• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年3月13日主日礼拝    

 

説教題:パウロの願いと配慮~人はかえられる其一~ 聖書箇所:フィレモンへの手紙1-10

◆挨拶1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、1:2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。◆フィレモンの愛と信仰1:4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。1:5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。1:6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。1:7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。◆パウロ、オネシモのために執り成す1:8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、:9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。1:10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。

ハレルヤ!3月の第二主日を迎えています。コロサイの信徒への手紙の講解説教が先週で終わりました。先週は4章2-18節から「祈りと賢いふるまい~チャンスを見逃すな!~」と題し三つのことを中心にお話をしました。牧師のためにお祈りください、伝道のチャンスを見逃さない、名前を書きだして祈るでした。先週学びました最後の挨拶の部分(4章9節)でオネシモの名前が記されていました。4:9 また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟、オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。郵便制度がない当時、コロサイの教会へ手紙を届ける役目を担ったのが、ティキコとオネシモでした。この役目は誰でも出来るものではありません。信頼ができる人物であり、不測の事態にあっても忠実にその任務を果たすことができる能力がある人です。パウロはオネシモのことを「忠実な愛する兄弟」と記しています。オネシモの名前は「有益、利益」を意味するオネシーシスに由来します。オネシモはフィレモンの奴隷で、フィレモンの家から逃走した「無益な者」でしかなかったのですが、今や主にあって、その名の通り「有益な者」にかえられたのです。そのオネシモの主人であるフィレモンに宛てにパウロが書いた手紙から二回に分けて、「パウロの願いと配慮~人はかえられる其一~」と題してお話をします。次週は後半の其二です。ご一緒に学んで参りましょう。先ず、執筆年代ですが、紀元61~62年と考えられていますが、聖書の内容、オネシモの成長から判断してコロサイの信徒への手紙より前であることは確かだと思います。また、場所の断定は出来ませんが、獄中で書かれています。エフェソ、フィリピ、コロサイと並んで獄中書簡と呼ばれています。

①教会員の問題は教会全体の問題

1,2節から順番に見て参りましょう。1:1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、1:2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。1,2節にはこの手紙の差出人と受取人が記されています。差出人は「パウロとテモテ」、差出人は連名で書かれていますが、実質はパウロが記した手紙です。この手紙の中でテモテの名前は1節以外にありません。テモテはエフェソでの伝道の時にパウロに同行していたので、フィレモンと知り合いだったことも考えられますが、パウロがテモテの名前を記したのはテモテへの配慮をここに見ることができます。パウロは自分の事を「キリスト・イエスの囚人パウロ」と表現しています。使徒パウロではありません。これはこの手紙が友人で「愛する協力者フィレモン」にあてた個人的な意味合いが強い手紙だからです。パウロはこの25節からなる短い手紙の中で4回(9,10,13,23節)も自分が囚人であることを記しています。私信ですので、使徒の権威によらず、囚人の身であることを強調してまでも伝えたいことがあったのです。後ほど詳しくお話ししますが、オネシモのことです。受取人の確認をしましょう。「愛する協力者フィレモン」,連名の「姉妹アフィア」はフィレモンの妻、「戦友アルキポ」はフィレモンとアフィアの子どもではないかとの学説がありますが断定はできません。宛先の最後に「あなたの家にある教会」とあります。「あなた」は単数形です。このことからこの手紙はメインにはフィレモン宛てであり、フィレモン家での家庭礼拝に集う方にも書かれたものであることがわかります。個人的な手紙ですが、その内容をアフィアやアルキポと他の教会員にも知って欲しかったのでしょう。そのくらいフィレモン家の家庭集会はアットホームな集会だったと思います。このことからとても大事なことがわかります。教会は神の家族です。ですから、一教会員の問題は、神の家族の問題なのです。教会全体の問題なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは教会員の問題は教会全体の問題ということです。教会に集う方の問題を教会の問題としてとらえ、皆で心を合わせて問題解決を祈る必要があるのです。初代教会の時代、キリスト教の会堂はなく集会は家庭集会が中心でした。ローマの信徒への手紙16章3-5節を見てみましょう。 16:3 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。 16:4 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。 16:5 また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。プリスカとアキラが家庭集会をしていたことがわかります。また、開きませんが、使徒言行録12章12節にもマルコの母のマリアが家庭集会を開いていたことが記されています。キリスト教の会堂が建てられるようになったのは二世紀以降のことと言われています。3節を見てみましょう。1:3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。3節は祝祷です。この手紙もパウロが書いた他の手紙と同様に差出人。宛先、祝祷の順番で始まります。

