• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年2月6日主日礼拝

説教題: 信仰生活の土台~全ての罪が十字架に釘付けられた!~ 聖書箇所:コロサイの信徒への手紙2章6-19節

◆キリストに結ばれた生活2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。

ハレルヤ!2月の第一主日を迎えています。今、私たちの教会ではコロサイの信徒への手紙を講解で学んでいて今日はその四回目です。先週は、溝口寛先生に御用をして頂きました。詩篇23編節から「主は我が牧者、我乏しきことなし」と題しお話をして頂きました。世にある限り毎日が戦いですが、主に信頼した歩みにより、生涯が祝福され、やがては永遠の都に住む者とさせていただけるのです。主に感謝します。今日は2章6-19節から「信仰生活の土台~全ての罪が十字架に釘付けられた!~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主イエスが信仰生活の土台

6,7節から見て参りましょう。2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。コロサイの教会にはグノーシス派の異端が忍び込んでいました。異端はオミクロン株のようにあっという間に広がってしまうから注意が必要です。ですから、パウロは「キリストに結ばれて歩みなさい。」と勧めるのです。信仰生活は一度、主イエスを受け入れたなら良いわけでありません。そこからがスタートなのです。7節にこの健全な信仰生活のあり方が三つの面から説明をしています。2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。健全な信仰生活のあり方の一つ目が「キリストに根を下ろして造り上げられ」です。キリスト者の生活を植物にたとえ、大地であるキリストに根を張り、そこから霊的成長に必要な栄養素を得るのです。この部分はAlive訳聖書ではわかりやすく「イエスを土台石にしなければならない。」と訳しています。今日、先ず覚えて頂きたいことは主イエスこそが信仰の生活の土台石ということです。土台石は礎石、束石(つかいし)とも言いますが、主イエスご自身が土台の重要性について次のように教えています。ルカによる福音書6章47-49節を見てみましょう。6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」健全な信仰生活のあり方の二つ目が「教えられたとおりの信仰をしっかり守」るです。キーワードはしっかりです。単に守るのではありません。エパフラスから聞いた福音を異端の教えからしっかり守れとパウロは語ります。健全な信仰生活のあり方の三つ目が「あふれるばかりに感謝」です。の部分は原語で直訳すると「感謝において溢れなさい」です。感謝はキリスト者の生活の特徴の一つですが、この感謝は自発的なものであり、湧き出る泉のようなものです。ですから、感謝のある生活は霊的に健全な状態を保っている証拠と言えます。8-10節を見てみ見ましょう。2:8 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。2:9 キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、2:10 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。パウロは1章15節から2勝7節までキリスト教の教理を中心に述べてきましたが、8節からは異端に対して言及を始めます。講解説教の初回で話した通り、8節にはパウロがこの手紙を記した理由が記されています。「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」、つまりグノーシス主義に影響を受けた異端の教えのことです。この偽の教えに警戒することと反論をするためにこの手紙を書いたのです。「人のとりこにされないように」とありますが、とりこになるという言葉は原語では誘惑する、略奪するという意味です。異端の手口は巧妙です。今、日本では、まじめで奉仕熱心なキリスト者を装い、偽の教えを教会員に吹き込んで、気が付けば教会ごと乗っ取られ略奪されてしまうというケースが少なからずあります。韓国系の異端の仕業です。パウロの時代から今日に至るまで異端は存在し、増殖しているのです。十分に注意をしなければなりません。9,10節でパウロは異端の対策を語ります。それは、「キリストにおいて満たされているのです。」「キリストはすべての支配や権威の頭」です。この二つのことを決して忘れてはいけないのです。人間は疲れているときに誘惑をされてしまうものです。主イエスは疲れている人に次のように語りかけています。マタイ11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。そもそも、疲れとは主イエスに頼らずに自分で頑張りすぎると起こるものです。疲れの予防は主イエスに頼ることですが、もし、疲れてしまったら直ぐに主イエスのもとに行きましょう。11節を見てみ見ましょう。2:11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、コロサイの教会に侵入した異端の教えはキリストの神性の否定に加え、ユダヤ教の律法主義でもありました。11節では「割礼」についてです。パウロは「手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」と語るのです。キリスト者は、人間の手で実際に体に傷をつけるのではなく「キリストの割礼受け」るのです。「キリストの割礼」ついて、パウロはローマの信徒への手紙で次のように語ります。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。「“霊”によって心に施された割礼」、つまりキリスト者に与えられている聖霊が新約時代の割礼なのです。キリスト者の印は肉体の割礼ではなく内住の聖霊です。12節を見てみ見ましょう。2:12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。12節に「洗礼によって」とあります。洗礼とはキリストとの一体化を目に見える形で表現をしたものと言えます。この一体化を自分のものとするには、キリストを蘇らせた「神の力を信じ」ることが必要なのです。私たちは信仰によって、古い生活に別れを告げ、新しい生活をスタートさせるのです。この新しい生活を支え導くのも、キリストを復活させた神の力という信仰です。13節を見てみましょう。2:13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、洗礼は単なる象徴ではありません。洗礼志願者は受洗の際、キリストが墓の中におりたもうように「葬られ」たのです。そして、キリストがイースターの日に復活されたように、新しい生命へと立ち上がるのです。聖霊の働きを通して、回心した者は、実際に自分自身の悪しき過去から新しい命へと蘇るのです。そして、それ以降、生ける主と結ばれ、キリストの体なる教会の枝とされるために召し出されたのです。神はキリストにあって、私たちに新しい命をあたえ、「一切の罪を赦し」てくださるのです。

