• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年9月4日主日礼拝

説教題 新しい契約~律法の存在意義~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙8章1-13節

◆新しい、優れた約束の大祭司8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。8:3 すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。8:4 もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。8:6 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。8:8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。8:9 『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。8:11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、8:12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」8:13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。

ハレルヤ!9月の第一主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその13回目です。先々週は美恵子牧師が御言葉を取り次ぎ、先週は合同礼拝でしたので、講解説教は三週間ぶりとなります。前回のおさらいから始めましょう。7章20-28節を通し、「イエスが神の愛を保証した」と題し三つ事を中心にお話をしました。➀イエスが神の愛を保証した、②主イエスは永遠の大祭司、③燔祭はイエスの予型でした。今日の箇所には「契約」という言葉が8回記されていますが、新しい契約は私たちが賃貸物件を借りるときの契約とは大幅に異なります。今日は、8章1-13節を通し、「新しい契約~律法の存在意義~」と題しお話を致します。新しい契約と古い契約の対比を一緒に学んで参りましょう。

➀神の一方的な愛の現れ

1,2節から見て参りましょう。8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。Hebr.8:2A minister of the sanctuary, and of the true tabernacle, which the Lord pitched, and not man. (KJB)「今述べていることの要点は」とあります。著者はこれまでに述べてきた大祭司キリスト・イエスについてのポイントを確認します。「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」とありますが、幕屋は教会の予型で、「真の幕屋」とは天国です。私たちキリスト者は天国に行きます。その天国で主イエスは「仕えておられる」のです。ほとんどの英語の聖書はminister(聖職者、牧師、教師)と訳されています。前回も学びましたが、「仕えておられる」とは、主イエスが「大いなる方の玉座の右の座」にいて、執り成しという業を私たちのためにしてくださっていることです。著者はこの主イエスの執り成しの業を確認をするのです。3節を見てみましょう。8:3 すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。「この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。」とあります。「この方」とは永遠の大祭司であるイエスです。「この方も」ともがありますので、人間の大祭司と同様にキリストも「何か」を捧げたのです。自分自身を十字架の上で捧げたのです。アロン系の人間の祭司は繰り返して燔祭をする必要がありましたが、イエスはご自身を捧げ贖いの御業が完成したのです。ここに永遠の大祭司であるイエスとアロン系の人間の祭司には大きな差があるのです。4節を見てみましょう。8:4 もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。4節は仮定法ですので、次のように言い換えることが出来ます。『復活され、天に戻り地上にいないので、「律法に従って供え物を献げる祭司たちが現に」いたとしても永遠の祭司になりえた』5節を見てみましょう。8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。「この祭司たち」とはアロン系の人間の祭司のことです。「天にあるものの写しであり影」とあります。写しや影とは本体があって初めて存在するもので、それ自体では存在することが出来ないものです。この手紙の著者は予型について語り始めます。「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」は出エジプト記25章40節からの引用です。 25:40 あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。私たちは地上にある幕屋によって、「主がお建てになった聖所また真の幕屋」を知ることができるのです。地上の幕屋とはモーセが主からの命令によって建てた一時的な聖所です。幕屋はヘブル語の「住む」という言葉に由来しています。つまり、神がおられるところ、神が人間にあわれるところを意味しているのです。出エジプト記25章22節に記されている通りです。25:22 わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。6節を見てみましょう。8:6 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。6節の「今、わたしたちの大祭司」とはキリストのことで、「更にまさった契約」とは8-12節に記されているエレミヤ書31:31-34の引用です。後ほど、お話をします。この契約と訳された原語には意志の意味もあります。ですから、「更にまさった契約」とはキリストの意志によってなされた十字架の御業、キリストの血で流された契約なのです。このキリストの意志によってなされた贖いの御業を信じるものには永遠の命が与えられるのです。私たちの行為ではないのです。ですから、新しい契約は神の一方的な愛の現れなのです。この契約は法律用語で言えば片務契約(当事者の一方だけが相手方に対して債務を負う契約)です。私たちが賃貸物件を借りる時の双務契約(当事者の双方が互いに債務を負う)ではないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは新しい契約は神の一方的な愛の現れということです。神の一方的な愛の現れを確信していた男の話が、ドストエフスキーの「罪と罰」に描かれています。主役のラスコーリ ニコフが酒場で知り合ったマルメラー ドフという名の男のことです。この男は、本当に酷い男です。勝手に妻の財産を売り払い飲み代にし、娘のソーニヤを売春婦として売り飛ばし、挙句にソーニャが稼いだ金で酒を飲み続けていたのです。ソーニャは売春婦となったことで救われました。この男の最期は馬車に轢かれ、娘ソーニャの腕の中で息を引き取ったのですが、生前、次のよう語りました。「けどね、神様の最後の審判の時にはね。心のきれいなソーニヤよ、早く来いとと言ってソーニヤを先ず迎えに来られるだろう。けども最後に、豚みたいな男出てこい。お前の罪も赦してやろうと言ってくださる。」と。ドフトエスキーは信仰者ではなかったかもしれませんが、どんな罪びとでも主イエスを受け入れれば天国にいける、福音をよく理解していたことがわかります。作品の多くはキリスト教精神に帰結しています。聖書箇所に戻ります。7節を見てみましょう。8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。7節は二重否定の仮定法ですから、真意は「あの最初の契約が欠け」があったので、「第二の契約」が生じたのです。モーセを通して与えられた初めの契約は、イエスの十字架上の死によって完成されたのです。この欠けがあったことが既にエレミヤによって預言されていたことを著者は強調をします。

