• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年4月23日主日礼拝 

説教題 喜びの泉はキリストにある 聖書箇所 詩編16編1-16節

16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。 16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

おはようござまいす。今朝は16編からみ言葉を取り次がせていただきます。よろしくお願いします。私たちは約2年間、世界レベルで、コロナにより今まで経験したことのないような自粛生活を強いられてきました。感染して命を落とされた方々、その関係者の痛み悲しみ、感染しないかという不安、またコロナにより経済的な困窮の中にある方々、自由に出かけられない閉塞感など、多くのストレスを感じてきました。それに加えて目まぐるしく変化していく世界情勢、民族の対立、今、ロシアとウクライナの戦争、毎日の報道に、心が痛み、憤りを覚えます。それ以外にもそれぞれ置かれたところ、家庭や職場、学校、地域社会の中でも様々なストレスを抱えることがあります。ときにはあまりにもそのストレスが大きくて鬱になったり、体に不調を起こしたりすることもあります。そこまでいかなくても、漠然とした不安の中を歩んでいる方も多いでしょう。最近心の底から笑ったのはいつだろうと、そういえばしばらく笑っていないと思う時もあります。イエス様に救われているのに喜びがない、と感じるときはありませんか。そのような時こそ、心の底から湧き上がる喜びの泉をくださいと祈り求めたいです。この詩編16編の作者はあなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある(口語訳)。と歌っています。なんてすばらしいことでしょう。ここから恵みをいただき、お互いそれぞれの人生に生かしていきたいと願います。まず、「ミクタム。ダビデの歌。」とあります。ミクタムとは「最高の賛美の中から」、「罪を覆う詩」という意味があるようです。またダビデの歌とありますが、作者についてはダビデ以外の説もあるようですが、ダビデがイスラエルの初代の王様サウル王に迫害されていた背景の中で書かれたものであろうとも言われています。それが(サムエル上26:19)です。サムエル上 26:19 わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください。もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら、どうか、主が献げ物によってなだめられますように。もし、人間であるなら、主の御前に彼らが呪われますように。彼らは、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払うのです。それは敵ゴリアテを倒して帰ってきたダビデを迎えた女たちが「サウルは千を打ち破り、ダビデは万を打ち破った」と歌ったことから、イスラエルの初代の王様サウルはダビデを妬むようになります。やがてダビデに王座が奪われるのではないかと恐れ、ダビデを殺そうと付け狙うようになります。あるとき逃げるダビデは、荒野で、サウル王と3000人の兵隊が眠っているところに出くわし、王様の命を取る機会が与えられました。王様が亡くなればダビデは逃げる必要がなくなります。絶好のチャンスでしたが「主が油注がれた方に手をかけてはならない」とダビデは神を恐れ、殺すことはせず、神に委ねるのです。やがて神の時が来てダビデは王様になります。このような状況を思い浮かべながら読み進めていきたいと思います。

➀より頼むお方は神のみ

16:1神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。命を付け狙われるこの大変な状況の中で、神に守りを求めます。そして神の守りを信頼し、神を避けどころとするものは必ず守っていただけるという信仰に立ちます。それは今までも、苦しみの中で神に求め守られた経験からくる確信でもあります。私たちはどうでしょうか、自分で何とかしようと躍起になりやすいものですが、まず神を避けどころとし、祈り信頼する者とさせていただきたいです。16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」ここからもそのことがわかります。「あなたは私の主」神様をあなたと二人称で呼ぶ親しい関係であること。「あなたのほかにわたしの幸いはありません。」神様を深く愛し、こよなく慕い求める様子がわかります。 16:3 この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」同じ神に信頼する聖なる人々、私の愛する尊い方々との交わりによって、互いに励ましあい私は幸いに歩むことができるということです。互いに慰め、励まし祈り合える信仰の仲間、教会の交わりはとても大切です。しかしそれはただ人間的な仲の良さでなく、同じ神を信じる者たちの交わりによるものです。その大切な信仰の仲間に申しますと、続けます。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」ほかの神々、偶像により頼む者に真の救いはありません。私は決してそれらを拝まない。それは神が嫌うこと。全能者、創造者である唯一の神のみに仕えますと偶像崇拝を強く否定しています。どうでしょうか。私たちの中に、真の神以外により頼むものはないでしょうか。今朝まず一番目に覚えていただきたいことは、もし偶像となるものがあれは捨て去ること、真の神のみにより頼むということです。

