• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年4月17日主日礼拝 

説教題 使命は果たせる!~主はお聞きになっている~ 聖書箇所 ヨハネによる福音書20章19-29節

◆イエス、弟子たちに現れる20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」◆イエスとトマス20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ハレルヤ!4月の第三主日を迎えています。イースターおめでとうございます。主のご復活を心から褒め称えます。今日は、主のご復活を記念するイースター礼拝です。主イエスが受難の金曜日に十字架にかかられてから、三日目の朝に死を打ち破り復活されたのがこの日曜日です。この歴史の事実に基づいて多くの教会では日曜日に礼拝を行うようになりました。それまでは土曜日に礼拝をおこなっていました。先週の受難の主日はヨハネによる福音書19章25-31節から「十字架上の三つの言葉~備えは出来ていますか~」と題して四つのことを中心にお話をしました。➀主からの警告や叱責を探る、②十字架は全人類への救いの完成、③キリストは過越の小羊、④礼拝のため心を整えるでした。今日は、ヨハネによる福音書20章19-29節から、「使命は果たせる!~主はお聞きになっている~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。ヨハネによる福音書20章には、十字架で死なれた主イエスが復活された事実を伝えるため、人々の前に現れたことが記されています。先ず、マグダラのマリアに現れ、そして、今日の聖書箇所には弟子たち現れたことが記されています。主イエスは罪の贖いという大使命を完了されました。そして、ご自身で語られたように三日目に蘇られたのです。このヨハネによる福音書2章19-21節に記されている通りです。2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

①聖霊により使命は果たせる

19節から23節には主イエスが弟子たちにお与えになった四つのことが記されています。19節から順番に見て参りましょう。20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、」とあります。これは今日の箇所の直前の11-18節に記されている、復活された主イエスがマグダラのマリアに現れた日の夕方です。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とありますが、「弟子たち」とは使徒とそれ以外の弟子のことですがトマスは含まれていません。このことは後ほどお話をします。また、開きませんが、マルコによる福音書16章14節からもトマスがいなかったことの推察が出来ます。イエスの弟子たちは、イエスを十字架にかけた人々が、次は、自分たちを殺そうとしているに違いがないと思っていたのです。ですから、戸締りを厳重にして家に閉じこもっていたのです。この箇所だけを読むと無理もない話かと思うかもしれせんが、実は、弟子たちはマグダラのマリアから主がご復活されたことを聞いていたのです。直前の18節には次のように記されています。 20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。弟子たちはマグダラのマリアの話を信じなかったのです。並行箇所のルカによる福音書24章11節には次のように記されています。24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。弟子たちはマリアの話を「たわ言」と思い、全く信じませんでした。ですから、殺されるかもしれないという不安に駆り立てられ、さぞ心を騒がしていたことでしょう。ここに信じようとせず疑う者の姿が如実に表れています。その時です。主イエスが来られて「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。復活をされた体はこの世の体とは異なります。ですから、厳重に戸締りをした部屋にも入ることができたのです。「あなたがたに平和があるように」とは当時のユダヤ人が使う一般的な挨拶ですが、恐れおののく弟子たちには以上の意味があったでしょう。主は先ず、弟子たちに平安をお与えになったのです。20節を見てみましょう。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。「手とわき腹とをお見せになった。」とあります。復活をされた主イエスはその証拠として、十字架に張り付けられた手と槍で刺された脇腹を見せたのです。主イエスは弟子たちに復活の確信を与えたのです。これが二番目にお与えになったことです。その確信を与えられた弟子たちは「主を見て喜んだ。」のです。弟子たちは主が復活されたことを心から喜んだのです。その光景が目に浮かびます。さて、私たちはどうでしょうか。主のご復活を「たわ言」と思っているキリスト者はいないと思いますが、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださった主のご復活を心から喜んでいるでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。21節を見てみましょう。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」21節の前半で再び「あなたがたに平和があるように。」と語られ、続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。主は、自分たちも殺されてしまうのではないかと恐れおののいていた弟子たちに平安を与え、復活の確信を与え、もう一度平安を与え、そして、彼らがこれからなすべき大切な使命を与えたのです。イエスによる派遣命令です。これが三番目にお与えになったことです。父なる神によって遣わされたイエス。キリストのこの世での働きの継承が彼らの使命なのです。主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業、その福音と御国を拡大させるという使命です。22節を見てみましょう。20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。「聖霊を受けなさい。」とあります。四番目にお与えになったものは聖霊です。聖霊は弟子たちが与えられた使命を果たすためにどうしても必要なものです。主は必要を満たしてくださるのです。神を知らず、神から離れた罪まみれの状態、霊的に死んでいる人々にイエス・キリストによる救いを宣べ伝える。罪の赦しと霊的命の回復まで導くためにはどうしても聖霊による助けが必要なのです。人が救われるためには人間サイドの知恵、工夫、努力といったものも必要ではありますが、決め手は人間側にあるのではなく神から与えられる聖霊そのものなのです。復活された主はその使命が果たせるようにと聖霊を与えてくださるのです。使徒言行録1章8節には次のように記されています。 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」主からの使命は主によって与えられる聖霊によって果たすことが出来るのです。ですから、自分にはその使命が果たせないかもしれないなど心配する必要はありません。「私の証人になれ」ではありません。「わたしの証人となる。」です。これは主からの命令ではなく主のご宣告です。主がご宣告されたことは必ずその通りになるのです。キリストの証人というと自分の救いの証を人前で語ることと思われるかもしれませんが、それだけではありません。頂いている賜物を用いればよいのです。聞き上手なかた、寄り添うことが得意なかた、音楽が得意な方。それぞれが、賜物を生かして主の栄光を現せばよいのです。今日先ず覚えて頂きことは聖霊により使命は果たせるということです。 復活され今も生きておられる主イエスは、主を信じる私たちにも、平安、確信、使命、そしてその使命が果たせるように聖霊を与えてくださるのです。

