• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年12月4日主日礼拝

    

説教題 主が背後におられる 聖書箇所 ヘブライ人への手紙12章25節-13章6節

12:25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。12:26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」12:27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。12:29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。神に喜ばれる奉仕13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。13:3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。13:4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。13:6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」

ハレルヤ!12月の第一主日(アドベント第二主日)を迎えています。アドベントの期間ではありますが、引き続きヘブライ人への手紙を講解で学び、今日はその24回目です。来週は美恵子牧師が御言葉を取り次ぎますので、再来週の18日が25回目で最後となります。では、前回のおさらいから始めましょう。12章14-24節を通し、「主イエスが切り開かれた道」と題し三つ事を中心にお話をしました。①聖さは御前に出る準備、②御心を求め行う、③キリストの血は歓喜の叫びでした。今日は続く12章25節-13章6節から「主が背後におられる」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。先週、学んだようにシナイ山に比喩された古い時代とシオンの山に比喩された新しい時代には大きな差異があります。キリスト者はシオンの山に立つ者として、古い時代とは比べ物にならないほどの大きな特権が恵みとして与えられています。しかし、このことは同時に大きな責任が伴うのです。25-29節には主イエスが切り開いた新時代に生きる者の留意すべきことが記されています。

①神に喜ばれるように奉仕する

25節から順番に見てまいりましょう。12:25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。25節はモーセによる神の語りかけとイエスによる神の語りかけを対比し勧告をしています。モーセはユダヤの民に神のメッセージを伝えましたが、単なる口であり、メッセージを取り次いだだけにすぎませんでした。それでも、モーセが伝達した命令に背いた者は神の「罰を逃れられなかった」のです。一方、イエスは神の声そのものです。このことは原語からわかります。「神の御旨を告げる」「御旨を告げる」ありますが、告げると訳された部分は違う言葉が使われています。前者は「話す、伝える」、後者は「指示する、警告する」の意味です。そして、主イエスの語りかけは完全で最終的なものだったのです。この手紙の1章2節には次のように記されていました。1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。つまり、律法という不完全な命令に背く者が罰を受けるのであれば、福音をもたらした主イエスの声を拒む者は、一層厳しい罰を免れることは出来ないと語るのです。26節を見てみましょう。12:26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」「あのとき」とありますが、シナイ山での出来事です。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」はハガイ書からの引用です。ハガイ 2:6 まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度/天と地を、海と陸地を揺り動かす。シナイ山での神の尊厳を表す出来事と終わりの日に関するハガイの預言とを関連させ、新しい契約の時代に置かれているキリスト者の責任を語るのです。27,28節を見てみましょう。12:27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。27節はレトリックな表現ですので、やさしく言い換えれば「シナイ山で、山が揺り動かされました。それに対して、やがて到来する終わりの日には、すべての造られたもの、揺れ動くものは滅び去る」という意味です。しかしキリスト者には、変わらず、滅びることがなく、「揺り動かされることのない御国」が待っているのです。ですから、「感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」と勧めているのです。ですから、奉仕は義務的にいやいやながらするものでも、律法的に行うものでもありません。神に喜ばれるように奉仕をしようではありませんか。今日、先ず覚えて頂きたいことは神に喜ばれるように奉仕するということです。29節を見てみましょう。12:29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。29節は申命記4:24の御言葉を念頭に置いてのものです。 4:24 あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。私たちは神のあわれみに甘んじて、神を畏敬することを忘れてはならないのです。神がモーセを通して語られた言葉に聞き従わなかったユダヤの民は約束の地に入ることは出来ませんでした。同様にキリストがもたらした福音の言葉を拒むのであれば、天の約束の地を受け継ぐことができないのです。キリスト者は御国を望みつつ、信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、この世を走りぬこうではありませんか。

