• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年7月17日主日礼拝

説教題 初歩から卒業する 聖書箇所 ヘブライ人への手紙5章11節-6章8節

一人前のキリスト者の生活5:11 このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。5:12 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。5:13 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。5:14 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。6:1 -2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。6:3 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。6:7 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。6:8 しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。

ハレルヤ!7月の第三主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその九回目です。先週は4章14節-5章10節を通し、「神から任命された大祭司~主イエスに従っていますか~」と題し三つ事を中心にお話をしました。➀大祭司イエスを持っている、②唯一の罪なき大祭司、③主イエスに従順でした。今日は、5章11節-6章8節を通し、「初歩から卒業する」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀一人の問題は教会全体の問題

11節から順番に見て参りましょう。5:11 このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。どの時代でも大人になっても子どものような考え方をする人がいます。少し前ですが、山口県阿武町で役場から誤って送金された4630万円もの大金を24歳の男性がオンラインカジノで使ってしまったという事件がありました。この事件を受けて、海外でも多額の金額が誤送金された事例がTVで紹介されていました。正直に返された方もいますが、やはり、使い込んでしまい返さない方もいたそうです。このように体は大人でも考え方は子どもという方はいるものです。そして、このことは信仰生活にもあてはまります。今日の箇所にはそのような人について著者は勧告をします。「このことについては、」とあります。これは、先週の箇所に記されていた、主イエスがメルキゼデクと等しい大祭であるということ、キリストの大祭司としての贖罪の御業についてです。そのことについて、「あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」と語るのです。「耳が鈍くなっている」には「肉体の耳が遠くなる」の意味に加えて、「理解力が鈍い」という意味があります。つまり、信仰者として、「主イエスがメルキゼデクと等しい大祭司」であることが理解できるほどには成長をしていないと言うのです。ですから、このことについてはここでは、もう語るまいというのです。しかし、著者は理解できないことを知りながらも努力を惜しまず、7章でメルキゼデクのことについて詳しく語ります。著者はたとえ難解な部分があったとしても真理を伝えることが使命だと思っていたのです。12節を見てみましょう。5:12 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。「もう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、」とあります。この手紙の受取人は長い間、信仰生活を送っているのだから、とっくに教える側の教師になっているはずだが、成長が止まってしまい、初歩的なことを教えてもらわなければならないというありさまなのです。この「初歩」と訳された原語は英語で言えばABCで、日本語で言えばイロハです。イロハからやり直すような状態だったのです。「固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。」とあります。赤ん坊が育つためにはミルクが必要ですが、育つにつれ離乳食となり、やがては大人と同じものを食べます。しかし、著者は手紙の受取人がいついまでたっても霊的に成長をせず、ミルクが必要なままだと語ります。使徒パウロもコリントの信徒への手紙一で「固い食物」「乳」について次のように語っています。3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。13,14節を見てみましょう。5:13 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。5:14 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。「幼子ですから」とあります。手紙の受取人は、キリスト者としての霊的な成長が止まってしまい。幼子のような状態なのです。「義の言葉」とありますが、これは11節のたくさんの「話すこと」を言い換えたものです。話したいこと、伝えたいことはたくさんあるのですが、幼子には理解が出来ないというのです。「固い食物」は11節のたくさんの「話すこと」、13節の「義の言葉」を言い換えたものとも言え、それらは「一人前の大人のためのもの」なのです。信仰者としての成長が止まってしまっているとしたら、それは個人の問題だけではありません。教会は有機的な共同体です。信仰を含め、一人の問題は神の家族全体の問題ととらえる必等があるのです。一人の問題によって教会全体の生命が危険になるという重大な問題を引き起こすことになるのです。霊的な赤ん坊は教会内においてトラブルメーカーになるものです。コリントの教会では霊的な一致を得られずに分裂の危機がありました。パウロ派、アポロ派という派閥があったのです。開きませんが、コリントの信徒への手紙一3章に記されています。後ほど読まれてください。

今日、先ず覚えて頂きたいことは一人の問題は教会全体の問題ということです。一つ留意をして頂きたいことがあります。主イエスは子どもについて次のように語りました。ルカによる福音書18章15-17節を見てみましょう。18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。 18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」子どものような純粋の心を保つことと振る舞いがこどものままであるということは異なります。英語で言えば、childlike childishの差です。Childlikeは「 (子供のように)純真な」とポジティブな意味合いを持ちます。一方、childishは「大人げない、幼稚な」とネガティブな意味合いを持ちます。ルカによる福音書でイエスが語られた「子供のように」はchildlikeの意味です。