②常に主を前に置く

16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。 主ご自身が私に与えられた相続財産、宝であると宣言しています。地上的な財産、金品や土地はやがて朽ち果てます。主が下さるのは永遠の祝福です。エペソ1:3,11,18にあるような祝福です。エフェソ1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。1:11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。

1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。とあります。この世のものとは比べ物にならないほどの神の祝福です。この地上の生活は一時的、仮の宿です。永遠という視点で今自分が置かれている状況や問題を見るならば、いかにちっぽけなもの一時的なものであるかと思え、慰められます。神様が下さる財産は永遠に変わらない祝福、恵です。たとえどんなことがあっても、最終的には天国に入れていただけるという運命を支えてくれます。その確信はありますか。もちろん主は、私たちの現実の日々の生活をよくご存じで、必要を豊かに備えてくださり、正しい道へと導いてくださるお方です。16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。測り縄とは土地を区画するときの縄です。嗣業とは、神様によって与えられた財産、特に土地をさし、次世代へと受け継がせていくべきもののことです。エジプトを出て、約束の地に入ったイスラエルの12部族への割り当て地を思い出します。11部族にはそれぞれに土地が分割され与えられましたが、レビ族には土地は与えられませんでした。それはレビ族が祭司の一族として特別な役割を与えられ、継承する土地はありませんでしたが、主ご自身が嗣業(相続地)となりました。主は私たち一人一人に最高のものを与えてくださっています。それは人と比較するものではなく、自分に与えられたものをいかに忠実に用い主の栄光を表していくかということです。今自分が置かれている状況、環境、それがこの世的にどうあれ、それは私にとって最高のものですと告白できるのはなんと幸いでしょう。例えば今の職場や人間関係に不満があり新しい職場や環境を考えることもあるでしょう。単に気に入らないからというだけでなく、よく祈り導きを求め、主に従っていけますように。この場所こそ神様が私に与えてくださった場所。困難はあるけれどここで神に仕え、人に仕え、栄光を表していこうと思えるのは本当に幸いです。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。とダビデは宣言します。私たちもそうなりたいです。 16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。命を狙われる中でダビデは何度も恐れたり不安になったことでしょう。しかし彼は主をたたえています。主は常に信頼する者の思いを励まし、夜ごとに諭して下さるお方です。私たち信仰者はこの世にあって信仰の戦いをしています。目の前の見える現実が厳しい状況下で不安や怖れに覆われてしまうこともあります。その中で目に見えない神に信頼し、聖書のみ言葉を頼りに実生活を送っていくには信仰の戦いがあります。慰めや励ましが必要です。主はそんな私たちの心を励まし、夜ごと、暗闇の中でも諭を与えてくださいます。ここで、恥ずかしいですが私の証をします。私たちは2020年3月から、今95歳の未信者の義母と同居しました。コロナの外出制限が始まったこともあり、初めの1年間は怒りやイライラが続き苦しいものでした。今はお互いにだいぶ慣れてきましたが、ある時、怒りが爆発してしまいました。一人自分の部屋で静まっていると、母への憤り、愛のない自分への情けなさで涙が溢れ、主に告白していると「あなた方は世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」ヨハネ16:33bとのみ言葉が与えられ、「強く、雄々しくあれ」というワーシップソングが頭の中をめぐりました。「ずっと、愛されてた ずっと、守られてた 倒れそうな時も支えてくれた 目を上げて、主の御声に従おう すべてを委ねて 強くあれ 雄々しくあれ 主があなたの前を進まれる 強くあれ、雄々しくあれ 主はいつもあなたと共におられるから」(作詞作曲 吉井裕美香)よかったら後でユーチューブで見てください。この素晴らしいメロディーと歌詞に何と慰められたことでしょう!涙があふれ、主の恵みが注がれ、徐々に回復し、主に愛を求め、悔い改めつつ介護にあたれるようになりました。それ以来この歌が私の応援歌となりました。16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。口語訳の方がわかりやすいので見てみましょう。16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。(口語訳)常に主を私の目の前に置く、とありますが、果たして主を常に目の前に置いているだろうか。目の前に置くとは、自分の思いではなく主に従っていくことです。むしろ主を後ろに置いていないか、自分の願い通りにしてくださいと、主を従わせようとすることです。自己中心な肉のクリスチャンです。悔い改めて心を入れ替え、人生の主として心の王座に迎え、主に人生を委ねて、聞き従うことです。常に主と交わり、御心を求め、明け渡し従っていくことです。簡単ではないですが、キツイ時は「主よ、キツイです。助けてください」と聖霊様の助けを求めつつ従っていきたいです。主がわたしの右にいますゆえ 右とは、力の象徴であり、弁護者、救助者、支えるものが立つ側、威厳と栄光の座という意味があります。全能の主が私たちの右にいて、弱い私たちを支えてくださっているのです。ですから不安や怖れを感じることがあっても絶対に大丈夫。私たちも、この主に支えられ揺らぐことはないと告白していきたいです。今日の二番目のポイントは、常に主を目の前に置く、主に聞き従っていくということです。

