• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年3月20日主日礼拝 

説教題:パウロの願いと配慮~人はかえられる其二~ 聖書箇所:フィレモンへの手紙11-25章

1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。1:12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。1:13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、1:14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。1:15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。1:16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。1:17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。1:18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。1:19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。1:20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。1:21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。1:22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。◆結びの言葉1:23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。1:24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。1:25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

ハレルヤ!3月の第三主日を迎えています。先週からフィレモンへの手紙を二回に分けて学んでおり、今日は後半です。先週は1-10節から「パウロの願いと配慮~人はかえられる其一~」と題し四つのことを中心にお話をしました。①教会員の問題は教会全体の問題、②信仰と愛により元気が与えられる、③人はかえられる、④どんな状況でも福音は伝えられるでした。今日は続く11-25節から「パウロの願いと配慮~人はかえられる其二~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストの愛で兄弟を愛す

今日の聖書箇所の直前の10節を見てみましょう。1:10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのですこの手紙を書いた目的を語りました。その具体的な理由が今日の箇所に記されています。11-12節から見てみましょう。1:11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。1:12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。「役に立たない者」とありますが、オネシモの名前は「有益、利益」を意味するオネシーシスに由来します。しかし、奴隷のオネシモはその所有者であるフィレモンにとって有益な存在ではなく、無益なものだったのです。18節からわかります。1:18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。パウロは、それが何であったかに深入りすることはありません。牧者としての配慮です。しかし、オネシモのことを「今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」と語るのです。無益な存在だったオネシモが、フィレモンにもパウロにも有益なものとかえられているのです。神は失われていたものを、良きものとして、フィレモンのもとへ返そうとしているのです。これは神の摂理であり、また、パウロの願いそのものなのです。12節に「わたしの心であるオネシモ」とあります。当時、奴隷は人間以下に扱われていましたが、パウロはその奴隷であるオネシモを「わたしの心」と呼ぶのです。10節では「わたしの子オネシモ」と呼んでいます。つまり、オネシモとはパウロにとって自分の子、自分の分身であり、自分自身のような存在なのです。そのオネシモをフィレモンの「もとに送り帰します」と述べるのです。当時のローマの法律では逃亡奴隷が捕まった場合、主人はその奴隷を死刑にする権限がありました。また、逃亡奴隷をかくまうということは社会制度に反することでもありましたので、パウロはオネシモを送り返すのです。勿論、この行動の裏には、フィレモンへの絶大な信頼があったからです。この送り返すと訳された原語には事件などを差し戻すときにも使われます。差し戻し裁判がそうです。上訴を受けた上級裁判所が、下級裁判所に裁判をやり直すように命じることです。パウロはオネシモの件で、主にあるキリスト者の愛を持って差戻しの裁判をお願いしているのです。使徒ヨハネはキリスト者の愛について次のように語ります。ヨハネの手紙一を見てみましょう。 4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。19-21節には7か所、愛とありますが、原語では全て神の愛を現すアガペーです。

今日。先ず覚えて頂きことはキリストの愛で兄弟を愛すということです。

②全ては神の導きにある

13,14節を見てみましょう。1:13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、1:14 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。13-17節にはオネシモについて三つの観点から述べられています。11-14節はパウロから見た現在の観点です。13節に「本当は、わたしのもとに引き止めて」とあります。悔い改めてキリスト者となったオネシモは、今やその名の通り有益なものとなったのです。高齢で囚人の身であるパウロにとって、自分の分身であるオネシモが身近にいてくれることは慰めであり、励ましであったことでしょう。ですから、オネシモを自分の近くに置き留めたいという思いもあったと思いますが、フィレモンの「承諾なしには」話を進めたくなかったのです。これも牧者としての配慮です。話を進めるとしたら、フィレモンからの自発的な同意を願っていました。オネシモを送り返すのは、なによりも脱走奴隷の身であるオネシモを法的にも自由な身分にしてあげたかったのです。ですから、神が全てのことを良い方に導いてくださることを信じて、オネシモを戻すことにしたのです。今日、二番目に覚えて頂きことは全ては神の導きにあるということです。15節を見てみましょう。1:15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。15節は神から見た観点です。オネシモが犯した過去の不幸な出来事を、神の角度から見ています。これは信仰にたった見方です。オネシモの逃走を「あなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。」と語ります。つまり、オネシモの逃亡は神のご計画の一環ではなかったのかと語るのです。人間のから見れば、オネシモはフィレモンから逃亡したのですが、神のご計画から見れば「引き離されていた」です。不幸な出来事にも、主の御手が働くことをフィレモンにも理解をしてほしいのです。このことをパウロはローマ信徒への手紙の8章28節で次のように語ります。 8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。15節からもう一つのことがわかります。「あなたのもとから引き離されていた」の記述から、この箇所においてもパウロの牧者としての配慮がわかります。パウロに導かれ回心をしたオネシモは、フィレモン家から逃亡した理由を伝えていたと思いますが、具体的にオネシモが犯した罪について何も言及をしていません。16,17節を見てみましょう。1:16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。1:17 だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。16-17節にはフィレモンに見てもらいたい将来的な観点から記されています。フィレモンにオネシモにある可能性を期待し、オネシモを暖かく受け入れて欲しいのです。「奴隷としてではなく」とあります。キリスト者となったオネシモはフィレモンにとって主に在る兄弟の関係です。ガラテヤの信徒への手紙3章28節を見てみましょう。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。しかし、だからといって当時の奴隷制度がなくなったわけではありません。ですから、パウロは「奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」受け入れてほしいとフィレモンにお願いをするのです。17節でパウロはフィレモンが自分のことを「仲間と見なして」くれるなら自分を迎えるようにオネシモを迎えてほしいと要請をしているのです。なせなら、パウロにとってオネシモは子どもであり自分自身の心であるからです。

