• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年10月30日主日礼拝

説教題 信仰勇者列伝②~天に目を向けて歩もう!~聖書箇所 ヘブライ人への手紙11章8-16節

11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

ハレルヤ!10月の第五主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその19回目です。前回のおさらいから始めましょう。11章1-7節を通し、「信仰勇者列伝①~信仰は猫の親子型~」と題し三つの事を中心にお話をしました。➀信仰とは猫の親子の関係、②神は信仰者を喜ぶ、③信仰を働かせ実行するでした。今日は続く11章8-16節を通し、「信仰勇者列伝②~天に目を向けて歩もう!」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀罪を重ねても神に頼る

先週は三人の信仰の勇者(アベル、エノク、ノア)から学びましたが、今日の箇所はアブラハムが主役で、妻のサラが準主役と言った位置づけです。8節から見て参りましょう。11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。8節は創世記12:1-5を念頭に置いての記述です。見てみましょう。 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。 12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。いつアブラハムが信仰を持ったかは聖書には書かれていませんが、「主の言葉に従って旅立った。」とあります。これが信仰です。信仰とは神の言葉に従うことであることがハッキリとわかります。信仰とは自分の経験、知識に従うことではありません。勿論、経験や知識も人生には必要です。問題の解決に大いに役立つことがあります。しかし、これらは信仰の対象ではありません。キリスト者が失敗をするのは自分の経験や常識を優先させるからです。ルカによる福音書5章には元漁師のペトロが自分の経験に頼らず主イエスの言葉に従った結果が記されています。5-7節を見てみましょう。5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。ペトロは主イエスと出会う前は漁師でした、その専門家が徹夜で漁をしたのにもかかわらず、一匹の魚もとれなかったのです。徹夜です。体もくたくたに疲れ果てていたことでしょう。しかし、主エスの言葉に従い、「二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」という結果、祝福を得たのです。これが信仰です。「これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」とありますが、これから先、どうなっていくかわからなくても神の言葉に従うという姿勢です。とは言え、アブラハムも一人の人間です。主の御心に従わず約束の地のカナンが飢饉に見舞われるとエジプトに行ったこともありますし、妻のサラを妹だと嘘をついたことがありました。開きませんがそれぞれ創世記の13章、20章に記されていますので、後ほど読まれてください。このようにアブラハムも罪びとの一人ですが、「信仰の父」と呼ばれています。何故でしょうか。ちいろば牧師でお馴染みの榎本保朗先生は著書「新約聖書一日一章」の中で、そう呼ばれる理由について次のように解説をしています。そのまま引用します。「信仰の世界では、失敗を恐れる必要はない。大事なことは、失敗なく、ただ従うことである。何もしない人は失敗もしないし、神に従うことも出来ないのである。アブラハムは失敗の上に恥をかき、罪を重ねても、なお神の約束に頼っていたから、彼は、信仰の父と呼ばれたのである」と。今日、先ず覚えて頂きたいことは罪を重ねても神に頼るということです。罪を犯してしまうことはあります。そんな時に自分は神に信頼する資格がない等と思うのは間違いです。どんなときも神に頼るのです。9,10節を見てみましょう。11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。「他国に宿るようにして約束の地に住み、」とあります。アブラハムは受け継ぐべき地であり、約束の地であるカナンに住みながら「イサク、ヤコブと一緒に幕屋に住」んだのです。幕屋とは一時的な住居です。いつでも移動が出来るのがその特徴で、永住するためのものではありませんし、そのためのしっかりした土台を持つものではありません。アブラハムたちが約束の地にありながらも幕屋に住んだに理由は、この世が仮のものであるとわかっていたからです。「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」とは天国のことです。ブラハムたちは地上の生活は一時的なもので、やがて御国に生ける希望という信仰に固くたちこの世を暮らしていたのです。11,12節を見てみましょう。11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。11,12節にはアブラハムの妻サラの信仰について記されています。「不妊の女サラ」とありますが、創世記11章30節にそのことが記されています。確認をしてみましょう。11:30 サライは不妊の女で、子供ができなかった。そのサラに子どもが与えられたことが創世記の17,18章に記されています。17:16を見てみましょう。 17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」この言葉が語れたときアブラハムは100歳で妻サラは90歳でした。アブラハムも妻のサラはこんな馬鹿げた話を信じることが出来なかったのです。創世紀17章17節、18章2節に記されている通りです。17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。そのアブラハムがやがて神が語るのであれば真実に違いない。神には偽りがないということに気づくのです。「約束をなさった方は真実な方であると、信じていた」とある通りです。また、「死んだも同様の一人の人」とあります。アブラハムのことですが、アブラハムとサラの夫婦と解釈をしても良いと思います。二人は神の言葉を信じました。その結果が「空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」

