• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年10月2日主日礼拝

説教題 忍耐によって完走しよう!~神学から実践へ~

聖書箇所 ヘブライ人への手紙10章21-39節

10:21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、10:22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。10:23 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。10:24 互いに愛と善行に励むように心がけ、10:25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。10:26 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。10:27 ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。10:28 モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。10:29 まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。10:30 「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。10:31 生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。10:33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。10:35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。10:37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。10:38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」10:39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

ハレルヤ!10月の第一主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその17回目です。前回のおさらいから始めましょう。10章1-18節を通し、「御心を行うために来られた~大祭司キリスト論の総決算~」と題し三つの事を中心にお話をしました。御心を行うために来られた、キリスト者の罪は点、罪は心に留められないでした。今日は続く10章21-39節を通し、「忍耐によって完走しよう!~神学から実践へ~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀信仰を公言する

21-23節を見てみましょう。10:21 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、10:22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。10:23 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。偉大な祭司がおられる」のだからとあります。著者は、キリストが旧約時代の預言者、天使、モーセ、ヨシュア、人間の大祭司、アブラハムに勝ると語りました。特にキリストの大祭司論を詳しく述べて来ました。今日の箇所は、これまで述べてきた神学的な内容から実践へと移ります。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。」とあります。キリストの贖いによってきよい生活がはじまった者がいかにあるべきかを21-25節で述べています。その第一番目が「真心から神に近づこう」と勧めています。神に近づくことはこの手紙のキーワードの一つで7章19,25節、10章1節でも述べられていて、次回に学ぶ11章6節でも使われています。主イエスの十字架による贖いで、誰もが神に近づけることになった恵みを強調しているのです。二番目のことが。「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。です。信仰生活において確信を持つことは重要です。そうでなければいつも信仰が揺れてしまいます。この確信とは救いの確信とも言え、キリスト者はいつでも「これが私の信じている事柄です。私は明確に救われています。私はこの信仰に固く立っています」とはっきり言えなければならないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは信仰を公言するということです。24,25節を見てみましょう。10:24 互いに愛と善行に励むように心がけ、10:25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。三番目の勧めが「励まし合う」ことです。この「励まし合う」と訳された言葉には切磋琢磨するという意味もあります。「励まし合う」、切磋琢磨する具体的な例として、集会に出席することが記されています。誘惑に負けたり、自己過信になったりで集会を休んでしまうことはありませんか。それは自ら神の貴重な恵みの機会を放棄していることに他ならないのです。箴言には次のような御言葉があります。 18:1 離反する者は自分の欲望のみ追求する者。その事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる。また、「励まし合う」、切磋琢磨することの理由が「かの日」つまり再臨が近づいていることを知っているからだと著者は語ります。19世紀に活躍したアメリカの大衆伝道者のD・L・ムーディは、講壇に立つたびに、これが再臨前の最後の説教になるかもしれないとの思いを抱いて説教に臨んだと言われています。何回も話していますが、再臨について大事なことはその日がいつであるかは父なる神のみ知ることですが、確実に起こる。一日一日近づいているということです。再臨はキリスト者にとって救いの完成で祝福の時です。ですから、一人でも多くの未信者の方と共に祝福に預かれるようになろうではありませんか。そのためにも福音宣教に励もうではありませんか。26,27節を見てみましょう。10:26 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。10:27 ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。26-31節には不信仰から背教になることへの厳しい警告が語られます。「真理の知識を受けた後にも」とあります。「真理の知識」とはこの箇所では、キリストの十字架の死によって与えられた救いの意味で解釈をするとよくわかります。ですから、せっかく十字架の御業により「キリスト者になった後にも」の意味です。キリスト者になった後にも「故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」と語ります。この手紙の受取人の中には恵みによって 罪の赦しを体験したのにもかかわらず、良心の呵責もなく平気で罪を犯す人がいたのかもしれません。そのような者には「罪のためのいけにえ」であるキリストはもはやなく「審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけ」なのです。非常によく奉仕をする熱心なキリスト者だった方が信仰から離れてしまうことがあります。人間の側から見れば熱心な信仰者であっても、人目を気にして律法的に奉仕をしていただけだったのです。神から見れば信仰がなかったとも言えます。ですから、神との関係を第一にした信仰生活を送る必要があるのです。

