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2023年4月23日主日礼拝

説教題:わたしに従ってきなさい 聖書箇所:ヨハネによる福音書1章43-51節

◆フィリポとナタナエル、弟子となる 1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

前回、2月は1章35-42節で、バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレともう一人の者がイエス様の弟子となり、アンデレは兄のシモンをイエス様に導いたこと。イエス様はシモンにケファ(岩)と言う名前を与えたところから、「何を求めているのか」と題し、三つのこと①忍耐強く主を証しし続ける ②どんな人も、主につながっているならば変えられ、主の栄光を表す者とされる ③何よりもまず主を求めよう とお話ししました。今朝の箇所は、その翌日のことです。

1:43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。イエス様はガリラヤに行こうとされたとき、フィリポに出会い「私に従いなさい」と言われました。1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言っているところから、フィリポも旧約聖書中が約束しているメシヤを待ち望んでいる人であったことがわかります。そこでフィリポはイエス様に出会い、この方こそ旧約聖書の預言された、国を復興してくれるメシヤなのだと信じたのです。1:44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。とありますので、フィリポはペトロやアンデレのことを知っていたのかもしれません。あるいは話ているうちに同じベトサイダ出身であることがわかり、そんなこともあり、同郷のよしみで心強く感じ信じることができたのかもしれませんが、もともと彼の中にメシヤを待ち望む思いが強かったのだと思います。新改訳改訂第3版ではこう言っています。1:43その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。新共同訳では、フィリポに出会って、と訳されているのでなんとなく偶然に出会ったように感じますが、新改訳では、ピリポを見つけてと訳されています。イエス様は神様ですから、人の心の思いもすべてご存知です。主はフィリポの心の思いを知っておられたので、あえて彼を見つけて「私に従ってきなさい」と声をかけられたのかもしれません。宣教活動を始められたイエス様は、「悔い改めよ、天の御国は近づいた」と福音を宣べ伝えることと、弟子を育てること、十字架にかかるまでの3年半の間、その二つのことを集中してされていました。ご自分に従ってくる者を探しておられたのです。主が一番願うことは一人でも多くの方が、主の十字架を信じ悔い改めて救われ、真の礼拝者となることです。私たちは罪許され、永遠の命をいただきました。霊と真をもって礼拝し、少しでも主のお役に立ちたいと願う思いがあるのではないでしょうか。賜物も、力も、愛も聖さも乏しい者ですが、主を愛し、従っていきたいと思います。今朝の一番目のポイントは主は、従う者たちを求めておられるということです。フィリポもアンデレと同じように救われてすぐに、伝道を始めました。救われた喜びを伝えたいのです。1:45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」彼はナタナエルに出会ってイエス様を伝えます。多分彼らは知り合いだったのでしょう。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」旧約聖書にはメシヤについての預言がたくさんあります。やがてメシヤが現れて、平和の王としてイスラエルを治めるという約束です。モーセも、他の預言者たちも記していました。フィリポもナタナエルもそのことを信じ待ち望んでいたのでしょう。彼らの会話は、そういった話題が多かったのだと思います。ですから、フィリポはナタナエルに出会って、すぐにこのことを伝えたのでしょう。しかしナタナエルの反応は否定的なものでした。1:46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。ナタナエルはナザレから14kmくらい離れたカナの出身でした(ヨハネ21:12)ので、ナザレのことはよく知っていたでしょう。あのような田舎の村からメシヤがでるはずがない、旧約聖書にもメシヤがナザレから生まれるなどとは書かれていない。ナタナエルは反論しました。ミカ 5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。預言者ミカは、イスラエルを治める者がベツレヘムから生まれると預言しました。神様はその通りに、ヨセフとマリヤが人口調査のために、ナザレから生まれ故郷のベツレヘムに戻っていた時にイエス様を出産させたのです。