• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年9月11日主日礼拝

説教題 新しい契約その弐~イエスは神の愛を選ばれた~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙9章1-14節

地上の聖所と天の聖所

9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

ハレルヤ!9月の第二主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその14回目です。前回のおさらいから始めましょう。8章1-13節を通し、「新しい契約~律法の存在意義~」と題し三つ事を中心にお話をしました。➀神の一方的な愛の現れ、②新しい契約は次元が異なる、③律法は養育係で罪を自覚させるでした。9章1-14節を通し、「新しい契約その弐~イエスは神の愛を選択された~」と題しお話を致します。今日の箇所に記されている大半のことは既に記述されている内容を言葉を換え繰り返し述べています。つまり重要な内容なのです。ご一緒に学んで参りましょう。

➀全ての人が神に近づける

1節から見て参りましょう。9:1 さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。「最初の契約」とあります。旧約(古い契約)のことです。先週、新しい契約は次元が異なることを学びました。私たちが使っている聖書は旧約聖書と新約聖書から成り立ちますが、この聖書のなかに旧約(古い契約)と次元が異なるほどにかわった新しい契約(新約)があるのですが、この二つの契約にはベースがあります。犠牲による罪の赦し救いです。旧約時代は動物を繰り返し捧げていましたが、主イエスがご自身を捧げ新しい契約が完成したのです。礼拝の規定と地上の聖所」とあります。旧約時代は、礼拝規定を設け幕屋(聖所)で繰り返し行っていました。キリストの十字架の贖いを象徴的に表す予型です。2節を見てみましょう。9:2 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。第一の幕屋、聖所の中には三つのものがありました。「燭台、机、そして供え物のパン」です。燭台は金で出来ていて混じりけのないオリーブ油が注がれていました。一説によるとこの燭台は今で言えば一千万円位の価値があると言われています。3,4節を見てみましょう。9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、第二の垂れ幕の後ろ」、至聖所の中にも三つのものが置かれていました。「金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱、そして、5節に記されているケルビムです。この契約の箱(聖櫃、英語ではArk of the Covenant)は、紀元前586年のバビロン捕囚以降、行方がわからなくなり、現在に至っています。「契約の箱」の中にも三つものがありました。「マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板」です。「マンナの入っている金の壺」のマンナ(口語訳、新改訳はマナ)です。マンナは天から降ってきた食物です。荒野を彷徨うユダヤの民に主はマナを与えてくださいました。出エジプト記16章に記されています。主がなされた驚くべき業を思い起こさせためです。5節を見てみましょう。9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。箱の上にはケルビムの像が置かれていました。ケルビムは神殿の奉仕者としての天使と考えられているもので、創世記3章にケルビムの事が一番初めに記されています。3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。旧約聖書にはケルビムについて歴史書、預言書などに数多くの記述がありますが、新約聖書でケルビムについて記されているのはこの5節だけです。5節の後半に「こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。」とあります。この箇所を「こういうことについては、今はいちいち語る必要はありません。」と言い換えると著者の真意がわかります。これらは古い契約によってなされていたものなので、次元が異なるほどの新しい契約が生まれた以上、意味をなさないからです。勿論、歴史的な意味はあります。この2-5節に記された内容は出エジプト記の25-31章、35-40章に事細かく記されていますので、後ほど読まれてください。6-7節を見てみましょう。9:6 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。幕屋のことを会見の天幕とも言います。当時、一般のユダヤの民は幕屋の庭の入口までしか近づく事ができませんでした。祭司とレビ人は天幕にある外庭までに入ることができましたが、その内、祭司だけが聖所に入ることが出来たのです。そして、至聖所には大祭司だけが入ることが出来たのです。以前にもお話をしましたが、祭司と大祭司の務めを確認しましよう。祭司の務めは、毎日、朝晩に灯を点けることと香をたくことでした。安息日にはパンを備えることも祭司の務めでした。祭司たちはこれらの務めを当番制で行っていました。大祭司は年に一度、白い特別な衣装を着て至聖所に入ります。先ず、自分と家族の罪のために生贄として雄牛をほふり、贖罪所と呼ばれていた契約の箱の蓋にふりかけ罪の贖いをします。次に、民の罪のために雄山羊をほふり、同じようにします。そして、大祭司はもう一頭の雄山羊の頭に手を置いて次のようにします。レビ記16:21を見てみましょう。レビ16:21 アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。これらのことが年に一度、大祭司が自分、家族と民のためにおこなう務めなのです。至聖所とは大祭司でさえ年に一回しか入れない場所だったのです。8節を見てみましょう。9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。このヘブライ人への手紙には至聖所という言葉が二回、聖所は九回使われていますが、聖所と至聖所を特に区別しないで使っている場合があります。8節もそうです。ですから、「第一の幕屋」とは聖所のことで、「聖所への道」は至聖所への道の意味で解釈をすると意味がわかります。聖所と至聖所は垂れ幕で区切られていました。至聖所は神ご自身が宿られる場所です。至聖所に入れるのは大祭司だけで年に一回の贖罪日だけでした。主イエスが十字架刑に掛けられた直後、神殿の垂れ幕が上から下へと裂けました。開ききませんが、マタイによる福音書27章51節に記されていますので後ほど、読まれてください。垂れ幕が裂けたことは幕屋内の垂れ幕がなくなったことを意味します。天におられる神ご自身が、その幕を破られたのです。キリストが私たちの先駆者として、天にある聖所の中に入っていかれたのです。そのことによって私たちがそこに行く道をご用意されたのです。ですから、新約の時代、垂れ幕によって私たちの希望が遮られることはないのです。旧約の時代ユダヤの民は幕屋の中に入れませんでしたが、主イエスの十字架により、幕が破られ全ての人へ至聖所への道が開けたのです。旧約時代は大祭司しか至聖所に入れなかったのですが、キリストの贖罪の御業により、全ての人がイエスキリストを通し、神と交わることが出来るようになったのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは全ての人が神に近づけるということです。

