• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年6月19日主日礼拝

説教題 神の言葉を聞く~励まし慰め信じ実行~聖書箇所 ヘブライ人への手紙3章12-19節

3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。

ハレルヤ!6月の第三主日を迎えています。先月からヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその六回目です。先週は3章1-11節を通し、「モーセに勝るキリスト・イエス~信仰に立ち続ける秘訣~」と題し三つの事を中心にお話をしましたイエスはモーセにまさる、義なる神は愛なる神、神の声を聞くでした。今日は続く3章15-19節を通し、「神の言葉を聞く~励まし慰め信じ実行~」と題しお話を致します。神の声、御言葉を聞くことの適用が三つわかります。ご一緒に学んで参りましょう。

➀御言葉は励ましと慰めに使う

12節から見てみましょう。3:12 兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。先週、学んだ7-11節には旧約聖書に記された二つの失敗の実例が記されていました民数記20章に記されたユダヤの民の不信仰と出エジプト記17章に記されたモーセの不従順です。ですから、著者は過去の先祖が犯した不信仰の罪を伝え、約束された神の祝福を取り逃がさないように気を付けなさいと警告をしているのです。警告は、「信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」と続きます。13,14節を見てみましょう。3:13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――3:14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――警告は「罪に惑わされてかたくなにならないように」と続きます。著者は何度も何度もしつこいように警告を重ねています。それほど、ユダヤ教への遡りが危惧されていたのです。「今日」という日』とあります。この箇所の今日とは今日中の意味ではありません。今、この瞬間という意味です。このことからとても大事なことがわかります。キリスト教における救いは今、この瞬間です。昔、信者だったとか洗礼を受けたことがあるではないのです。逆に大きな罪を犯しても、今、この瞬間に信仰によって告白をすれば救われるのです。先に何が起こるかは神のみの世界です。ですから、そのうち信仰を持てばいいのだという考えではなく。今、主イエスを救い主と受け入れようではありませんか。蛇に狙われたネズミの話を聞いたことがあります。難を逃れようと高い木に登っているのですが、死に直面し、恐怖のあまりブルブルと震えているのです。蛇は何とかして、そのネズミを食べようとして舌なめずりをして待っているのです。私にはこのネズミが以前の自分の姿のように思えました。どんなに名を上げて富を築いたとしても人間には死が待ち構えているのです。一方、明治から昭和の初期に活躍した伝道者の内村鑑三先生には若くしてお亡くなりになったルツ子という名のお嬢さんがいました。内村先生はルツ子さんの葬儀の時に「ルツ子は天国に行った!万歳!」と叫んだそうです。どちらを選択するでしょうか。震えるネズミでしょうか。万歳でしょうか。今、この瞬間が救いの時なのです。また、内村鑑三先生は「一日一生」とも言いました。これは、与えられたこの一日が自分の全生涯のつもりで生きるという意味です。明日と言う日は明るい日と綴りますが、その明るい日が必ず来るという保証はどこにもないのです。「日々励まし合いなさい。」とあります。この手紙にはキリスト者同士の交わりや教会生活の重要性が記されています。この手紙の受取人(共同体)は共に礼拝を捧げ交わりの時を持っていたでしょう。しかし、それだけでは相互の助け合いのための十分な時間がなかったのでしょう。ですから、著者は「日々励まし合いなさい。」と記しているのです。励ましには色々な方法がありますが、その中心は御言葉の恵みをお互いに分かち合うことです。この励ますと訳された原語は「戦場で指揮官が部下たちを鼓舞激励する」などという場合使われますが、お互いに監督し合うという意味もあります。牧師を含め教会に集う一人一人が助け合い、慰めあうものなのです。聞いた御言葉は自分のためだけでなく、周りの方への助けあい励ましあいのためにも使おうではありませんか。以前、私が「ああ、疲れたー」と言った時、ある方から、イザヤ書 40:31の御言葉で信仰がないと裁かれたことがありました。40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。御言葉は周りの方を裁くために使うのではありません。そもそも御言葉は自分のためのものですが、周りの方に使う場合は励ましと慰めのために使いたいものです。今日、先ず覚えて頂きたいことは御言葉を励ましと慰めに使うということです。続いて「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」と述べるのです。「連なる者」とありますが、これは、将棋の駒に例えられます。将棋の名人戦で優勝をするのは駒が立派だからではありません。将棋の指し手の能力によって決まるのです。高価な駒であろうがなかろうが関係はありません。神という指し手からみれば、私たちは駒なのです。駒は指し手の思いのままによって進まねばなりません。神という指し手に信頼をしていれば私たちがどんな駒であろうとも勝負に勝つことが出来るのです。栄光に預かることが出来るのです。ですから、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける」必要があるのです。

