• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年2月20日主日礼拝  

説教題: 主の御名による生活~脱ぎ去るもの、身に着けるもの~ 聖書箇所:コロサイの信徒への手紙3章5-17節

3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

ハレルヤ!2月の第三主日を迎えています。今、私たちの教会ではコロサイの信徒への手紙を講解で学んでいて、今日はその六回目です。先週は2章20節-3章4節を通し、「真のいのち~何に優先順位を置いていますか~」と題し三つのことを中心にお話をしました。①聖書の教えは禁欲主義ではない、②主イエスを第一優先にする、③真のいのちは主の内にあるでした。今日は続く3章5-17節から「主の御名による生活~脱ぎ去るもの、身に着けるもの~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

➀偶像数礼拝は貪欲から起こる

5-11節のキーワードは「脱ぎ去る」です。このことを覚えつつ、5節から見て参りましょう。

3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。「 だから、」とあります。パウロ書簡の特徴として教理と実践の順番で記されています。コロサイの信徒への手紙もそうです。教理に引き続いて実践にはいります。教理と実践、信仰と生活という順番は大切です。それは、信仰者の生活は、真の神を正しく知ることから始まるからです。この土台がしっかりしていないと異端や新興宗教に惑わされてしまうのです。先週、学んだ2章20節-3章4節は教理の部分の結び且つ実践の序論でした。そして、これから学ぶ実践の本論は二分することが出来ます。今日の箇所の3章5-17節は信仰生活全般で、来週に学ぶ3章18節-4章6節は家庭における人間関係の在り方です。パウロは続いて、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」と語ります。「みだらな行い」とありますが、原語ではπορνείαν(ポルネイア)と言い「婚外の性的関係」の意味で、英語のpornography語源です。「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」とあります。八百万神(ヤオロズのかみ)というように何でも神にしてしまう日本人には特に注意が必要です。知り合いの牧師ですが、未信者のころカエルの置物をカエル様と呼んで偶像礼拝をしていたそうです。偶像礼拝とは神社仏閣や自宅で形のある偶像を拝むことだけではありません。金、名誉、自分自身が主イエスより大事になっていれば、これも立派な偶像礼拝です。飽きることのない欲望、貪欲が偶像礼拝に他ならないのです。貪欲により、主イエスという私たちの主(あるじ)が主の座から引きずり降ろされてしまうのです。20世紀に活躍した英国の神学者のF.D.モールは次のように語ります。「偶像礼拝とは、自己を神の奉仕にささげようとするより、自分の目的のために神を利用することである」と。偶像礼拝の本質は、何かを手に入れようとする欲望、より多く持ちたいという欲望です。今日、先ず覚えて頂きたいことは偶像礼拝は貪欲から起るということです。マタイによる福音書6章33節をAlive訳と一緒に見てみましょう。 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。6:33だから神の王国キングダムと神の義を第一に求めろ!そうすれば必要なものはすべて与えられる!!!(Alive訳)私たちの生活に必要なものは全て与えられるのです。ですから、これ以上の何を他に望むのでしょうか。

②愛が全ての美徳を完成させる

6節を見てみましょう。3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。パウロは偶像礼拝にふける者へ「神の怒りは不従順な者たちに下ります。」と厳しく警告をします。同様な御言葉がエフェソの信徒への手紙5章5節にも記されています。 5:5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。7節を見てみましょう。3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。人は、イエス・キリストを救い主と受け入れた瞬間から新しい人間に生まれ変わります。神学用語で言えば新生です。そして、聖化が始まります。聖化の完成はキリストの再臨時ですから、それまでは、キリスト者には古い自分が残っているのです。罪の残り火があり、罪を犯してしまい、神の怒りは下るのです。ですから、パウロは5節で「地上的なもの(古い自分)を捨て去りなさい。」と勧告をしているのです。8-9節を見てみましょう。3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、パウロは性的な罪に加え「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。3:9 互いにうそをついてはなりません。」と語ります。「怒り、憤り、悪意、」は心の罪で、「そしり、口から出る恥ずべき言葉、うそ」は口の罪と言えます。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」とあります。このことをちいろば牧師こと榎本保朗先生は著書「新約聖書一日一章」の中で次のように解説をしています。そのまま引用をします。「古いものを捨てることは、私たちにとって難しいことかもしれない。しかし、新しい世界がどんなに素晴らしいものであるかを知ったときに、古いもものに頼っていることがばからしくなる。(中略)悔い改めは、メタノイアというギリシャ語であるが、神がそれほど愛してくださっていたのかと気づき、自分の心を変えていくことである。だから神の恵みがわからなければ悔い改めは起きてこない。新しい人を着ることがどんなに素晴らしいことかということがわかれば、古い人を自然に脱ぎ捨てることができる。」