③罪の代価は支払われている

18,19節を見てみましょう。1:18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。1:19 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。「何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。」とあります。この箇所からオネシモがフィレモンの家から何かを盗んだのではないかとの学説がありませんが、断定はできません。ただ、少なくとも奴隷一人を失ったフィレモンには経済的な損害や負債はあったでしょう。いずれにせよ、パウロはそれをオネシモが仕えることによって返済をするのではなく「それはわたしの借りにしておいてください。」と語るのです。そして、その証拠として「 わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。」と念を押しているのです。この箇所からキリスト教の本質がわかります。誰かが罪の代価を払わなくてはならないという事です。愛なる神は義なる神でもあります。私たちの罪のために、ご自身の罪なき独り子であるイエスを十字架に掛けたのです。主イエスの命という代価が払われたのです。それにより私たちは無罪放免とされたのです。今日、最後に覚えて頂きことは罪の代価は支払われているということです。

20-22節を見てみましょう。1:20 そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。1:21 あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。1:22 ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。

1:20 I do wish, brother, that I may have some benefit from you in the Lord; refresh my heart in Christ.t. (NIV)

8-19節ではオネシモの扱いに対するお願いでしたが、20-22節は念押しとも言えます。形式的にパウロ自身についてのお願いですが、要請していることの中身はオネシモのことです。これもパウロの牧者としての配慮の現れの一つです。オネシモの名前を出すことなく念押しをしているのです。キーワードは「主によって」、「キリストによって」です。英語の聖書ではin the Lord / in Christ.です。キリスト者はキリストの中にいるのです。キリストに包まれているのです。パウロはフィレモンが主イエスによって与えられる愛によって、自分の願い以上のことをしてくれるに違いないことを期待しているのです。22節に「宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。」とあります。パウロは神の導きを信じつつ、フィレモン家の祈りによって、牢から解放されること、そして、フィレレモンを訪ね、その時には奴隷以上の存在になっているオネシモに会いたいと伝えているのです。23-24節を見てみましょう。1:23 キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。1:24 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。結びの言葉の部分にエパフラス、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカの名前が記されていますが、彼らもまたパウロとともにオネシモの件について、フィレモンが主に在って愛を持ってオネシモを受け入れてくれることを信仰を持って祈っていたのです。25節を見てみましょう。1:25 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。25節は祝祷です。祝祷(1:3)で始まったこの手紙も祝祷で閉じています。「主イエス・キリストの恵み」とあります。これは「主イエス・キリストによって与えられる恵み」という意味もありますが、「主イエス・キリストという恵み」とも解釈ができます。主イエス自身が神から恵みで与えられたものだからです。以上で、フィレモン宛ての手紙は終わるのですが、この後のオネシモについて聖書には何も記述がありませんがが、エフェソの教会にオネシモという名の監督がいたと言われています。このオネシモ監督が脱走奴隷のオネシモだったとはわかりません。しかし、このフィレモンへの手紙が神の言葉である聖書に残されているという事実、それはすなわちこの手紙が良い結果をもたらしたことに間違いはなかったと思います。主イエスにあって人はかえられるのです。光り輝くダイヤモンドも元々はごつごつした石に過ぎません。素人目にはダイヤモンドの原石とはわからないでしょう。しかし、磨かれることにより光り輝く宝石となるのです。原石が宝石にかわるように、私たちも神のお取り扱いを受けて光輝くものとかえられるのです。

Today’s Point①キリストの愛で兄弟を愛す、②全ては神の導きにある、③罪の代価は支払われている

Thinking Time主イエス・キリストという恵みにどう応えますか。