②新しい契約は次元が異なる

8:9節を見てみましょう。8:8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。8:9 『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。8-9節はエレミヤ書31章31-32節からの引用です。エレミヤ31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 8節(引用元は31節)に「新しい契約」とありますが、時が過ぎ表面的なことが変わったのではありません。江戸時代、武士の子どもには「幼名」があり、地位が与えられれば、それにふさわしい名前に改名していました。徳川家康の場合は、松平竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と出世の度に改名していますが同一の人間です。また、古い契約の足りない部分が補填され新しい契約になるのではありません。節に「新しい」とあります。「新しい」を表すギリシャ語は二つあります。ネオスとカイノスです。ネオスは「時間的に新しい」という意味で、カイノスは「質的に新しい」の意味です。8節はカイノスです。10-12節を見てみましょう。この箇所はエレミヤ31書33,34節から引用されていますので、後ほどお読みください。8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。8:11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、8:12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」10節に「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。」とあります。古い契約は石の板に刻まれた外的なものでしたが、新しい契約は聖霊によって私たちの心の内面に刻まれたものであり、私たちの内側に契約を守る力を与えて下さるものなのです。これを言い換えれば「神が人の心を新しくしてくださる」と言えます。エゼキエル書11章19,20節には次のように記されています。 11:19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。 11:20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。11節に「小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり」とあります。古い契約はユダヤの民が契約の対象で、ファリサイ派の人および正統派のユダヤ人と、一般のユダヤ人との間には差別や対立がありました。しかし、新しい契約は、全ての人が契約の対象なのです。国籍、老若男女、身分は関係がなく全ての人に開かれているものなにです。主イエスがもたらした新しい契約は質的にまったく新しいもので、かつ古い契約を完全に無効とするものなのです。次元がことなる契約とも言えるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは新しい契約は次元が異なるということです。

③律法は養育係で罪を自覚させる

12節に「わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」とあります。古い契約のもとにあっては、人は律法を守ることによって神との交わりを保つことをしていましたが、律法を守れないので、アロン系の大祭司が燔祭の生贄を捧げていたのです。しかし、それでは真の安らぎを与えられなかったのです。一方、新しい契約は一度のイエスの十字架上の死によって成り立っているので、人々に真の意味での赦しを与えることが出来るのです。ところで、何故、神は守ることができない律法をお与えになったのでしょうか。神はそのことを予知できなかったのでしょうか。勿論、違います。律法があたえられたのには意味があります。ガラテヤの信徒への手紙3章24節とローマへの信徒の手紙3章20節を開いて見ましょう。ガラテヤ 3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。ローマ3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。律法はキリストに導くための養育係で罪を自覚させるものに過ぎなかったのです。神が律法をお与えになったのは、初めから守ることができないことをご承知で、罪を自覚するため、養育係としてキリストに導くために与えになったのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは律法は養育係で罪を自覚させるものということです。神は旧約時代から人が律法を守れないことをご存じで、預言者を通して新しい契約について語っています。それが、引用されているエレミヤ書31章31-34節なのです。13節を見てみましょう。8:13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。「神は「新しいもの」と言われる」とあります。神がエレミヤを通して「新しい契約を結ぶ時が来る」と語られた時に、既に「最初の契約」を古い契約と宣言しているのです。「年を経て古びたもの」つまり旧約時代の律法は新しい契約の出現により置き換わるのです。キリストの血による新しい契約のみが、永遠に有効なのです。そして、キリストが新しい契約の仲保者なのです。この事については9章で詳しく学びます。

Today’s Take-away

➀神の一方的な愛の現れ、②新しい契約は次元が異なる、③律法は養育係で罪を自覚させるもの

Thinking Time

キリストの「意志」にどのように応えますか