➁兄弟としていつも愛し合う

13章には信仰から生じるキリスト者の生活のあるべき姿が記されています。その第一番目が愛についてです。1-3節には愛の実践について記されています。13章1節を見てみましょう。13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。「兄弟としていつも愛し合いなさい。」と訳されていますが、原語を直訳すると兄弟愛を内に留まらせようです。兄弟愛は原語ではフィラデルフィアと言います。因みに、アメリカのペンシルベニア州のフィラデルフィア市の名前はこの兄弟愛に満ちた市を目指すことから名付けられています。キリスト者がお互いに愛し合うことは、この手紙の著者だけでなく聖書が一貫して教えていることです。主イエスは次のように語りました。ヨハネによる福音書13:34,35を見てみましょう。13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。開きませんが、マタイによる福音書22:37-40、ローマの信徒への手紙12:30にも同様な御言葉がありますので、後ほどお読み下さい。この「兄弟としていつも愛し合いなさい。」という勧めの背景には、手紙の受取人の中に兄弟愛の交わりから遠ざかり、離れて行く兄弟たちがいたと思われます。この手紙の10章24,25節でも記されていました。確認をしてみましょう。10:24 互いに愛と善行に励むように心がけ、 10:25 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。キリスト者とは本来は永遠の刑罰に値するものが、恵みである神の愛、主イエスの十字架によって救われ、キリストの体なる教会の一員とされた者です。ですから、感謝の心をもって「兄弟としていつも愛し合」おうではありませんか。13章2節を見てみましょう。13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」とありますが、これも一つの兄弟愛の具体的な事例です。当時、宿泊施設は非常に不衛生で、不道徳の巣にもなっていました。また、キリスト者には迫害もありましたので、仕事などで旅行をするキリスト者にとって宿の提供をされることや親切にされることは何よりも有り難いことでした。私自身、クリスチャンになってからアメリカに暫く滞在をしたのですが、サンホセで牧会をされている先生のご自宅にホームステイをさせて頂き本当にお世話になり感謝をしています。観光のため、サンフランシスコ等に連れて行ってくださいました。ホームステイを機に親しい交わりは続き、この先生が日本に来られるときは我が家に泊まって頂いていました。後半に「気づかずに天使たちをもてなしました。」とあります。これは創世記の18,19章に記されている、アブラハムやロトが天使たちをもてなしやことを念頭に置いての表現と思われます。旅人を天使のように大事に扱いなさいとの意味でしょう。3節を見てみましょう。13:3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。「牢に捕らわれている人たち」とあります。キリストを信じるがゆえに投獄されていた兄弟たちがいました。開きませんが、この手紙の10章34節に記されていました。同じ肉体をもっている人間として「虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」と勧告するのです。苦しんでいる兄弟姉妹への同情です。使徒パウロも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)言いました。さて、私たちはどうでしょうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」いているでしょうか。今ここで、心を探ってみようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは兄弟としていつも愛し合うということです。4-6節はキリスト者の倫理的義務について記されています。4節を見てみましょう。13:4 結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。この勧告がなされたことには二つの問題がありました。一つには禁欲主義者たちによる結婚否定論です。ある人たちは純潔を保つために去勢をしました。ギリシア教父のオリゲネスもその一人です。もう一つの問題は不品行や姦淫を行うものがいたのです。この二つの問題のどちらも聖書の結婚観を正しく理解していないものです。神は人を男と女とに創造され、また、「産めよ、増えよ、」と言われ夫婦の性愛を祝福されましたが、同時に神は罪によって性愛が人間の人格的関係から離れてしまうことも予知しておられました。十戒に20:14 姦淫してはならない 。20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」とある通りです。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり」という戒めは、時と場所を超えて、すべてのキリスト者が吟味しなければならない根本的な問題なのです。

③万軍の主が背後におられる

5,6節を見てみましょう。13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。性の問題と金銭の問題は日常的に直結していて、これで人生を台無しにする人たちがいます。残念ながら牧師でもいます。性欲も金銭もそれ自体は罪ではありませんが、用い方一つで祝福にも罪にもなるのです。「金銭に執着しない生活をし」とありますが、この個所を原語で直訳すると「金銭のために生きるな」となります。「地獄の沙汰も金次第」という諺があります。金さえあればなんでも手に入るし、金さえあればなんでも解決できるという考え方です。こうした考え方が神など不必要という思いに繋がるのです。また、金や富は人をこの世に釘付けにします。主イエスも次のように言われています。マタイによる福音書6章21節を見てみましょう。 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。ローマの諺に「金は海水のようだ」とあります。海水は飲めば飲むほど乾きます。同様に金も多く持てばより多く持ちたいと思ってしますのです。貪欲という罪です。ですから、続いて、「今持っているもので満足しなさい。」とありますが、これは神がすべての必要なものを備えてくださるとの信仰です。フィリピの信徒への手紙を見てみましょう。 4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。5節の後半に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」とありますが、この個所は創世記28:15、申命記31:6-8、ヨシュア記1:5から自由に引用し著者がまとめたものと思われますが、なんと心強い御言葉でしょうか。あるインディアンの部落では子どもが12歳になると夜一人で猛獣がいるジャングルに行かせるそうです。こどもを成長させるため教育のためですが、勿論、こどもの背後には毒矢をもった腕利きの数名の大人がついていきます。子どもはこのことを信じているので、12歳という年齢でもジャングルに行けるのです。私たちの世界にも猛獣がいますが、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われる万軍の主が背後におられるのです。これほど心強いことはありません。6節を見てみましょう。13:6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」これは詩編118編6節からの引用です。118:6 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。この御言葉はルターが最も愛唱した詩編の一つと言われています。また、この詩編はユダヤ教においても、その祝祭日に感謝の賛美として用いられていました。この手紙の受取人はユダヤ教から回心をし、それ故に迫害を受けていました。そんな彼らにとって、この6節は非常に慰めと勇気を与えたことでしょう。私たちの日常生活に慰め、励まし、勇気を与えるものは神の約束の御言葉です。今日、最後に覚えて頂きたいことは万軍の主が背後におられるということです。ですから、何を恐れるのでしょうか。恐れる必要はないのです。

Today’s Take-away

①神に喜ばれるように奉仕する、➁兄弟としていつも愛し合う、③万軍の主が背後におられる

Let’s do it.「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」と宣言しましょう!