③主の前には満ち溢れる喜びがある

16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。心に喜びや希望があるとはとても素晴らしいことです。苦しみに耐えることができます。しかも魂が躍るほどの喜びです。こんな喜びが欲しいです。霊的に元気なので肉体も健やかです。この喜びは主からくるのです。 16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず神に信頼する者を、神は陰府(シェオール)、つまり死人のいくところ、に渡すことはない、墓穴を見させることはないと、永遠の命の希望を歌っています。そしてこの個所は、最初のペンテコステの時、ペトロは説教中に、キリストの復活が預言の成就であったことを証明するために、この詩編16から引用しました。後で使徒言行録2:24-42をご覧になってみてください。16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。(口語訳)では16:11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。人生には多くの選択があります。私たちが迷う時、主は命の道、最善の道を教えてくださる。私たちが主のみ顔を仰いでいくときに、主のみ前には満ち溢れる喜びがあり、とこしえにもろもろの楽しみがある。この地上の喜びは、周りの状況によって支配されるものですが、主が下さる喜びは、そのようなものに関係なく、上から注がれる喜びです。主は十字架で勝利し、私たちの罪を完全に許し、永遠の命の福福を与えてくださっています。忙しさに追われているとこの事実が見えず不安に揺れ動きます。その時こそ、時間をかけて主と交わり、喜びと希望を回復しましょう。三番目のポイントは、主のみ前には満ち溢れる喜びがあるということです。ダビデは、四面楚歌の厳しいこの状況の中で、主に叫び、慰められ、奮い立って従いました。必ず神は守ってくださるという確信をいただき、最高の財産をいただき、慰めと励ましをいただき、決して揺らぐことのない平安をいただき、正しい道を示していただくという喜びを歌っています。私たちがどんなに行き詰っても天の窓だけは開かれています。喜びの泉はキリストにあります。暗い世の中です、おかれた場所での戦いも厳しいかもしれません。しかし希望があります。必ず勝利できます。主の約束です。この素晴らしい主にしっかりとつながり、喜びの泉を心にいただいて、主と共に歩み、おかれたところで神様の栄光を表していけるように、祈り続けていきましょう。

Today’s Point ➀より頼むお方は神のみ、②常に主を前に置く、③主の前には満ち溢れる喜びがある

Thinking Timeどうしたら主に聞き従っていけるか、考えてみましょう。