②キリスト者の故郷は天にある

13節から16節にはこのアブラハムの「多くの子孫」に共通して見られる信仰の在り方が記されています。13,14節はリビングバイブルがわかりやすいので一緒に見てみましょう。11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。11:13信仰に生きたこの人たちは、神に約束されたものを手にしてから死んだのではありません。しかし彼らは、約束のものが待っているのを望み見て、心から喜びました。この地上がほんとうの故郷ではなく、自分がほんのつかの間、滞在する旅人にすぎないことを自覚していたのです。 11:14そう認めた時、彼らは心から、天にある故郷を慕い求めました。(LB)「この人たち」、(LB)「信仰に生きたこの人たち」とはアブラハムの「多くの子孫」です。族長達とも言えます。(LB)「約束のものが待っているのを望み見て、心から喜びました。」とありますが、キリスト者には御国が待っているのです。そのことを心から喜んでいたのです。その理由が「この地上がほんとうの故郷ではなく、自分がほんのつかの間、滞在する旅人にすぎないことを自覚していた」からです。「天にある故郷」とありますが、キリスト者の故郷である本国、国籍は天にあるのです。フィリピへの信徒への手紙3章20節を口語訳と一緒に見てみましょう。 3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(口語訳)先程、賛美した「安けさは川のごとく」原題“It Is Well With My Soul” は、連続する不幸な出来事に遭っても、やがて天国に行けるという信仰によって、心に平安が与えられたことを綴っています。作詞者のホレシオ・スパフォードは、熱心なキリスト者で有能な弁護士でした。4名の娘も与えられ平穏で幸せな日々を過ごしていました。ところが次々と惨事が襲い掛かります。1871年のシカゴ大火で家財を全て失ってしまいました。そこで彼は慰安旅行のため家族全員でイギリスへ行くことになったのですが、急用が出来てしまい、妻と4人の娘を客船に乗せ先に行かせます。ところが、大西洋を半分渡ったところでこの船はイギリスの軍艦と衝突し沈没してしまいました。妻は奇跡的に助かりましたが、4人の娘は全員命を落としました。しかし、スパフォードは神様からの慰めを感じ始めました。やがて天国で家族全員が再会できるというものです。そしてこの慰めのゆえに「悲しみは波のごとく わが胸満たす時 すべて 安し 御神共にませば」という詩を書くことができたのです。この賛美は、多大な苦しみの中で完成したのです。私たちもこの世で多くの試練に遭います。最愛の家族や親友と突然、お別れすることもあるでしょう。しかし、キリスト者の本国は天にあるのです。そこで、必ず再会ができるのです。天国にて家族友人全員で再会しようではありませんか。祈りましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリスト者の故郷は天にあるということです。現在地球上には約2百の国があり、3千とも言われる少数民族が住んでいます。当然そこには言語、文化、習慣、宗教などの違いがあります。そのことが原因で抗争や紛争が起こり、やがて大きな戦争にもなります。実に、人間の歴史はこうしたことの繰り返しであったと言っても過言ではないでしょうか。しかし、キリスト者の故郷である天国には一切の争いはありません。黙示録21章1-4節、22章5節には次のように記されています。◆新しい天と新しい地 21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」22:5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。この箇所から天国の四つの特徴がわかります。①神様と永遠にいられる場所、②死がない、③負の感情がない、④夜がない。このように天国は形容しがたいほどの素晴らしい場所ですが、この世においてはキリスト者同士でも裁き合いや争いがあります。大変残念な事実ですが、クリスチャンの企業同士が法廷で争ったこともありました。しかし、天国では負の感情、ネガティブな思いが一切ないので争いなど起こるはずがないのです。このような場所が私たちを待っていてくれているのです。ですから、LBの14節に「彼らは心から、天にある故郷を慕い求めました。」とあるように、私たちも心から、天にある故郷を慕い求めようではありませんか。

③天に目を向けて歩む

15,16節もリビングバイブルと一緒に見てみましょう。11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。 11:15もし彼らに、この世の魅力ある生活に戻る気があったなら、いつでも戻れました。11: 16しかし彼らは、それには目もくれず、神が用意された天の都を一心に見つめていました。それで神は、彼らの神と呼ばれることを誇りとなさったのです。(LB) 15節は仮定ですので真意は次のようになります。「彼らに、この世の魅力ある生活に戻る気はないので、戻りませんでした。」です。「信仰に生きたこの人たち」はこの世のなによりも天での生活を待ち焦がれていたのです。他の物には何一つ目を向けていなかったのです、「神が用意された天の都を一心に見つめていました。」とある通りです。今日、最後に覚えて頂きたいことは天に目を向けて歩むということです。「神は、彼らの神と呼ばれることを誇りとなさったのです。」とあります。彼らの神とはアブラハムの子孫の神の意味ですが、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とも限定して解釈をしても良いと思います。「信仰に生きたこの人たち」、信仰をその生活に生かした人たちは、父なる神の名を辱めるものではなかったのです。ですから、神は彼らを信仰の勇者として聖書にその名前を記録させられたのです。信仰者にとって聖書に自分の名前が記されること以上に栄誉なことはないのではないでしょうか。

Today’s Take-away

➀罪を重ねても神に頼る、②キリスト者の本国は天にある、③天に目を向けて歩む

Thinking Time

この世の物に目が向いていませんか。