• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年9月25日主日礼拝

説教題 御心を行うために来られた~大祭司キリスト論の総決算~

聖書箇所 ヘブライ人への手紙10章1-20節

10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。10:5 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。10:6 あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。10:7 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」10:8 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、10:9 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。10:15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。10:16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。10:17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。10:20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。

ハレルヤ!9月の第四主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその16回目です。前回のおさらいから始めましょう。9章15-28節を通し、「指差確認~死後と再臨に備える~」と題し三つ事を中心にお話をしました。契約はキリストの血により成立、キリストによる贖罪はただ一回、死後と再臨に備えるでした。今日は、10章1-20節を通し、「御心を行うために来られた~大祭司キリスト論の総決算~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀御心を行うために来られた

宗教改革の第一人者のマルチンルターはこのヘブライ人への手紙を愛読していたと言われています。その理由は、この手紙を読むことで旧約時代の燔祭による動物の犠牲から、主イエスの十字架の御業による福音になったことが良く理解できるからです。この手紙は福音という恵みの解説書とも言えるのです。総決算という言葉があります。一定期間の収支のすべてについて行う決算のことで、総決算セールなどと良く耳にすると思いますが、物事の最終的な締めくくりという意味もあります。前々回も前回もそうでしたが、今日の箇所でも、既に述べられてきた、旧約時代の犠牲的制度とキリストの贖罪の比較について言葉を換え駄目押しのように語ります。これまで述べてきた大祭司キリスト論の総決算となります。1節から見てみましょう。10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。「律法」とありますが、この箇所では狭義に解釈し燔祭の動物の犠牲の意味でとらえると良く理解できます。「やがて来る良いこと」とは十字架の御業によって持たされた福音です。燔祭と福音を影と実態とに例えられています。影は実体があるから存在をするものです。影を何度も繰り返したとしても実体になることはできません。影はいつまでたっても影なのです。ですから、「神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」と語るのです。2-4節を見てみましょう。10:2 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。10:3 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。10:4 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。贖罪の目的は人と神を親しく交わらせ、束縛や障害がなく自由に神の前に出られるためのものです。しかし、古い制度のもとで捧げられた全ての犠牲ではこの目的を果たすことができなかったのです。2-4節では修辞法が使われていますので、易しく言い換えてみると次のようになります。「動物の犠牲では人間の汚れをきよめることもできず、罪を取り除くこともできず、人を神に近づけることもできません。つまり、人間はいまだ救われておらず、神と人間の間には罪という大きな障害物が横たわっていることを思い出させるだけのものである」。既に学んだように律法はキリストに導くための養育で罪を自覚させるものに過ぎないのです。ローマの信徒への手紙3章20節、ガラテヤの信徒への手紙3章20節読まれて下さい。動物の生贄ではなく、唯一の効力のある犠牲がイエスキリストによる犠牲なのです。5節以降にそのことが記されています。5-7節を見てみましょう。10:5 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。10:6 あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。10:7 そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』「キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。」とありますが、この箇所は詩編40編7-8節からの引用ですが、キリストが神に語られたお言葉として記されています。引用元を見てみましょう。詩編40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。 40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。5-7節のキーワードは「わたしのために/体を備えてくださいました。」「神よ、御心を行うために。」です。神のご意志に従順に従って、これを行うことが神の喜ばれる犠牲だと言うのです。キリストご自身以外の動物の血や他の供え物によるものではなく、自分自身のからだこそが、神に喜ばれる真の犠牲と言うのです。今日先ず覚えて頂きたいことはキリストは御心を行うために来られたということです。クリスチャンという言葉は日本語になっていますが、英語ではChristianと綴りanは接尾辞です。この接尾辞には次のような意味があります。American国籍、専門家musician、その行為をする人pedestrian(歩行者)を意味します。ですから、クリスチャンとは天に国籍を持つ、キリストの専門家でキリストの行為をする人なのです。8,9節を見てみましょう。10:8 ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、10:9 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。8,9節は6,7節で語ったことを念押しのため再びかたり、「第二のものを立てるために、最初のものを廃止される」正当性を述べています。「第二のもの」とはキリストの贖罪で、「最初のもの」とは旧約時代の犠牲的制度です。

