• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年6月12日主日礼拝  

説教題 モーセに勝るキリスト・イエス~信仰に立ち続ける秘訣~

聖書箇所 ヘブライ人への手紙3章1-11節

◆イエスはモーセにまさる3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。◆神の民の安息3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。3:9 -10荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

ハレルヤ!6月の第二主日を迎えています。ヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその五回目です。先々週は溝口先生に御用をして頂き、先週はペンテコステでしたので、ヘブライ人への手紙の講解説教は3週間ぶりですので、前回のおさらいから始めましょう。2章10-18節を通し、「人と一体になられた主イエス」と題し三つ事を中心にお話をしました。主イエスは私たちの兄弟姉妹、死からの解放し、悪魔を滅ぼすために来られた、キリストは真の大祭司でした。この手紙の著者はキリストは旧約時代の預言者に勝ること、そして、天使に勝ることを綴ってきました。今日の箇所の前半ではモーセとの対比が記されています。今日は3章1-11節を通し、「モーセに勝るキリスト・イエス~信仰に立ち続ける秘訣~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

1節から見てみましょう。3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。Wherefore, holy brethren, partakers of the heavenly calling, consider the Apostle and High Priest of our profession, Christ Jesus;( KJ B)「だから」とありますが、これは2章に記されている主イエスが人と一体になられた理由を受けてのことです。「天の召し」とあります。聖書で天と記されている場合二つの意味があります。一つ目が宇宙、天体の意味です。創世記1:1節の天がそうです。 1:1 初めに、神は天地を創造された。二つ目の意味が神です。今日の箇所はこの意味です。続いて「聖なる兄弟たち」とあります。キリスト者のことを聖徒と呼ぶ場合があります。私たちの教会でも毎週の礼拝で使徒信条を唱えていますが、信条の中に聖徒の交わりとある通りです。また、この手紙の2章11節にも、「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも」とありました。人をきよめることが出来る主イエスと主イエスによってきよめられる人間のことです。罪にまみれた私たちを主イエスが聖なるものとしてくださるのです。後半の「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」の部分を英語で見てみましょう。consider the Apostle and High Priest of our profession, Christ Jesus; 使者と訳されている部分は英語の聖書KJBではApostleです。Aが大文字になっていますので、通常は十二使徒を意味するのですが、元々は特別な権威をもった職務にあるものの意味です。主イエスは神から全権を与えられた特別のメッセンジャーなのです。「イエス」とあります。「主」ではありません。この手紙でイエスという一人の人間の呼称が使われているのはこの箇所が二回目で、以前にもお話をしましたが、私たちのために死んでくださった一人の人間イエスを強調する場合に使われています。「イエスのことを考えなさい。」とあります。この考えなさいと訳された言葉は「あることに注意を集中すること、その内面的な意味や、それが教えることを受け止めるようとすること。そしてそのことを意図をもっておこなうことという意味です。この動詞はルカによる福音書12章24節にも使われています。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥とりよりもどれほど価値があることか。つまり、この動詞は、烏をみて神が烏を通して教えようとしていることを悟り学びなさいということです。2節を見てみましょう。3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、」とあります。求道中の方や未信者の方もいますので、先ずはモーセについてお話をしたいと思います。『古代イスラエル民族のエジプトにおける迫害,エジプト脱出(出エジプト),荒野彷徨,シナイ滞在,カデシ(カデシュ)滞在,カナン侵入直前までの,前13世紀のカリスマ的指導者であり,イスラエル宗教と生活形態の創始者としてあがめられている。』(世界大百科事典 第2版)旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の著者であり、これらの書簡はモーセ書簡とも呼ばれています。モーセはユダヤの民にとって特別な存在でした。ユダヤ人は律法を世界で最高なものと考えていました。その律法の神髄である十戒はモーセに与えられたのです。実際、あるユダヤ教の教師は3章2節を次のように解説をしているほどです。「神はモーセを『神の家に対して忠実な者』と呼ばれることによって、モーセを御座に仕える御使いよりも高い地位に引き上げられた」。勿論、この解説には聖書的な裏付けはありませんが、それほど、この手紙の受取人(共同体)の中にはモーセに格別な尊敬の念を抱いていたのです。ですから、著者はイエスとモーセを比較しながらイエスの絶対的な優位性を説く必要があったのです。イエスは大祭司として神ご自身の全権を持ってこられたのです。そして、著者は、この全権を行使するのに忠実だったと強調をしているのです。モーセも自分に課せられた任務に忠実でした。民数記12章7節には次のように記されています。 12:7 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。忠実に仕えるモーセは信頼をされていましたが僕に過ぎないのです。続く3-5節を見てみましょう。3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、

キリストとモーセを比較すると次のようになります。(参考資料 新聖書講解シリーズ ヘブル人への手紙)

32-5

キリスト     モーセ

神の家の所有者  神の家の忠実な奉仕者

神の御子     神に仕えたしもべ

聖書全体

キリスト     モーセ

神の啓示そのもの 神の啓示の一人の証人

神であるお方   神を愛した人

「家」と訳された原語には二つの意味があります。建物としての家とそこに住む人のことです。英語で言えばHouseとHomeです。イエスは万物の創造主ですが、モーセは創造主から創られた被造物の一人に過ぎず、神の家の一員に過ぎないのです。教会は神の家で神の家族なのです。それが6節です。 3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。「キリストは御子として神の家を忠実に治められる」とありますがキリストは教会の頭です。コロサイの信徒への手紙1章17節に記されています。また、「わたしたちこそ神の家なのです」とありますが、キリスト者はキリストの体なのです。これはコリントの信徒への手紙一12章27節に記されています。後ほど、お読みください。この手紙の著者は1章で先ず、キリストが旧約時代の預言者に勝ること、次に、キリストが天使に遥かに勝る存在であることを語りました。今日の箇所ではモーセにまさることを説いているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはイエスはモーセに勝るということです。新共同訳の小見出しが「イエスはモーセにまさる」となっている通りです。

