• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年12月18日主日礼拝

説教題 唯一永遠の大牧者 聖書箇所 ヘブライ人への手紙13章7-25節

13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。 13:10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。 13:11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。 13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。 13:13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。13:14 わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。13:15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。13:16 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。13:17 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。 13:18 わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。13:19 特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。 結びの言葉 13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 13:21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。13:22 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。13:23 わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。13:24 あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。13:25 恵みがあなたがた一同と共にあるように。

ハレルヤ!12月の第三主日(アドベント第四主日)を迎えていますが、私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日は25回目で、最後となります。前回のおさらいから始めましょう。12章25節-13章6節を通し、「主が背後におられる」と題し三つ事を中心にお話をしました。①神に喜ばれるように奉仕する、兄弟としていつも愛し合う、③万軍の主が背後におられるでした。今日は続く13章7-25節から「唯一永遠の大牧者」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①唯一永遠な指導者

7,8節から見てまいりましょう。13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。「神の言葉を語った指導者たち」とあります。7,8節は人間の指導者と唯一の指導者であるイエスキリストの対比です。この手紙の受けとり人の中に何名かの指導者がいたことがわかります。その指導者たちは「神の言葉を語っ」ていたのです。み言葉を忠実に語っていたのでしょう。御言葉を正しく宣べ伝えるということは教会の大きな使命です。著者は御言葉を忠実に教えている指導者たちに習いなさいと勧めているのです。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て」とあります。指導者の人生が残した良き信仰生活の模範です。指導者は自分自身が信仰に生きることによって、人々をキリストに導く者です。ですから、その生涯を通して良き模範となることが求められるのです。その功績が書き留められたり口伝によったりで、後世の人々に影響を与えることはあります。私が生まれて初めていった教会の方にもそのような役員の方がいました。何も知らない私に行動を通して、私を主イエスのもとに導いてくださいました。当時、その教会の説教はエレミヤ書の講解説教でしたので全く分かりませんでしたが、その方と会えるのが楽しみで教会に通い続けていたようなものです。その後、その方は献身され今は牧師になっています。私は仕事の都合で九州に行きましたので、その教会の教会員にはなりませんでしたが、今でもメールや年賀状のやり取りをしている方がいます。しかし、どんなに偉大な指導者であっても、やがて人間は肉体の終わりを迎えるのです。それぞれの時代にふさわしい指導者が現れますがやがて幕がおり、人々を直接、指導することはできないのです。ですから、著者は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」と語るのです。「永遠」と訳された原語は複数形ですので、「永遠に永遠に」と訳したほうがベターかもしれません。主エスは過去、現在、未来という時を超え、永遠に永遠にかわることのない唯一の指導者です。今日、先ず覚えて頂きたいことは主イエスは唯一永遠な指導者ということです。

②物心両面にわたり分かち合う 

9節を見てみましょう。13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。「いろいろ異なった教え」とあります。この手紙が記された初代教会の時代、ユダヤ教の禁欲を重んじる一派がありました。ある種の食べ物や飲み物を禁じ。これらを守らないと救われないという異端の教えです。ですから、著者はそのような異端に惑わされることがないよう食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。」と忠告をするのです。初代教会の時代から今日に至るまで数多くの異端が存在しています。私たちも異端に惑わされないよう聖書を正しく理解しなくてはならないのです。10-12節を見てみましょう。13:10 わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。13:11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。異端の食べ物の話から旧約時代に行われていた生贄とイエスの贖罪の御業の話に展開をします。「わたしたち」、天上の真の幕屋に仕えているキリスト者と地上の「幕屋に仕えている人」、ユダヤ教の祭司の対比です。「食べ物を取って食べる権利がありません。」とあるように、この地上の幕屋で仕えている祭司たちには、キリスト者の祭壇で捧げられた食べ物、つまり、イエス・キリストの犠牲にはあずかる権利はないと著者は語ります。旧約時代、生贄の動物の「体は宿営の外で焼かれ」ていました。同様に主イエスも「門の外で苦難に遭われたのです。」主イエスは同胞であるユダヤ人に拒否され、エルサレムの門の外で死を遂げたのです。13節を見てみましょう。13:13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。「イエスが受けられた辱めを担い、」とあります。ルカによる福音書に記された場面を思い起こします。ルカ23章26節を見てみましょう。ルカ 23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。キリスト者にとって、十字架は、復活への喜びの道であり、十字架の辱めは復活の栄光なのです。キリスト者であるがゆえに受ける艱難、恥辱には平安と栄光が約束されているのです。ですから、著者は「宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」と語るのです。これは比喩的な表現ですので、ユダヤ教から完全に離脱したキリスト者であるという意味です。14節を見てみましょう。13:14 わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。14節はこの手紙の11章13節を言い換えたものです。確認をしてみましょう。ヘブル 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。15-17節を見てみましょう。13:15 だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。13:16 善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。13:17 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。15節に「いけにえ」とあります。イエスキリストが人間として生まれ、ただ一度、十字架にかかりご自身を燔祭の動物として捧げてくださったので、新約時代、キリスト者は燔祭用の動物を犠牲として捧げる必要はありませんが、「賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げ」ることが求められるのです。牛や山羊、仔牛を殺す代わりに、霊的な生贄である「賛美」を絶えず捧げなくてはいけないのです。賛美というと多くの方は讃美歌やワーシップソングを歌うことと思うかもしれませんが、祈りの中で神を心から崇めるという賛美もあると思います。口先だけの賛美ではなく心から神を崇め賛美するのです。「御名をたたえる唇の実」とあります。私たちが美しいもの、荘厳な物の前にたつと思わず賛嘆の声を発します。以前、私は熊本県の阿蘇市に住んでいたことがあるのですが、そこで生まれて初めて樹氷を見ました。その時、私はこの大自然の驚異に擦れ、思わず「ああ、すごいなぁ」と賛嘆の声を発してしまいました。大自然という言葉は神の作品と言い換えることができます。大自然を通して神とお会いすることができるのです。そうすれば賛美せずにはいられないものなのです。ですから、著者は「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」と述べ、続いて「善い行いと施しとを忘れないでください。」と勧めます。人が救われて永遠の命を得るためには行為は一切関係がありません。主イエスを救い主と信じ受け入れるだけです。ですから、これを福音=よいお知らせと言います。しかし、一度、恵によって救われたキリスト者には善い行いをすることが求められるのです。「施し」と訳された言葉では原語のギリシャ語では「コイノニア=交わり」という意味です。ですから、単に施しを与えるのではなく、キリストにある兄弟姉妹とし、悲しみも喜びも、それが精神的であれ物質的であれ、ともにキリストに連なるからだとして分かち合うことなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは物心両面にわたり分かち合うということです。このような生贄=捧げもの=交わりを「神はお喜びになるのです。」7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」と記されていましたが、再度、著者は「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。」と念押しをしています。良き指導者に従うことが信仰の成長に繋がり益となるものです。