イエス様はその後ナザレに戻り成長しますが生まれたのは、ミカの預言通りベツレヘムです。しかしフィリポは議論するのではなく、直接イエス様のところに行きなさいと勧めたのです。議論はあまりよい結果を生みません。時に逆効果となり、大きなしこりを残すこともあります。それより、直接イエス様にお会いしてその人となり、人格に触れることを勧めました。私たちはフィリポから知恵を学びます。優れた人格に触れることは大きな感動を呼びます。イエス様が生きておられたこの時代は、直接イエス様のところに行き、その愛に満ちたご人格に触れることができましたが、今はできません。どうしたらよいのでしょうか。主は弟子たちにこのように語りました。ヨハネ13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」神様、イエス様は愛です。世の人々が一番飢え乾いているのはこの真の愛ではないでしょうか。私たちクリスチャンが神の愛に生かされ、互いに愛し合うこと、それによって、私たちがキリストの弟子であることを、世の人々は知るようになると言われました。今の時代、世の人々が主の人格に触れることができるのは、主に従う私たちクリスチャンが互いに愛し合い、キリストの愛のご人格を表すことにより、人々はキリストを知ることができるようになるのです。しかしそれは決して簡単ではないですね。私たちの生まれながらの肉の性質が人を裁いたり、ぶつかったりで愛し合うことを困難にします。サタンも邪魔をします。私たちが互いに愛し合うために、一人一人が神様と過ごす時間を十分に持つことです。心を注ぎだし、悔い改め、愛を求めましょう。こんな私が神に許され愛されたのだから、人を許し愛そうと思えるのです。私たちの人格が成長していくように求めましょう。「来て、見なさい。」未信者の方が教会に来られた時に、そこで主にお会いできるように祈りましょう。今朝の二番目のポイントは互いに愛し合うことが、キリストを証するということです。そのためにも神様を過ごす時間を持ちましょう。それは、クリスチャンの命綱です。1:47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」イエス様は、ご自分の方に来るナタナエルを見て「まことのイスラエルだ。この人に偽りはない。」と言われました。イエス様はナタナエルにお世辞を言ったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。人の心の内側をすべて見通される主が、ナタナエルを判断して言った言葉です。詩編 32:2 いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。とあります。これは昔からイスラエル民族の理想的な人物像だったそうです。なににも勝って二心のないことが本当のイスラエル人と言うことです。ナタナエルは、今初めて出会ったばかりなのに、どうして自分のことを知っているのか不思議に思い、尋ねます。1:48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。イチジクの木の下にいるとは祈りや瞑想の生活を表しているのだそうです。主はナタナエルに出会う前から彼の内面の生活をご存知で、いつも祈りに明け暮れている敬虔なイスラエル人であることを知っておられました。 1:49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」1:50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」自分の内面をすべてご存知の主の言葉を聞いて、ナタナエルは驚き恐れたのでしょう。そしてイエス様こそ、神の子、イスラエルの王ですと信仰の告白をしました。するとイエス様はもっと偉大なことを見ることになると言われました。 1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」51節の天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。と言う言葉を聞くと、思い出すシーンがあります。創世記 28:12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。を思い出させます。これがどのような状況の時であったか説明します。アブラハムの息子イサクには双子の息子がいました。兄のエサウと弟のヤコブです。父イサクは自分の死が近いことを悟り、長男のエサウを祝福しようとします。しかし母リベカは、弟ヤコブが祝福の継承者になることを神から教えられていたので(創世記25:22,23)、弟のヤコブが祝福を受けるように策略し、父イサクの祝福は弟ヤコブに奪われてしまいました。兄エサウは怒り、父の死後に弟ヤコブを殺そうとします。そのことを知った母リベカは、遠く離れた自分の故郷ハランにいる兄ラバンのところにヤコブを逃がします。ヤコブは全く知らない土地に一人で逃げていくわけです。どんなに心細く、不安と孤独を感じたことでしょう。その途中、ある場所に来た時、日が暮れて石を枕に横になり夢を見ます。