②信仰と愛により元気が与えられる

4,5節を見てみましょう。1:4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。1:5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。救世軍(Salvation Army)という名前のプロテスタントの教団があります。慈善活動にも力をいれていて、生活困窮者支援の為の社会鍋(慈善鍋)が年末の風物詩になっていますのでご存じの方もおられると思います。本部はロンドンにあり、日本の本部は千代田区神保町にあります。4節に「祈りの度に、あなたのことを思い起こして」とありました。その救世軍で日本人として初めて牧師となった山室軍平は祈りの手帳に友人、知人の名前を書き、日ごとその名を呼んで祈りました。山室の葬儀に来たある方が、祈りの手帳に自分の名前が記されているのに気づき、自分が山室を忘れている時でも、山室は自分を忘れずに祈ってくれていたことを知り、申し訳ないと語られたそうです。人間は忘れやすいものです。先週のポイントでもお話ししましたが、是非、友人、知人の名前を書きだして祈ってまいりましょう。4節の後半に「神に感謝しています」とありますが、その感謝の理由が5節です。「主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛」とあります。愛は信仰に基づいたものでなければなりません。「聖なる者たち一同」に対する愛は単にヒューマニズムのような愛ではありません。主イエスに対する信仰から出る愛です。原語では神の愛を示すアガペーが使われています。アガペーとは神が独り子のである罪なきキリストを十字架に掛けた愛です。人類を救うために示された神の愛です。この愛だからこそ、裏切ったものを許し、その人を迎え入れることができる愛なのです。パウロはフィレモンにそのような愛を期待しているのです。6,7節を見てみましょう。1:6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。1:7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。6節に「あなたの信仰の交わり」とあります。交わりは原語ではコイノニアと言い、三つの意味があります。交わりの他に、共有、施しという意味があります。この手紙を書いた理由であるオネシモのことを考えると、この箇所は「施し」の意味で解釈をすると意味が良くわかります。「あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。」の部分は「あなたのキリスト信仰による寛大な施しが広かることを祈っている」の意味です。これは逃亡したオネシモに寛大な施しをして欲しいことを暗に伝えているのです。7節の前半に「わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。」とあります。獄中にいるパウロにとって、フィレモンの愛と信仰を聞くこと、そしてそのことがキリストの良き証となり、神の栄光を現していることが、何よりも慰めであり大きな喜びなのです。後半に「聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられた」とあります。フィレモンの信仰と愛によって励まされたのはパウロだけではありません。パウロの周りにいるキリスト者にも元気が与えられたのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは仰と愛により元気が与えられるということです。さて、私たちはどうでしょうか。周りの方に励ましや元気を与えているでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。

人はかえられる

8-10節を見てみましょう。1:8 それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、1:9 むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。1:10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。8-20節はこの手紙の心臓、核心です。「それで、」とありますが、パウロは挨拶とフィレモンの愛と信仰について語り、8節からいよいよこの手紙の本題に入ります。「キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが」とあります。キリストによって使徒とされたパウロにはその権威によって、フィレモンになすべきことを遠慮なく指示できたはずです。しかし、「むしろ愛に訴えてお願いします、」と懇願しているのです。パウロは問題の解決を権威によらずキリスト者の愛に訴えたのです。これは、同時にフィレモンにも愛をもってこれからお願いする内容に対応をしてほしいからです。パウロは使徒の権威を主張することがなかったことがありました。これも牧者としての配慮です。コリントの信徒への手紙一9章12,15節を見てみましょう。9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。 9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。聖書箇所に戻り、9節に「愛」とあります。9節でも神の愛を示すアガペーが使われています。パウロはフィレモンがこの愛により押し出され、自発的にパウロが願うことをしてくれることに期待をしているのです。9節の後半に「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている」とあります。パウロはフィレモンに愛に訴え、それに加え高齢、獄中の身分であることに免じで自分の願いを聞き入れてほしいと頼んでいるのです。聖書中、パウロの年齢について記されているのは、この箇所と使徒言行録7章58節に「サウロという若者」と記されているだけですので、この手紙を書いたときのパウロの年齢を推定することは出来ませんが、一説によると55-60歳の間だと考えられています。当時、55-60歳と言えば高齢です。長年、主の働き故に幾多の困難、迫害に遭い続けてきたパウロは、心身ともに年老いたと感じていたのでしょう。10節はパウロがこの手紙を書いた理由です。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」とあります。ここから次の事が推察されます。奴隷の身であったオネシモが主人であるフィレモンの家から逃亡し後、獄中のパウロの元に導かれ回心をし、パウロに仕えるものとなったのです。「わたしの子」と呼んでいますので、これ以上に愛情のこもった表現はないほどオネシモを愛し信頼をしていたのです。吉田芳幸というキリスト者がいます。ベタニヤチャーチの長老でアンテオケ国際神学校・神学院の理事長ですが、クリスチャンホームで生まれ育ったわけではありません。元々は暴力団の組長で、昭和時代に日本一の広域暴力団との抗争をしたことでその業界では大変有名な方です。抗争後、熱心な韓国人クリスチャンの女性(李宝倍)と結婚し、キリストの愛にふれ46歳の時に主イエスを救い主と受け入れ永遠の命を得たのです。教会と神学校の働きに加え、ミッション・バラバという伝道団体のメンバーとして熱心に伝道活動を続けてもいます。個人的に数回お会いしたことがありますが、全くそのような過去を感じません。優しそうな方です。今日、三番目に覚えて頂きたいことは人はかえられるということです。

最後に今日の箇所からとても大事な適用がわかります。どんな状態に置かれても神は未信者を送ってくださるのです。神の摂理によりオネシモはパウロのもとに導かれました、そしてパウロが語った福音を聞き回心し、永遠の命を得ることが出来たのです。パウロは獄中にあっても伝道をすることが出来たのです。コロナ下、自粛生活を余儀なくされていると思いますが、それでも福音を伝える何かがあるはずです。是非、真剣に考えてみようではありまあせんか。今日、最後に覚えて頂きたいことはどんな状況でも福音は伝えられるということです。

Today’s Point ①教会員の問題は教会全体の問題、②信仰と愛により元気が与えられる、③人はかえられる、④どんな状況でも福音は伝えられる

Thinking Time神が送ってくださっている未信者を見逃してはいませんか