました。MさんはHさんから中国語を、HさんはMさんから日本語を学ぶという関係です。学びながらMさんはHさんが救われるよう祈りました。3年前からHさんは教会に通い始め、2年前から、Mさんからリクエストを受けて、Hさんの救いを教会で祈り始めました。その間にHさんに色々なことがありましたが、心を合わせて祈り続け、先月、クリスマスの時期にHさんは洗礼の恵みに預かることが出来たのです。Mさんはこう言いました。皆で祈り初めてから背後に祈りの力を感じたと。勿論、現地でHさんと直接面識のある方の祈り積まれた結果でもありますが、神は、私たちが面識があろうともなかろうとも祈りに応えてくださるのです。2:2,3節を見てみましょう。2:2 それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。2:3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。パウロが熱心に祈った理由が2節です。「心を励まされ、愛によって結び合わされ、」とあります。信仰とは個人のものですが、それが健全に成長をしていけば、愛に満ちたキリスト者の交わりが生まれるのです。それにより、個人の信仰が強められるという好循環positive spiralになるのです。後半に「理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」とあります。交わりを通してお互いに信仰が成長すれば必然的にパウロたちが教えているイエスキリストの十字架によって成し遂げられた真の福音の理解が深められるのです。「神の秘められた計画」、キリストに対する正しい知識がなくて救いの御業に預かることは出来ないのです。さらにパウロは「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」と加えます。3節を端的に言えば、神を知ろうと思えばイエス・キリストで十分。それ以外のものは必要がない。と言っても過言ではありません。

④福音の中心はキリスト

4節を見てみましょう。2:4 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。「巧みな議論にだまされないようにするため」とあります。パウロの時代から今日に至るまで異端は生まれ続けています。パウロはフィリピの信徒への手紙で次のように述べています。4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。「いついかなる場合にも対処する秘訣」とあります。秘訣とはイエス・キリストです。異端から身を守る秘訣もイエス・キリストなのです。異端の教えはもっともらしく聞こえますので、十分に注意が必要です。異端の見分け方は二つです。聖書論かキリスト論、あるいは両方に誤りがあります。聖書論の誤りとは具体的には聖書に何かを付け加えることです。聖書以外に別の経典があります。キリスト論の誤りとは三位一体を否定したり、教祖が救い主と名乗ったりする場合もあります。いずれにしてもこれらの背後にはサタンがいることを忘れてはいけません。人間は弱いものです。特に、戦争、不況、災害などの後に異端や新興宗教は流行ります。この世の終わりは近い、今、これでなければ救われないというのです。また、病の癒しを強調する異端や新興宗教もあります。私たちの群れも神癒を四重の福音の一つとして掲げていますが、福音の中心はイエスキリストの十字架による贖いの御業。それを信じることによって、本来は滅びに至る私たちの罪が赦されたということです。今日、最後に覚えて頂きたいことは福音の中心は十字架による贖いということです。贖いの御業を中心として四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)があるのです。ですから、福音の中心から離れてはならないのです。中心からブレてはいけないのです。5節を見てみましょう。2:5 わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。「あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。」とありますので、コロサイの教会はグノーシス主義の異端によって壊滅的なダメージを受けていたことではないと思います。しかし、だからといって油断は禁物です。このことについては次週以降で詳しく学びます。

Today’s Point①聖書全体を正しく伝える、②キリストが真の希望、③面識のない方のためにも祈る、④福音の中心は十字架による贖い

Thinking Time十字架の御業にどのように応えますか。