その時の夢がこの12節です。天から長い階段が地上に向かって伸びており、天使たちがそこを上り下りしている夢でした。しかもそのあとの13節以降には創世記28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 28:16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」独りぼっちだと思っていたヤコブの隣に主は立ってこのように語られました。アブラハムに与えられた約束を思い出させます。この土地をあなたに与える。子孫は増え、地上のすべての氏族はあなたと子孫によって祝福される。あなたがどこに行ってもあなたを守り、この地に連れ帰る。決してあなたを見捨てないと神は語られたのです。ヤコブはどんなに慰められ励まされたことでしょう。28:16 ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」ヤコブはそれまでも神様を信じていたでしょうが、彼の信仰の目は更に開かれていきます。じっさいそれからヤコブには、12人の男子が与えられ、祝福と試練を繰り返していく中で彼の信仰は成長していきます。そして神様の約束通り、その子孫によってイスラエル民族は形成され、祝福の基となっていくのです。ヨハネ福音書に戻ります。1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」イエス様がナタナエルに言われたこの言葉は、その時のヤコブの夢を思い出させます。「人の子」とはイエス様ご自身のことです。天が開け、天使たちがイエス様の上に上り下りする。イエス様ご自身が、十字架にかかり復活されたことにより、天と地をつなぐ梯子となり、信じる者たちは父なる神と素晴らしい交わりを持つことができるようになり、豊かな恵みと祝福に与ることができるのです。これは「あなたがたは見ることになる。」とあるように、ナタナエルだけでなくすべての主を信じる者たちに語られているのです。尾山令仁先生はこのように語っています。「この体験は、クリスチャンに与えられている特権です。私たちがキリストによるこの素晴らしい父なる神との交わりを体験するなら、たとい孤独であろうとも、健康が勝れないような場合でも、迫害や苦難の中にあっても、またいばらの道、石を枕としているような時でも、そこに驚くべき力を与えられます。神のご臨在(神様が共にいてくださること)を体験できるからです。イエス・キリストこそ父なる神と私たちを結び付けてくださる懸け橋にほかなりません。」今朝の三番目のポイントはキリストこそ、父なる神と私たちを結ぶ懸け橋ということです。せっかくイエス様が、十字架により人間の罪を取り除き、神様と交われるように懸け橋となってくださったのですから、その橋を通って日々父なる神様のところに行き、礼拝し、深く交わり、臨在の豊かな恵みを体験させて頂きましょう。ヘブル 4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。とあります。嬉しいときも、つらいときも、どんな時も、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。ここで日々、神の臨在の中に生き恵みの人生を歩まれた方の証をします。1635年、30年戦争で足が不自由になったニコラは修道院に入り、ブラザー・ローレンスと言う名前をもらい、台所仕事につきます。最初の10年間くらいは、身体的障害と自己嫌悪、罪悪感などからとてもつらい時期が続いていました。しかし深い悔い改めに導かれ、それからはどんな小さなことでも神様への愛をもって喜んで行うようになりました。台所仕事をしながら神様への愛のゆえにオムレツを裏返します。何もすることがないときは、床に伏して神様を礼拝し感謝します。「神様は台所にもおられるのです」彼はよくこう言っていたそうです。やがて彼の心の内側から輝く光は、周囲の人々に多くの影響を与え続けました。ブラザー・ローレンスの死後、彼の信仰に感銘を受けた修道院長のヨセフ・ド・ボーフォールが、ローレンスの談話と手紙を集めて本にしました。その題名は「神の臨在の実践」でした。その中で次のように述べています。「ブラザー・ローレンスにとっては、いかなる場所も、どんな務めも、すべては同じでした。この良きブラザーはどこにでも神を見つけました。靴を修理している時も、修道院で祈っている時も同じように。」「この良きブラザーは、決して変化することのない信仰の道に堅く立っていて、決して変わりませんでした。それは、彼が求めていたものは、神が自分を置いてくださった場所で、ただ自分の務めを果たすことだけだったからです。」(摂理館出版 キリスト教人物伝 ブラザー・ローレンスより)私たちも、ブラザー・ローレンスのように、イエス様が開いてくださった橋を通って、御前に行き、神様の臨在を体験していきたいです。

今日のポイント

①主は、従う者たちを求めておられる、②互いに愛し合うことが、キリストを証する、③キリストこそ、父なる神と私たちを結ぶ懸け橋

考えてみよう

イエス様に、従っていきたいですか。