②御言葉を信じる

15節を見てみましょう。3:15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」の部分は詩編95編7-8からの引用です。95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。先週、学びましたが、この手紙の3章7-11節で、詩編95編7-11を引用しましたが、再度、一部を引用して、ユダヤの民の不信仰と不従順を強調しているのが16-19節です。16節を見てみましょう。3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。「神の声を聞いたのに」とあります。3章7節には「神の声を聞くなら」とあり、4章7節にも「神の声を聞くなら」と繰り返しています。御言葉を聞くことはとても大事です。使徒パウロはローマの信徒への手紙で次のように語りました。10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。御言葉を聞くとは主日礼拝や集会で牧師や講師の話を聞くことだけではありません。一人一人が個人的に御言葉に耳を傾け、祈りつつ、神が語られることを聞きとるのです。これがディボーションです。ディボーションは毎日行うもので、思いついた時や修養会で行うものではありません。聖書日課や聖書通読表などを用いて、日々の御言葉に耳を傾けて参りましょう。御言葉を単に聞くことと、信仰を持って聞くことには大きな差があります。この手紙の受信者の中にも御言葉を聞いてはいたが、信仰を持って受け止めていなかった方がいたのです。ですから、過去のユダヤの民の不信仰を再三、引用しているのです。私たちが所属する教団は聖書信仰に固く立っています。聖書信仰とは聖書を誤りない神のことばと信じる信仰のことです。さて、私たちはどうでしょうか。この箇所は信じるけどこの箇所は信じられないなどと思ってしまってはいないでしょうか。今、ここで不信仰を悔い改めようではありませんか。ナイジェリアの牧師で著名なテレビ伝道者でもあるセグン・オシナガ博士(アフリカ・ハーベスト・ミニストリーズ)が語られたお話をご紹介します。ケニアにAさんという聖書信仰に固く立った女性がいました。ご主人に先立たれ、生活は苦しく残ったのも目の前にある小高い山一つでした。Aさんはいつもこの山がなければ作物を植えたり、羊を飼ったりして生活の足しになるのになぁと思っていました。そんなある日、日々の聖書通読でマルコによる福音書の11章23,24節を読んで、非常に心を打たれました。見てみましょう。11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。Aさんは希望の光が与えられ、御言葉を信じ祈り続けました。暫くすると近くの教会でアメリカ人の宣教師による集会が開かれていました。集会に行くと、なんと説教箇所はマルコによる福音書の11章23,24節からの説教で、集会後Aさんはその宣教師を訪ね。力強いメッセージのお礼を言うとともに、自分の置かれた状況を話し、山が本当に動くことの確認を尋ねたのです。Aさんの質問に宣教師はしどろもどろになってしまいました。まさか本当に山が動くことを期待している聴衆が来るとは宣教師は夢にも思っていなかったことでしょう。他の個所から説教をすればよかったなぁなどと思ったことでしょう。しかし、Aさんは御言葉に固く立ち祈り続けました。四か月後のある日、ケニア政府の建設省の役人がAさんのところに来ました。役人はこう言いました。「ケニアの道路建設のために大量のアスファルトの原料が必要です。ナイロビ大学に調査をさせたところ、お宅の山は、アスファルトを作るためのコールタールの原料のかたまりだとわかりました。そこで政府としては、ぜひお宅の山を全部買い上げたいのです!」莫大な金額で山は売れ、あっと言う間に山は崩されて平地となったのです。山は動いたのです。アメリカ人宣教師は、聖書のみことばを頭だけで信じていましたが、Aさんはそれを心から信じたのです。ここに大きな差があるのです。この手紙の11章6節には次のように記されています。11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。主は御言葉を信じる者を喜び、御言葉を実現してくださり、豊かな報いも与えてくださるのです。何があっても御言葉を信じましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことは御言葉を信じるということです。

③御言葉を実行する

17節を見てみましょう。3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。「神は四十年間憤られたのか。」とあります。ユダヤの民はエジプトを出発してから約束の地カナンを目指して進みました。ある試算によると、エジプトを出発した場所からカナンまでは、直線距離にすると約300キロだそうです。八街教会を起点に北に行くと宮城県の蔵王あたりです。温泉とスキー場で有名ですね。新幹線を使えば4時間の距離で、1日に20キロ歩くとしたら半月で到着できる距離です。ところが、ユダヤの民は約束の地にたどり着くために荒野をさまよい続け、実に40年もの年月がかかってしまったのです。それは、彼らの神に対する不遜、不信仰があまりにも強かったためでした。食べるものにも飲み水も不足していたので、ユダヤの民は自分たちをエジプトから出国してしまったことの不平不満ばかり言っていたのです。しかし、主なる神は朝にはマナ、夕にはウズラ、さらに飲み水まで与えてくださったのです。開きませんが出エジプト記の16,17章に記されています。もし、私たちが主に不平不満を言っているとすれば、問題は私たちの側にあるのです。主と離れてしまっているからです。主と離れずにいる方法が日々のディボーションなのです。18,19節を見てみましょう。3:18 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。3:19 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。「従わなかった者」とあります。この手紙の受取人(共同体)には御言葉に従わなかった人がいたのです。結果それらの人々は祝福を受けることが出来なかったと思われます。体調が崩れ医者に行っても、処方された薬を飲まなかったり、医者の指示に従わなかったりすれば意味がありません。また、楽器が弾けるようになりたと思って本をかっても本を読んでいるだけでは上達をしません。実行することが大事です。語学も同じです。たくさん英会話の本をかっても読んでいるだけでは上達をしません。ヤコブの手紙1章には次のように記されています。1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。また、主イエスご自身が山上の垂訓でこのように語られています。マタイ 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。これは弟子たちに地の塩、世の光となりなさいと命じられた直後のお言葉です。「あなたがたの立派な行い」とは御言葉の実行に他なりません今日、最後に覚えて頂きたいことは御言葉を実行するということです。主イエスの愛に励まされ御言葉を実行してまいりましょう。

Today’s Take-away

➀御言葉は励ましと慰めに使う、②御言葉を信じる、③御言葉を実行する

Thinking Time

日々のディボーションは十分に出来ていますか。