③大牧者が私たちを愛しておられる

18,19節を見てみましょう。13:18 わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。13:19 特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。 「わたしたちのために祈ってください。」とあります。「わたしたち」とはこの手紙の著者を含めた指導者ことと思われます。指導者と信徒の関係とは単に指導するものと指導されるものという関係ではありません。牧師と信徒の関係とは役割が異なるだけですので縦型ではなく横型です。そこには上下優劣はありません。牧師が信徒のために祈ることは言うまでもありませんが、信徒も牧師のために祈る必要があるのです。是非、日々の祈りの時に、私たち夫婦のことを覚え、主の御心にかなった働きができるようお祈りをお願いします。この講解説教の初回でお話をしましたが、この手紙の受取人について二説あります。先ず、「ローマ人でない者は人間ではない」言われていた時代、迫害を受け、各地に離散しているユダヤ人のキリスト者に書かれたという説もありますし、19節の御言葉「特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。」から判断し、場所は不明ですが、どこか特定の場所にいるユダヤ人のキリスト者に書かれたとの説もあります。20,21節を見てみましょう。13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 13:21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。20,21節は祝禱です。神学者のJ.W.ボーマンは20,21節を「新約聖書に見いだされる最も美しい祝祷である」と述べています。「羊の大牧者」とあります。モーセがエジプトに逃れて荒野で羊を飼っていた時の口伝がありますので、ご紹介したいと思います。飼っていた一匹の羊が迷い出てしまいました。モーセは必死になって探し、川の中で水を飲んでいるその羊を見つけ出します。モーセはこの羊を肩にかついで「水が飲みたかったから、群れを離れていたのだね」とやさしく言って、羊がモーセに大変な苦労をかけたことは一言も言わずに家に連れ帰ったのです。神はこれを見て「モーセという男は、迷い出た羊にもこれほど愛情があるのだから、私の民の指導者として最も適しているに違いない」と思われたのです。羊飼いとはいつでも羊のために命を投げ出す、また、羊が愚かであっても羊を愛するものなのです。これこそ、大牧者なるイエスが私たちのためになさってくださったことであり、今もされていることなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは大牧者が私たちを愛しておられるということです。22-25節を見てみましょう。13:22 兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。13:23 わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。13:24 あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。13:25 恵みがあなたがた一同と共にあるように。「わたしは手短に書いたのですから」とあるように、著者はもっともっと伝えたいことがあったのです。しかし、要点だけを書いたので、「勧めの言葉を受け入れてください」と綴るのです。23節にテモテの名前があります。恐らくは使徒パウロの愛弟子で、テモテの手紙の著者のテモテと思われますが、テモテが投獄されていたことはこの手紙にしか記されていませんので断定は出来ません。24節に「イタリア出身の人たち」とありますが、ギリシャ的なユダヤ人キリスト者と思われますが不詳です。「恵みがあなたがた一同と共にあるように。」イエスキリストの血による贖いにより、私たちに与えてくださる神の恩恵と祝福をもってこの手紙は閉じています。

Today’s Take-away

①唯一永遠の指導者、②物心両面にわたり分かち合う、③大牧者が私たちを愛しておられる

Let’s Reflect ヘブライ人への手紙の講解説教を通して一番学んだことは何でしょうか。