②義なる神は愛なる神

プーチン大統領によるウクライナへの一方的な侵攻に停戦のめどが立たない状態が続いています。一日も早い停戦を祈りましょう。そんな中、先日、あるロシアの方が「この過ちを二度と繰り返してならない」と言われていました。実に印象に残る言葉でした。これから学ぶ3章7-11節にもユダヤの民の過去の不信仰の出来事にふれつつ、同じ過ちを二度としてはならないと著者は警告をしています。7-11節を見てみましょう。3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、3:8 荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。3:9 -10荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』3:11 そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」この箇所は詩編95編7-11節からの引用です。95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。 95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。 95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 95:11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」詩編95編7-11節には出エジプト記17章1-7節と民数記20章1-13節にある二つの出来事が記されているのです。二つの出来事ともユダヤの民が荒野をさまよった時に不信仰となり神に対して不従順になったのです。先ず、出エジプト記17章1-7節にはユダヤの民の不信仰が描かれています。砂漠において水は生命そのもと言えます。ユダヤの民は荒野をさまよい水がなくなったとき、指導者であるモーセに次のように詰め寄ったのです。 17:3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」ユダヤの民はエジプトから出てきたことを後悔し、神に対して全くの不信仰になってしまっていたのです。民数記20章1-13節は「メリバの水」の出来事で、モーセの不信仰が記されています。神はモーセに20:8「岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と命じたのですが、モーセは苛立ちと怒りのあまり、杖で岩を二度打ってしまったのです。20:11 モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。愛と憐れみに満ちた神はモーセの不信仰にもかかわらず、ユダヤの民に水を与えてくださいましたが、神はモーセの不信仰と不従順に対する罰として、ユダヤの民を率いて約束の地であるカナンには入れないと宣告を受けたのです。ヘブライ人への手紙は背教の問題について語っています。この手紙の受取人(共同体)はユダヤ教への遡りの可能性があったのです。ですから、著者は過去の先祖が犯した不信仰の罪を伝え、約束された神の祝福を取り逃がさないように気を付けなさいと警告をしているのです。今日、あって欲しくはありませんが、恵みによって救われ永遠の命が与えられたのににもかかわらず、キリスト信仰、教会生活から離れてしまう方もいます。残念ながら私たちの教会にもいます。ここで、教会から離れて、二十年もの年月が経った後、教会に戻られた一人の方の証をご紹介したいと思います。私たちが所属している教団が発行している小冊子「希望」の6月号に記されていた証ですので、ご存じの方もおられるかもしれませんが、素晴らしい証ですので、お聞きください。Nさんは1989年に27歳の時、K教会で信仰を持ちました。結婚し家族にも恵まれ順調に人生を歩んでいましたが、阪神淡路大震災により勤務先が倒産。家庭がうまくいかなくなり、教会から離れてしまいました。40~50代は自暴自棄になっていたそうです。2019年、友人に誘われてその友人が通う教会の礼拝、聖餐式に出席したときのことです。高齢の三人の姉妹が、お互いに支え合いながら聖餐に預かる列に並んでいたのです。それを見たNさんは「自分が教会から離れている間も、いやそのずっと前からも神様はこの方たちを守り続けておられたのだ」と思い、後悔とも感動ともつかない気持ちで胸が一杯となり、「これ以上神様を待たせてはいけない」と決心しK教会に戻りました。この証のタイトルは「待ちづけてくださっていた神様」です。神は不信仰なものに罰を与えるだけではありません。神は義であり愛です。大きな愛により不信仰から立ち戻ることを忍耐強く待ち続けているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは義なる神は愛なる神ということです。

③神の声を聞く

3:7節をもう一度、見てみましょう。3:7 だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、この箇所から大切な適用がわかります。不信仰に陥らないために必要なものはなんでしょうか。誘惑の多い今日、どうしたらキリスト信仰に固く立ち続けることが出来るでしょうか。答えは「神の声を聞く」です。今日、三番目に覚えて頂きたいことは神の声を聞くということです。最後に、17世紀に活躍したイギリスの牧師のリチャード・バクスターの名言をご紹介したいと思います。「性急な者よ、静かに座してヨブと交われ。一徹なる者よ、モーセとペテロの記事を。柔弱なるものよ、エリヤを見よ。心に歌なき者よ、ダビデに聞け。政治家よ、ダニエル書を読め。失意と暗黒にある者よ、イザヤ書を読め。心の冷ややかな者よ、愛の使徒ヨハネに近づけ、信仰の薄き者よ、パウロに目を注げ。安逸を貪る者よ、ヤコブ書を忘れるな。将来に望みなき者よ、黙示録を読んでビジョンを!」聖書を読み祈りましょう。日々の静まり、デボーションを行いましょう。キリスト者としての成長のためにデボーションは欠かせません。毎日、一定の時間を作り、イエスのことを考えるのです。主イエスの人格、教え、御業に心を傾け黙想をする時を習慣にしようではありませんか。既に習慣になっている方は継続ができるようにされてください。これが信仰を持ち続ける秘訣なのです。

Today’s Take-away

➀イエスはモーセにまさる、②義なる神は愛なる神、③神の声を聞く

Thinking Time

過去の失敗から学べていないことはありませんか。