• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年5月29日主日礼拝

説教題:神の選びと招き 聖書箇所:エフェソの信徒への手紙1章3-5節、ヨハネによる福音書15章16節、コリントの信徒への手紙一1章26-28節 説教:溝口寛師、文責:伏見敏

エフェソ1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

コリント一 1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

イエス様の救いの第一歩である神の選びと福音への招きについて学びます。既に救いに預かっている者も、救いを求めている者も、共に神の「招き」を確認し、その恵みに応答する者とさせていただこう。教会で行われる集会は人々を救いに招くため。私たちはキリストの救いを受けた時その喜びに預かる。私は救われたのだと、自分の救いを自覚できる。そのように救いは意識できるが、私たちが救われる背後には聖霊様が働いておらる。私たちが救われたことを意識する以前に、神様の特別な御計らいがあった。そのことについて私たちは理解できない。神様は私たちが救われるはるか以前から救いの準備をされていたが、そのことは私たちの目には隠されている。人間には意識できない。エフェソ書から、ここには天の神がイエスを通して私たちに罪の許しを与え、霊のもろもろの祝福を与え、私たちが救いを受けるように、天地の造られるはるか以前から定めていてくださった。これは実に驚くべきこと、神の選びと福音への招きが第一歩でありこれがなければ私たちは救われることはない。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われている。キリストが選ばれたということは、父なる神が選ばれたということ。ある方は、神が私たちを選ばれたということを理解できないかもしれない。この聖書の言葉に躓きを覚えるかもしれない。一般的には私が選んだ神を拝むのであって、神様に選ばれたから信仰するのではないと考える。日本のように八百万の神とあるように多くの神々がある宗教の中から、自分に合ったものを選んだのであって、信じる主体はこの私なのだと考える。神に選ばれたとは考えない。そうではなく、私が信じるようになるためには、そのはるか以前から、神の導きと選びがあり、私はその唯一の神を信じるように特別に導かれていた。そうでなければ真の神を信じることはできなかった。私たちは目に見えるとところで様々な問題、いろいろな生きづまりから神を求めたように思い、自分で選んだと思うが実はそうではない、神がはるか以前から私たちを選び導いてくださっていた。私たちはその中で、友人や知人を通して教会に導かれ、救いを与われたのだ。だから自分が教会に導かれクリスチャンになるということは、偶然の出来事ではない。また自分中心の選択でもなく、神のご計画によるもの、必然的なもの、必ずそうなる者であった。神に選ばれ導かれてきたということがわからないと、神を信じ、キリストを信じると言っても、その信仰は自分の都合の良いものであって、自分中心の信仰であり、何かがあったらすぐに離れてしまう。自分が中心のご利益信仰であり、聖書がこう語っているからその通りに信じて従っていこうという生活態度は生まれてこないのです。私が主人であり、神は私の願いを聞いてくださる僕であり、ご利益信仰から抜けず、神が私の主人であり、聖なる恐れをもって神に従っていこうとはならない。自分は神の選びによって救われたというこの信仰はキリスト教信仰の最も根本的なものである。私たちが神を選んだのではなく、神は私たちが生まれるはるか以前から、私たちを選んでくださったと思えると、感情的に上がったり下がったりしても、神は私を選んでくださったというこの確信から絶対にはなれない信仰になる。コリント一1:26-28節には神はどのような人を選び救いの中に導かれるかが書かれている。神が選ばれる人はどのような人か。この世で立派な人ではない、知恵ある者、権力ある者、身分の高い者、権力ある者を選ぶのでなく、神は貧しい者、愚かな者、弱い者をあえて選んでくださったとある。この大きな逆説、神は私たちが優れているから選ぶのではなく、むしろ、弱く、愚かで、貧しいから選ぶとある。それでは、この世で立派なもの、知恵ある者、権力ある者、身分の高い者は選ばれないのかというと、そうではなく、いくら権力のある人でも、身分の高い者、富んでいる者でも、低くなれば良い、その心において神の救いに与かれるように、低く、貧しくなれば良いのです。人は富み栄え、力を得ると、傲慢になり、神を求めない。神を真剣に求める人に救いは開かれる。パウロがフィリピの町で、キリストの救いを伝えている時に、ルデアという婦人がいた。この人は紫布の商売をしていた裕福な人。主はこの人の心を開き救いに導き、その家族全員がクリスチャンになり、自分の家がぴフィリピの教会になっていった。私たちも人生のある時に、キリストを信じ救いに与るのですが、それは神に選ばれていた者たちに聖霊が働き、信仰に導く。これは神の導きによるものだ。ヨハネ6:44「私を遣わした方が引き寄せてくださらなければ、だれも私のところに来ることはできない」私たちは神の導きにより、神が私たちを引き寄せてくださったのだ。神が与えられる救いを自分のものとするには、私たちの側でも、それに応答する、受け入れることが必要。神の差し出される手をしっかりと握り、ありがとうございますと感謝して受け入れる。神の救いには神の選びと人間の応答による。神が主導してくれるが人間も応答することだ。感情的に落ちこむと神がわからなくなり、信仰から離れることがある。そのような人は信仰の主体は神にあることを忘れている。神を信じす救いに与かった後でも、悲しいことや苦しいことは起こってくる。しかしそれは、私たちの成長のため、神が与える訓練で、ちょうどよいときに助けを与えてくださる。どんな時にも神を信じ救いの確かさと信じよう。長い間オンラインで、聖書の言葉を聞いている方々がたくさんおられると思う。聖書が伝える真の神とはどのようなお方であるか。自らの心を深くよく見つめて、この救いを受けてほしい。今はわからないという時も、謙虚になって、プライドや人間的なものをかなぐり捨てて、救いが本当に自分のものとなりますように。