②罪とはキリストを踏みつけること

28,29節を見てみましょう。10:28 モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。10:29 まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。「二、三人の証言に基づいて、」とありますが、これは申命記19章15節を念頭に置いての言葉です。19:15 いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。律法には死罪が定められていました。開きませんが、出エジプト記 21章12節~17節に記されています。その死罪となる場合でも「二、三人の証言に基づいて、」おこなわれたと著者は語ります。次いで、「神の子を足げにし」とあります。罪は愛の捧げものを取り上げて、足の下に踏みつけるのです。罪は律法に逆らうばかりでなく愛をも傷つけるのです。人は肉体を傷つけられても耐えることが出来る場合がありますが、心を踏みにじられたときには致命的な痛手を受けます。第二次世界大戦中のドイツで、ある方が強制収容所に入れられ拷問にかけられましたが、毅然としてあらゆる苦痛に耐え抜いていたそうです。ところが、強制収容所に入れられたきっかけが息子による密告だと知ったときに生きる気力を失い死んだそうです。キリストが来られた今。罪とはキリストの愛を踏みにじることに他ならないなのです。今日、2番目に覚えて頂きたいことは罪とはキリストを踏みつけることなのです。ですから、「恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」とキリストの恵みを反故にした場合の問いを投げかけるのです。著者が強調しているのは「恵みの霊を侮辱する者」への重い刑罰です。恵みとは、受けるに値しない者に与えられる神の恩恵であり、刑罰を受けるべきものへの神の赦しの愛です。ですから「恵みの霊」、つまり聖霊の働きを侮る者には重い刑罰が与えられるのです。このことは主イエスも次のように警告を発しています。マルコによる福音書3:28-29を見てみましょう。マルコ 3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

③主の手に陥る

30,31節を見てみましょう。10:30 「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。10:31 生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」、「主はその民を裁かれる」とありますが、これは申命記32章35a,36a節からの引用です。32:35aわたしが報復し、報いをする32:36 b主は御自分の民の裁きを行い この引用から深い意味が読み取れます。「その民」は引用元では「御自分の民」、つまりユダヤの民のことです。回心をしてキリスト者になったのちに、ユダヤ教に戻ろうとする者への警告が暗示されています。「手に落ちる」とあります。権威、権力に屈することですが、神の手に落ちることがサムエル記下24:14に記されています。新改訳で見てみましょう。サムエル下 24:14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。【主】の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」キリスト者にとって神の手に陥ることほど安心なことはありませんが、そうでない者には「恐ろしいこと」と著者は警告をします。わたしたちはどうでしょうか。主なる神よりも人を頼りにしていないでしょうか。今ここで心を探ってみようではありませんか。今日、3番目に覚えて頂きたいことは主の手に陥るということです。

④忍耐によってゴールを目指す

このように恐ろしい警告をしたのちに、著者は受取人の気持ちをいたわりながら、奨励の言葉を32-39節で語ります。この箇所を一言で言えば忍耐です。32,33節を見てみましょう。10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。10:33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。「光に照らされた」とありますが、キリスト者となったことを意味します。26節の「真理の知識を受けた」を言い換えたものであり、6章4節では「一度光に照らされ」と表現されていました。著者はキリスト者となった頃のことを思い出しなさいと語ります。その当時には「あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました」が、「苦しい大きな戦いによく耐えた」のです。34,35節を見てみましょう。10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。10:35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。「もっとすばらしい、いつまでも残るもの」とあります。キリストの贖いによる福音です。御国への希望です。この希望があるので、「財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。」どんな目に遭っても御国への希望があるので、忍耐することが出来るのです。ですから、御国への希望を確信し続けなさいと語るのです。御国には「大きな報い」があるからです。主イエスは山上の垂訓で天に宝を積むように語りました。マタイによる福音書6章19,20節を見てみましょう。 6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない 。36節を見てみましょう。10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。36節に忍耐とあります。先程申し上げましたが、33-39節の主題です。著者は神の約束として、再臨の時に永遠の命が完成することをハバクク書の預言を引用し忍耐するように語るのです。 37-39節を引用元と一緒に見てみましょう。10:37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。10:38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」10:39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。ハバクク 2:3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。 2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」39節に「わたしたちは、」とあります。あなた方はではないところに著者の牧会的な配慮を感じます。39節を直訳すれば「私たちは後退する者でなく、(前進して)魂を得る信仰者です」となります。このことは主イエスも次のように語られています。ルカによる福音書21:19を見てみましょう。 21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」この世にあっての信仰生活はマラソン競技に例えられます。勝利の栄冠を目指し完走をします。ゴールまでには山あり谷あり嵐ありです。ですから、忍耐によって完走することが求められるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは忍耐によって完走するということです。信仰者とは、暗い日にも最大の努力を続け、結果が表れない時も忍耐をもって御国への完走を目指す人のことです。

Today’s Take-away

➀信仰を公言する、②罪とはキリストを踏みつけること、③主の手に陥、④忍耐によって完走する

Thinking Time

周りの方と励まし合っていますか。

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