10-11節を見てみましょう。3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。10節に「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」とあります。元々、人間は神の姿に似せて創られています。開きませんが、創世記1章26,27節に記されています。ところが、アダムとエバが犯した罪(創世記3章)により、この神に似て創られた姿は失われてしまったのです。しかし、愛なる神は聖霊を送ってくださり、人間を元のあるべき姿に戻そうとされるのです。キリスト者も罪を犯します。しかし、キリスト者が犯す罪は点です。線ではありません。助け主、内住の聖霊の働きによって罪を犯し続けることが出来ないのです。11節からもグノーシス派の異端がユダヤ教の要素を持っていたことがわかります。しかし、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」た人の群れである教会には人種、文化、社会的な差別はないのです。「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」とある通りです。さて、私たちはどうでしょうか。細かな違い、つまらぬ相違を問題にしてはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。12-17節のキーワードは「身に着ける」です。12,13節を見てみましょう。3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着せなさい。3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とあります。この三つの言葉は元々はイスラエルの民のものでしたが、イエスキリストの贖いにより、霊的イスラエルに拡大したことをパウロは公言しているのです。神の恵みと愛が全ての異邦人に与えられたのです。聖書が言う異邦人とはユダヤ人以外の人間です。ですから、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。」と勧めるのです。ここで、着目すべき点は12,13節に記されている全ての徳目、美点が全て人間関係に関するものです。この箇所で、個人が勤勉であれとか真面目であれとは言及をしていません。人間関係に問題があっても赦し合いなさいとパウロは勧めます。その理由が、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」です。赦すと訳された原語は惜しみなく寛大に好意を示すという意味もあります。人を赦すことは簡単でもありませんし、人を許すには時間がかかる場合があります。私自身の経験を話したいと思います。転落事故がきっかけで教会に通い始めてから四カ月位経った頃のことです。当時、私は求道者でしたが、インドから来た女子留学生のため、礼拝で通訳をしていました。ある日、その彼女が役員の方の夕食に招かれたのですが、行き方がわかりません。今と異なりスマフォがない時代です。そこで、私がその役員の方の最寄り駅の改札迄おくることを彼女と話していました。すると、それを聞いた牧師が声を荒げ「それ、やめてくれる。交わりは教会の中だけにしなさい。」と言いました。温和な牧師でそれまでは声を荒げたことはなく私はびっくりしたのですが、牧師は私が彼女をデートに誘っている、ナンパをしていると勘違いをしたのです。私は事情を話し、牧師も誤りを認め詫び、その場は一件落着となったのですが、私の怒りは怒髪冠を衝くもので、このことが引き金となり、その教会を離れました。引っ越したこともあり、その半年後に洗礼を受け別の教会員になり、その牧師を許すのには4~5年の年月がかかりましたが、完全に赦せています。神の愛の現れである主イエスの十字架の重みが年々、理解できるようになったからです。「たかが勘違いではないか。勘違いや誤解は自分も含め誰にでもあることではないか」と自分の非寛容さを悟ったからです。14節を見てみましょう。3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。3:14 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(口語訳)愛を身に着けなさい。」とあります。この愛は神の愛です。原語からわかります。神の愛を意味するアガペーが使われています。口語訳聖書ではわかりやすいように愛が着物の帯に例えられています。帯は着物をしっかりと体に密着をさせるもので、帯がないと着物はダブダブになってしまいます。ですから、愛という美徳があって全ての美徳を一つにまとめ完全なものとすることができるのです。愛がなければ他の美徳がバラバラになってしまうのです。愛が全ての美徳の根本で、今日の、二番目に覚えて頂きたいことは愛が全ての美徳を完成させるということです。

③全ての事を主イエスの御名で行う

15-17節を見てみましょう。3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。パウロはキリスト者の身に着ける美徳に言及し、15-17節では、その美徳がさらに高められるために三つの勧めをしています。「キリストの平和、キリストの言葉、主イエスの名によって」です。「キリストの平和」とありますが、この平和はキリストが与えてくださる平和で、この世の一時的な平和とことなります。主イエスご自身が次のように語られた通りです。ヨハネ 14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。先々週にお話しをしましたが、聖書で平和、平安と訳されている言語には、その意味に加え健全、完結、安全、繁栄という意味があります。心を騒がせたり、おびえたりする必要はないのです。「キリストの言葉」とは言うまでもなく聖書です。聖書を通して生けるキリストを知り、その生けるキリストとの交わりを通して、キリストの御心に沿った歩みができるのです。ですから、御御言葉を内に留めることと日々のディボーションは欠かすことができないのです。「主イエスの名によって」とあります。主イエスの名前には権威があります。使徒言行録16章18節を開いてみましょう。 使途 16:18 そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。この御言葉は占いの霊に取りつかれている女奴隷に対してパウロが命じたものです。主イエスの名前による歩みとは、父なる神から与えられる力によって神の栄光を現す信仰生活です。それは、聖化の源であり、奉仕の原動力でもあります。「イエスによって、父である神に感謝しなさい。」とありますが、主イエスの御名による信仰生活の当然の帰結です。それは、全ての事を主イエスの御名で行うと、それがもたらすことに対し、神に感謝せざるを得ないからです。今日、最後に覚えて頂きたいことは全ての事を主の御名で行うということです。

Today’s Point ①偶像礼拝は貪欲から起る、②愛が全ての美徳を完成させる、③全ての事を主の御名で行う。Thinking Time 必要なものは全て与えられているとう確信はありますか。

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