②全ての罪が十字架に釘付けられた

14-15節を見てみましょう。2:14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。2:15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。14-15節に記されていることはキリストの贖罪により古い規則の効力が無効になったことです。「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し」とあります。一切の罪が赦されていることが証書にたとえているのです。「破棄し」と訳された原語は「消し去る」の意味です。証書に記されていた内容が、何も書かれていないようになるのです。具体的には、私たちの罪の一切が十字架に釘付けされ取り除かれているのです。k今日、二番目に覚えて頂きたいことは全ての罪が十字架に釘付けられたということです。恵みとしか言いようがありません。15節に「もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」とあります。これは、ローマ帝国の将軍が、戦争に勝って凱旋してくるときのことを念頭に置いた表現です。当時、ローマに凱旋した将軍は自ら戦車の上に立ち、その後に武装解除させた捕虜を従えたのです。その場面を「キリストの勝利」になぞっているのです。「もろもろの支配」とはコロサイの人たちを異端にそそのかしている悪霊による支配です。16-17節を見てみましょう。2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。「だから」とはじまります。11-15節の内容を受けてのことです。要約すれば、キリストが悪魔に勝利し、キリスト者が自由の身となったことです。「食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと」とありますが、これは旧約聖書に記されている食物や安息日などの規定のことです。このことからコロサイの異端にはユダヤ教の律法主義的な考えをする人や禁欲主義的な人がいたことがわかります。禁欲主事については来週、詳しく学びます。旧約聖書に記されていることは新約聖書の記されていることの預言であり予型です。ですから、パウロは「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」と述べているのです旧約聖書が間違っているとか不要であるとかの意味ではありません。旧約聖書において意味があったことは、キリストを指示していたからです。ですから、キリストが現れた以上、これらの規定を守らなければ救われないということはないのです。パウロは福音の非本質である食べ物についてローマの信徒への手紙14:2-4で次のように記しています。14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。

③主が私たちを成長させる

18-19節を見てみましょう。2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。「偽りの謙遜」とあります。コロサイに忍びこんできた異端の中にはこのような人もいたのです。謙遜は美徳の一つですが、それが意図的であると自己満足に陥り、偽善に他ならないのです。これが「偽りの謙遜」です。「天使礼拝」とありますが、コロサイの人たちには神と人との仲保者としてキリストではなく天使と考えていた方がいたようです。これらは暫し神秘的な体験に基づくものです。ですから、パウロは「幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていない」と断罪しているのです。19節の後半に「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」とあります。パウロはこの箇所でもキリストと教会の関係を、頭と体にたとえて語ります。キリストの体である教会には一致と多様性があります。キリスト者はキリストが頭である教会に属します。体に色々な部分、器官があるように色々な働きがあります。そして、これらはお互いに結びついていなければならないのです。そして、大事なことは「神に育てられて成長してゆく」ことです。神であるキリストが信者一人一人をその賜物によって適材適所に置いて用いられ、キリストが教会を成長させるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは主が私たちを成長させるということです。

Today’s Point①キリストが信仰生活の土台、②全ての罪が十字架に釘付けられた、③主が私たちを成長させるTinkingTime福音の非本質的なことで、周りの人を裁いてはいないでしょうか。