②成熟を目指す

6章1,2節を見てみましょう。6:1 -2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。「だから」とあります。5章11-14節で述べられたキリスト者としての未成熟に対して、6章1節以降では成長発育をすることの期待が記されています。信仰生活に静止はありません。17世紀にイングランドで起こったピューリタン革命の指導者オリヴァー・クロムウェルは自分が携帯する聖書に「向上することをやめた者は無益な者となる」と書き込んでいました。毎日、成長できれば良いのですが、そうでない時もあります。水前寺清子さんの「365歩のマーチ」ではありませんが「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで 二歩下がる」で良いと思います。他人と比較することなくゆっくりでも着実に成長することが大事です。「基本的な教え」、「キリストの教えの初歩」とありますが「乳」の言い換えとも言え、1-2節にはそれらの六つのことが記されています。未信者や求道中の方には大事な基本ですので「死んだ行いの悔い改め」から順番に見て参りましょう。「悔い改め」とは自分中心の生き方から神中心への生活に態度を180度変換することですが、わざわざ「死んだ行いの」と付け加えられています。これはユダヤ教を背景とし、ユダヤ教に戻ろうとしているこの手紙の受取人に儀式や規定を守ることによって救いを得ようとすることが出来ないことを印象付けるためのものだったと考えられます。「神への信仰」とは、人生の案内人であり、魂の救い手である神に、自己の一切を委ね明け渡すことです。「種々の洗礼についての教え」とありますので、この手紙が記された当時、いくつかの洗礼の規定があったことがわかります。実際、紀元100年に記された「12使徒の教え」という小本には洗礼に関する取り決めが記されています。「手を置く儀式」とは「按手」のことで、三つの意味がありました。先ず、罪悪を転化させるしるしです。燔祭の犠牲となる動物の上に手を置いて、自分の罪を動物に移していました。次が、祝福を与えるしるしです。父親が息子を祝福する場合、息子の頭に手を置いて、自分の祝福が息子に継続させたのです。最後は、任職のしるしです。特別な役職につく人の上に手を置いていました。これは、現在でも引き継がれ私たちが所属するホーリネス教団を含め多くの教団では正教師となるものには按手礼が行われています。「死者の復活」とあります。キリスト者にとって復活の希望はその本質に属するものであり、旧約時代から復活の希望が述べられています。イザヤ書26章9節を見てみましょう。 26:19 あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。開きませんが、ヨブ記 19 章25-27 節や詩編 16 章 10 節にも同様な記述がありますので、後ほど読まれてください。「永遠の審判」とあります。この手紙の9章27節には次のように記されています。9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、これはキリスト者だけのことではありません。全ての人間に下されるものなのです。全ての人は、いつの日か神の御前に立つ日が必ず来るのです。これらの六つの「基本的な教え」は生まれたての赤ん坊には必須である「乳」の役割をしていたのですが、これらだけによっては成長をすることが出来ません。ですから、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」と語るのです。この手紙の受取人に求められているのは信仰の成長、成熟なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは成熟を目指すということです。3節を見てみましょう。6:3 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。」とあります。「神がお許しになるなら」という条件の表現に違和感を覚える方もいるかもしれませんが、この条件には非常に重大な意味があります。神がお許しにならない場合があるのです。「耳が鈍くなっている」人たちがそのままでいたら信仰生活のゴールまで完走できない可能性があります。また、閉じられてしまった扉を叩いても遅すぎる場合もあるのです。主イエスは「十人のおとめ」の譬え話で次のように語られました。マタイによる福音書25章10-13節を見てみましょう。25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

③福音から脱落しない

4,5節を見てみましょう。6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、親にとって子どもが生まれることはこれほど嬉しいことはないでしょう。その子どもが無事に成長をすることを親は願うものです。このことは信仰者の霊的な成長にも当てはまるのですが、著者はこの箇所で背教、棄教に対して厳しい勧告をします。「一度光に照らされ、」とありますこれはキリスト者になることを意味します。「天からの賜物」は主イエスご自身であり聖霊とも言えます。5節に「神のすばらしい言葉と来るべき世の力」とあります。「神のすばらしい言葉」つまり、御言葉には「来るべき世」をも支配する力があることを暗示しています。ですから、4,5節は一度、キリスト者となり、その特権として内住のイエス、聖霊が与えられ、その素晴らしく来るべき世をも支配する力がある御言葉を体験したのにという言う意味です。6節を見てみましょう。6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。6節は大変厳しい内容ですので、古くから、この箇所には様々な解釈があり、神学論争があります。着目したいことは、「再び悔い改めに立ち帰らせること」が出来ない理由が「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」とあるように、この箇所はありえない仮定の場合と解釈をすればばすっきりとわかります。真意は、「神の子を自分の手で改めて十字架につけることなど出来ないから、再び悔い改めに立ち帰ることは出来る。」です。主イエスは7の70倍(無限)に赦しなさいと教えられました。自分を三回も否定した一番弟子のようなペトロも赦しています。6節は実現不能な仮定に基づいた警告であり、主のみ旨ではないことは明白です。何故、ありえない仮定をつかったのか、その理由は後ほどお話をします。7-8節を見てみましょう。6:7 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。6:8 しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。7,8節は6節をたとえでかたったものです。この箇所でも対比をしながら厳しい警告をします。たとえられている事柄を( )に入れてみると良くわかります。 6:7 土地(信徒)は、度々その上に降る雨(聖霊)を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物(信仰による成熟=御霊の実)をもたらすなら、神の祝福を受けます。6:8 しかし、茨やあざみ(信仰に有害なもの=背教に繋がるもの)を生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。何故、著者はありえない仮定をつかったり、「やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」という非常に厳しい表現をつかったりしたのでしょうか。それは、この手紙の受取人(共同体)は迫害により、キリスト教信仰から離れ、ユダヤ教へ遡りする可能性があったのです。著者は恵みによって救われたのだから背教などどうしてもしてほしくなかったのです。手紙の受取人の成長、成熟を祈り願い共に信仰のレースを完走したいのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは福音から脱落しないということです。

Today’s Take-away

➀一人の問題は教会全体の問題、②成熟を目指す、③福音から脱落しない

Thinking Time

信仰の定期健康診断とはなんでしょうか

どうしたらその健康診断を受けることができるでしょうか