②キリスト者の罪は点

10節を見てみましょう。10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。10節に「ただ一度」とあります。先週、学びましたが、キリストの贖罪の御業は「一回で完全な物」なのです。繰り返すことのない、繰り返す必要がない唯一無二の御業なのです。後半に「わたしたちは聖なる者とされたのです」とあります。されたのです。英語の聖書はwe are sanctifiedと受動態です。10:10By the which will we are sanctified through the offering of the body of Jesus Christ once for all. (King James Bible)キリストは主イエスを救い主と信じ受け入れた瞬間から聖なるものとされるのです。これは聖化の恵みですが、後ほど詳しくお話をします。11,12節を見てみましょう。10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、旧約時代の犠牲的制度は「多数回で不完全」なのだったことが11節からわかります。「決して罪を除くことのできない」のですから、「わたしたちは聖なる者とされ」ることはないのです。11節に「毎日礼拝を献げるために立ち」と12節に「神の右の座に着き」とあります。祭司たちはあがないのために忙しく立って働いていますが、キリストは贖いの御業を完成し、神の右の座にて、地上にてきよめられた者が神のもとに来られるのを待っておられるのです。著者はこのことからもキリストの優位性を暗示しているのです。13,14節を見てみましょう。10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。「敵どもが御自分の足台となってしまうまで」とあります。主イエスによる贖いの御業は完成し、主は天の王座におられますが、地上に敵である悪魔はまだいます。その悪の勢力が滅ぶまで主イエスは待たれるのです。14節はキリスト大祭司論の神学的側面です。キリストがご自身をだだ一度捧げたことにより、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者」としてくださるのです。「聖なる者とされた人たち」と訳されていますが、原語に忠実に訳せば「絶えずきよめ続けられている人たち」です。きよめらた者がみずからきよくなり続けるのではありません。きよめられるとは、自分の犯した罪をきよめて頂くことで、それが絶えずなされていくことなのです。イエスキリストを救い主と受け入れた方は、その瞬間から聖なる生活が始まります。聖化のスタートです。聖さの成長というのは、右肩上がりに上昇し続けることではなく、順調に進むこともあれば元に戻ってしまうようなことの繰り返しです。ですから、キリスト者でも罪を犯してしまいます。しかし、内住の聖霊の働きにより、罪を犯しつ続けることは出来ません。ローマの信徒への手紙 6章14節を見てみましょう。6:14なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。キリスト者は罪を犯しつ続けることは出来ません。キリスト者の罪は点なのです。線ではないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリスト者の罪は点ということです。その聖化が永遠に完全になるのは再臨のときなのです。これは同時に、二度と朽ちることのない体にかわる栄化の時でもあります。聖化も栄化も信仰の賜物であることを忘れてはいけないと思います。信仰についてはこの手紙の11章で詳しく学びますが、信仰とはどこまでも約束を信じ続けることです。未だ手に入っていない事柄を既に入手したかのごとく生きていくことです。未来形のものを現在形として捉えることです。

③罪は心に留められない

15-18節を見てみましょう。10:15 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。10:16 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。10:17 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」10:18 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。聖化は聖霊様の働きですので、15節は「聖霊もまた」とはじまります。16,17節はエレミヤ書31章33,34節からの引用です。この箇所は一般的に「新しい契約」と呼ばれ8章8-12節でも引用をされていました。31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。エレミヤの預言がキリストにおいて完成をしたのです。律法による犠牲の行為は、人間に罪の思いが与えられることですが、キリストがご自身をただ一度捧げたことにより、主なる神は「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。」、「 わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(引用元)のです。今日、最後に覚えて頂きたいことは罪は心に留められないということです。「聖なる者とされた人」の日々の生活は、悔い改めの生活です。これがキリストによる「聖」にあずかる聖化の道です。聖でない私たちが聖とされるのです。それは私たちの良き業の結果ではなく、キリストによる「赦し」を信じるからです。神は私たちの罪を心に留められないので、「罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」と著者は語るのです。もはや、私たちは罪の赦しのために捧げものをする必要はないのです。19,20節を見てみましょう。10:19 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。10:20 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。「イエスの血によって聖所に入れると確信しています。」とあります。この手紙の受取人は激しい迫害のもとにあり、背教の危険にさらされ続けていたユダヤ人のクリスチャンと考えられています。著者はそのような受取人に対して主イエス・キリストがどのようなお方であるかを述べてきました。特に大祭司であるキリストについてです。旧約時代、民は直接、神に近づくことは出来ませんでした。しかし、「垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」とあるように、主イエスが十字架刑に掛けられた直後、神殿の垂れ幕が上から下へと裂けたのです。(マタイによる福音書27章51節)そのことにより、誰もが神に近づけるようになったのです。このことを確信していると語るのです。

Today’s Take-away

御心を行うために来られた

②キリスト者の罪は点

③罪は心に留められない

Thinking Time

キリストの御心を行っているでしょうか。