②旧約の規定は暫定的なもの

9節を見てみましょう。9:9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。9節の「この幕屋」とは8節の「第一の幕屋」のことですので、聖所です。広義においては旧約聖書の律法とも解釈が出来、地上の幕屋(聖所)とは真の幕屋の「比喩」に過ぎなかったのです。予型です。ですから、「供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。」旧約時代に行われていた燔祭は、信仰、悔い改め、神に対する感謝と献身を呼び起こすことは出来ました。しかし、私たちの罪を完全に、永久に取り除くことは出来なかったのです。先週、学んだ通り、律法はキリストに導く養育係で罪の自覚を生じさせるものに過ぎなかったのです。10節を見てみましょう。9:10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。「これらは」とありますが、旧約時代の規定と解釈をすると分かりやすいです。続いて、「食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもの」とありますが、レビ記に書かれた数多くの事細かな食物規定のことです。レビ記11章1-4節を開いて見ましょう。 11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。 11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、 11:3 ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。 11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。 10節の後半に、「改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。」とあります。「改革の時まで課せられている」とは主イエスが来られる時迄の意味で、これらに規定は主イエスが来られる迄の暫定的なものだったのです。主イエスは山上の垂訓で次のように語られました。マタイ6:25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは旧約の規定は暫定的なものだったということです。

③主イエスが愛を選択された

著者は11-14節にかけて新しい契約の下にあるキリストの働きを述べています。11,12節を見てみましょう。9:11 けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。「大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、」既にキリストは神によって大祭司に任命されたことを7章のメルキゼデクとアブラハムの比較を通して語りました。そして燔祭で動物が流す血がキリストの流される血の予型であり、自分自身が十字架に掛かり、永遠の贖いの御業をなしたことも学びました。重要な事項ですので、言葉を換え繰り返し伝えています。13,14節を見てみましょう。9:13 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、9:14 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。この著者は修辞法(レトリック)を好んで使っています。仮定や二重否定、修辞疑問文などですが、13節と14節では仮定と修辞疑問文が使われています。この箇所の言わんとしていることは「なぜなら、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるので、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせるにきまっている」です。14節に「生ける神を礼拝する」とあります。イエスキリストの贖罪の御業ゆえ、私たちの良心は清められ、「生ける神を礼拝する」ことが出来るのです。この良心と訳された言葉は岩波訳聖書では「内奥の意識」と訳されています。人間を本当に動かしているものは内奥の意識と言えます。人間の行為は表面だけではわかりません。傍から見れば熱心に見えるキリスト者も内奥の意識ではそうではないということがあります。キリスト者でも偽善者となってしまっている場合があります。このことを思うと内奥の意識が清められるということは本当に感謝すべきことだと思います。燔祭の動物は規定にのっとり屠られていました。いわば機械的なものです。また、犠牲となる動物には犠牲となる意志はありません。一方、主イエスは「永遠の“霊”」によってご自身を捧げたのです。「永遠の“霊”」、聖霊に導かれた自発的なもので、ご自身の意志によるものなのです。主イエスは十字架刑に処せられる前にオリーブ山で次のように祈りました。ルカによる福音書22:42-44を見てみましょう。 22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕贖いの御業とは神の愛の現れと同時に、人間イエスがご自身の意思で神の意向に服従した結果なのです。これは律法の機械的な適用ではなく、主イエスによる犠牲の愛なのです。贖いの御業とは、イエスが神の愛を選択された結果なのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはイエスは神の愛を選択されたということです。

Today’s Take-away➀全ての人が神に近づける、②旧約の規定は暫定的なもの、③イエスは神の愛を選択された

Thinking Time古い規定に縛られていませんか。どうしますか。

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