• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年11月13日主日礼拝

説教題 信仰勇者列伝④~たといそうでなくても~聖書箇所 ヘブライ人への手紙11章29-40節

11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

ハレルヤ!11月の第二主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその21回目です。前回のおさらいから始めましょう。11章17-28節通し、「信仰勇者列伝③~死を乗り越える信仰~」と題し三つ事を中心にお話をしました。➀死の問題は解決されている、③最終的な判断は信仰、③素直に信じて実行するでした。今日は続く11章29-40節を通し、「信仰勇者列伝④~たといそうでなくても~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。今日の聖書箇所には多くの信仰の勇者の名前と出来事が記されています。時間の関係で全てについてお話は出来ませんので、特筆すべき人物や出来事についてお話をしたいと思います。

①罪びとは罪びと

29節から順番に見て参りましょう。11:29 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。29節は出エジプト記14章に記されている出来事を念頭に入れての記述です。後ほどお読みください。「人々は」とあります。モーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤの民は、紅海を前にして後退せざるを得ない危険がありました。しかし、彼らは信仰によって主の前進命令を受け入れました。主は紅海をユダヤの民が渡りきるまで二つに分け続けたのです。彼らは不可能なことをやり遂げたのです。主は必ずご自分の約束を成就されるのです。このことを信じることも信仰です。30節を見てみましょう。11:30 信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。30節はヨシュア記6章に記されているエリコ陥落についてです。当時、エリコは、カナンの力のような町でしたので、それを攻略することは不可能に近いと考えられていました。しかし、主は指導者のヨシュアに戦士は全て町の周囲を一度ずつ、六日間回り、七日目には七度町を回って、先頭にいる祭司が角笛を長く吹き鳴らした時、大声でときの声(士気を鼓舞(こぶ)するために、多数の人が一緒に叫ぶ声)をあげよと命じたのです。「信仰によって」その通りにすると「エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ち」たのです。31節を見てみましょう。11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。31節はヨシュア記2:1-21、6章25節に記さている出来事についてです。エリコが陥落した時、「娼婦ラハブ」は助かりました。その理由は「様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたため」です。ヨシュア記2章9-12節にはラハブの語った言葉が記されています。見てみましょう。 2:9 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。 2:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。 2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。2:12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。ラハブは真の神を信じていたのです。信仰者だったのです。ですから、同じ真の神を信じるヨシュアが送った偵察に協力をしたのです。後に、ラハブはユダ族のサルマンと結婚をし、ルツ記に登場するボアズの母となったのです。そしてこの子孫から主イエスがお生まれになったのです。新共同訳ではラハブは「娼婦ラハブ」で、口語訳、新改訳では「遊女ラハブ」です。生きておられる真の神を信じキリスト者になる前には、反社会的勢力に属していた方もいますし、風俗産業で働いていた方もいます。さて、私たちはそのような人たちに対して偏見をもっていないでしょうか。自分の目でみると差があるかもしれませんが、神の目から見れば同じなのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは罪びとは罪びとということです。キリスト者とは赦された罪びとです。誰も彼も罪びとに過ぎないのです。

