• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022.1.30主日礼拝(説教要旨)

説教題:主は我が牧者、我乏しきことなし 聖書箇所:詩編23編 説教要旨:文責 伏見敏

詩編23編は、「詩編の真珠」と言われるほど素晴らしい内容である。そこには牧者に飼われる羊の幸いが書かれている。神に頼る人生のすばらしさは、牧者と羊の関係にある。弱く、頼りなく、迷いやすい羊が、厳しいパレスチナの荒野でどのように生きていけたのか。それは牧者による。弱者であるにもかかわらず、生きていくのに必要な一切のものが与えられ、思い煩うことなく、安全で平安な歩みができたのか。それは牧者による。羊は羊飼いに身を委ねることで全く平安に歩めた。羊飼いが先頭を行き、猛獣からも守ってくださる。それはこの詩の作者であるダビデ自身の経験である。ダビデ自身が羊飼いとしてライオンや熊と戦って羊を守った。サムエル記上 17:34 「しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。」羊に対する愛があるから。羊飼いが自分を愛してくださっているので、羊は安心して従っていけばよい。羊は牧者に従っていけば大丈夫なのだ。ダビデはこのことを知っていいた。羊の信頼は単純で絶対である。人生は荒野だ。人の知恵や能力は限りがあり、私たちの魂を平安にするには役に立たない。自分に頼る限り不安、絶望しかない。人生の歩みを決定するものは我々の置かれた境遇ではなく、信じている主によるのだ。主とは「有りて有る者」自ら満ちたれるお方、天地万物を所有していられるお方、力の力、知恵の知恵、愛と恵みと憐みのお方。このお方が人生の荒野で共にいて慰め励ましてくださる。「主は我が牧者、我乏しきことなし」これはダビデの人生のすべてであった。精神的にも、霊的にも、物質的にも豊かに満たしてくださるお方だ。しかし多くの人は物質的なものだけを求める。そこに真の平安はない。聖書は言う。マタイ6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

牧者である主は我々に何をして下さるのか。

①23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 

生命の供給、草と水を与えてくださる。人生の緑の野、牧草、いつも新鮮で真の命を供給してくださるのは聖書だ。聖書こそ人生の緑の野。聖書以外、真の命を人に供給するものはない。「伏させ」とは緑の野で休ませてくださる。すべてを忘れ聖書に没頭し、恵を味わい、命の糧を得る。

水、水の流れ、それは聖霊に導かれること。毎日新鮮な命の水を飲める。

23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

主の命を与え、魂を生き返られ活力を与え、主が先頭を行って御心にかなう正しい道に導いてくださる。品性、実生活が変えられる。その目的は「御名のため」神の御名の栄光のためである。クリスチャンの人生の目的は自分自身以上のこと。主の御名の栄光のためである。

③23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

主を牧者とする者はたとえ死の影の谷を行くときも恐れない。主は我らの手を固く握って死の暗黒から栄光のみ国へ、主のみもとへと導いてくださる。あなたの鞭と杖は神の言葉。人の言葉は真の支えにはならない。神の言葉こそ我々を支える。

④23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

ここは牧者と羊の関係でなく、ダビデが王としての経験から書いたもの。王が家臣の出兵を祝い、宴を用意し杯を溢れさせてくださるように、神に招かれあふれるもてなしを受けること。私たちの人生で福音の戦いに出る前に、主が豊かな宴を用意し杯を満ち溢れさせてくださる。世にある限り毎日が戦いであるが、毎日主のもてなしに預かり杯は満ち溢れ、生涯が祝福され、やがては永遠の都、平安な主の宮に住む者とさせていただける。約束を信じて、恵みの主に常により頼んでいこう。