②積極的に主に在る交わりをする

今日の聖書箇所の後半(24-29節)には不信仰に陥ってしまった十二弟子の一人のトマスについて記されています。24節を見てみましょう。20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。理由はわかりませんが、そのトマスは主が復活をされたときに他の弟子と別行動をしていたのです。「ディディモと呼ばれるトマス」とあります。「ディディモ」とは双子という意味ですが、ある学者は、「トマスが双子であったと言うよりも、内にある二面性、信仰者トマスと懐疑論者トマスの両在である」と興味深い解釈をしています。実際、この福音書の11章16節にはトマスの信仰に立った勇敢な発言が記されていますので見てみましょう。 11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。トラザロが病気だという知らせが届き、イエスがベタニヤに行こうと言った時のトマスの応答の言葉です。25節を見てみましょう。20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」ここには懐疑論者のトマスが記されています。他の弟子が何と言おうとも、自分で体験をしなければ信じないという姿勢です。英語の諺にSeeing is believingがありますが、もじっていえばnot seeing is not believingです。24,25節から一つの教訓がわかります。トマスがいつも他の弟子と一緒にいなかったとは聖書には記されていませんが、主にある交わりから自分を引き離しひとりとなろうとするときに往々にして多くの物を失うことがあります。悲しみに襲われると、自らを閉ざし人々と会うのを拒みがちになります。しかし、そのようなときにこそ、キリスト者と主にある交わりを積極的にすべきなのです。私の知り合いでSさんという信仰の深い女性の方がいます。以前、彼女は私にこう語りました。「私はね。今日は気分がすぐれないから祈祷会に行きなくないなと思う時があるの。でも、そんな時こそ教会にいくの。皆で祈って、楽しい交わりの時をすると元気になるのよ」と。今日、二番目に覚えて頂きことは積極的に主に在る交わりをすということです。

③主は聞いておられる

26,27節を見てみましょう。20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」八日が経ち、今度は他の弟子たちとトマスは一緒にいますが、他の弟子たちの証を信じることが出来なかったトマスは気まずい思い、複雑な思いで過ごしていたことでしょう。その時です、ご復活された主が現れ「あなたがたに平和があるように」と言い、続いてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語り、トマスの疑いが晴れご自身の復活を信じるように諭したのです。この箇所からとても大事なことがわかります。27節で主がトマスに語られた言葉と25節でトマスが他の弟子に語られた言葉は内容が全くおなじです。一字一句同じではありませんが、並列するとよくわかります。27「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。25あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」つまり、主は、トマスが語った言葉を聞いておられたのです。これは今日の主と私たちの関係にも当てはまります。私たちが話すどんなつまらない言葉でも、復活されて今も生きておられる主は全てをお聞きになり、心に留められているのです。今日、最後に覚えて頂きことは主は聞いておられるということです。28,29節を見てみましょう。20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」主のご復活に懐疑的だったトマスは、主イエスの一言で迷いの心が吹き飛ばされ、即座に「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのです。英語の聖書の中には叫んだと訳されているものもあります。“My Lord and my God!” Thomas exclaimed.(NLT)そのトマスに対する主の応答が「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」です。主イエスの公生涯と復活され天に戻る迄、人は御業を目撃したりしたことによって主イエスを信じましたが、それ以降の人は信仰により主イエスを救い主と受け入れたのです。ヘブライ人への手紙11章1節には次のように記されています。11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。最後に、未だ主イエスを救い主と受け入れていない方にお伝えしたいことがあります。何から何まで実証してから主イエスを信じようなどとは考えずに、先ず信じることから初めてみてください。そうすれば、復活され、今も生きておられる主とお会いできるのです。主は「見ないのに信じる人は、幸いである。」と招いておられるのです。

Today’s Point①使命は果たせる、②積極的に主に在る交わりをする、③主は聞いておられる

Thinking Time疑論者のようになっていませんか。