②聖書は信仰を強める書物

32節を見てみましょう。11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル」の名前がありますが、時代的順序で言えば、バラク、ギデオン、エフタ、サムソン、サムエル、ダビデの順となります。著者は思いつくまま信仰の勇者の名前を記したのでしょう。私は、この6名のなかでエフタが過小評価されているように思いますので、エフタについてお話をします。エフタについては旧約聖書の士師記11章に記されていますので後ほどお読みください。エフタの母は遊女でした。しかし、彼は相続財産に与れないよう異母兄弟たちに追い出され、悪い仲間と略奪をしていました。ところが、イスラエルがアモン(アンモン)人に攻撃をされそうになるとイスラエルの長老たちはエフタにイスラエルをアモン人から守ってくれるように要請をします。初めはその要請に応じませんでしたが、長老たちの切なる要請に応じてアモン人と戦うことになります。そのときエフタは主に誓ってこのように語りました。士師記11:30-32を見てみましょう。11:30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、 11:31 わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」 11:32 こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。 11:34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。このように誓ってからエフタは出陣し、アモン人の軍勢を撃破して帰宅したのです。その時、エフタを迎えたのが彼の一人娘でした。エフタはその一人娘を誓約通り捧げました。一度、主に対して誓ったことを成し遂げたのです。ここにエフタの信仰があるのです。勿論、アモン人の大軍から主の民を救ったことも信仰の勇者として名前が挙げられている理由です。32節の後半に「また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。」とあります。「預言者たち」とはエリヤ、エリシャ、アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤたちの事でしょう。他にも数多くの信仰者がいたのです。ですから、これらの全員について語るなら「時間が足りないでしょう。」と著者は述べるのです。33節を見てみましょう。11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、この33節以降には固有名詞の名前は記されていません。しかし、全部とは言えませんがほとんどが身元を特定でき、信仰者たちの英雄的な行為が描かれています。信仰はただ状況に耐える力を与えるだけでなく、攻勢に転じる場合もあります。また、時として神は信じられないような力を与えるものなのです。「獅子の口をふさぎ」、とあります。これはダニエル書6章22節に記述されている出来事と思われます。ダニエル6:23 神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」ダニエルは紀元前6世紀の預言者です。ダリヨス王に重用されたことにより、他の総督らから快く思われていませんでした。他の総督らは、ダニエルが履行できない禁令をつくり、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれたのですが、何も害を与えられなかったのです。そして、ダリヨス王はダニエルを訴えた人々をその妻子と共に獅子の洞窟に投げ込み、彼らは骨までかみ砕かれる事になったのです。34節を見てみましょう。11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。「燃え盛る火を消し」とあります。これはダニエル書3章27節に記述されている出来事と思われます。3:27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。ネブカドネザル王の造った金の像を拝む事を拒否した3人(シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ)が炉に投げ込まれたのですが、無事に生還したときの記述です。この三名は炉に投げ込まれる前に次のようにネブカドネザル王に答えました。口語訳聖書で3:17,18を見てみましょう。ダニエル 3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。 3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。「たといそうでなくても」とあります。この言葉を引用し、韓国人の安利淑(あんいすく)さんは「たといそうでなくても」という自叙伝を書いています。安さんは日本が統治中の韓国で生まれ、当時は神社参拝が学校でも強制的に行なわれていました。キリスト者であった安さんは学校の教師になったのですが、生徒や教職員全体の学校行事としての神社参拝のときに、天皇や天照大神に向かっての最敬礼をしなかったので、退職に追い込まれ、いろいろな迫害を受けたのです。その時の詳しい記録が、自叙伝「たとえそうでなくても」です。本の中には次のように記されています。そのまま引用します。「私はもうすっかり疲れ切り、空気のもれた風船玉のようになった。それで、心に力をつけようと思い、聖句を暗唱した。聖句はいつでもすばらしい霊の食物であった。」「たといそうでなくても」、短い言葉ではありますが、キリスト教信仰の真髄を語る言葉だと思います。神が私たちの願うようには応えてくださらなくても、神がなさることは全て善しとして、どこまでも神に信頼して生きるのです。ここに自己中心ではなく神中心の信仰があるのです。そして、その信仰を強めるため聖書を読むのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは聖書は信仰を強める書物ということです。35節を見てみましょう。11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。」とあります。預言者エリヤの時代と預言者エリシャの時代には預言者たちの力に信仰によって、死んだ子供が生き返り、母親のもとにかえることが出来たことが記されています。開きませんが、列王記上17章と列王記下4章を読まれてください。後半に「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。」とありますが、この記述に相当する出来事は旧約聖書にはありません。外典のマカバイ記二からの記述と思われます。プロテスタント教会では外典は認めていませんが、カトリック教会の正典から除外された文書群を外典と言います。この手紙の著者は正典のみならず外典にも長けていたことがわかります。36-38節を見てみましょう。11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。「他の人たち」とありますが、預言者エレミヤもそのうちの一人ではなかったと考えられます。聖書にはその記述はありませんが、口伝によると、エレミヤは「投獄され」「石で打ち殺され」エジプトで殉教したと言われています。また、ゼカルヤも「石で打ち殺され」されました。歴代誌下24:20,21を見てみましょう。PPT 24:20 神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」 24:21 ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。「教会の礎石は殉教者の血である」と言いますが、今日、私たちが信仰を持つことが出来るのは、過去の信仰者たちがあらゆる犠牲を払いながらも信仰を保ったからなのです。

③再臨の報いは同じ

39-40節はわかりづらいので、リビングバイブルと一緒に見てみましょう。11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。39彼らの信仰は神から賞賛されるほどでしたが、だれ一人、神が約束されたものを全部、手に入れたわけではありません。 40彼らが待ち望んでいたのは、もっとすぐれた報いであり、神もやがてそれをお与えになるつもりでした。それは、私たちのために用意されている報いと同じです。「約束されたもの」、「更にまさったものを計画」、「もっとすぐれた報い」(LB)とありますが、キリストの十字架による救いです。その救いが完成をするのは再臨の時なので、再臨と解釈が出来ます。私たちとはこの手紙の著者、受取人、新約以降のキリスト者全員のことを意味します。旧約時代の聖徒を含め、再臨の時までに肉体が死んでいた者は眠りからさめ二度と朽ちない体になるのです。また、その時に生きているキリスト者も二度と朽ちない体にかえられるのです。ですから、LBでは「それは、私たちのために用意されている報いと同じです。」と訳しているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは再臨の報いは同じということです。著者は11章で信仰の勇者列伝を語りました。名前が記されていない勇者もいましたが、これらの信仰の勇者、偉人がいるということは私たちキリスト者の誇りです。旧約聖書が苦手だと言う人がいますが、これらの偉人が記されている箇所を読み、更に信仰について学ぼうではありませんか。

Today’s Take-away

①罪びとは罪びと、②聖書は信仰を強める書物、③再臨の報いは同じ

Thinking Time信仰にたってすべきことはありませんか。