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2023年1月8日主日礼拝

説教題:試練を喜ぼう! 聖書箇所:ヤコブの手紙1章1-8節(新共同訳新約421p )

挨拶1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。信仰と知恵1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

ハレルヤ! 1月の二主日を迎えています。今日からヤコブの手紙を講解で学びます。マルティン・ルターはこの手紙を「藁の書簡」、「藁の手紙」と酷評しました。信仰義認を否定するようにもとれることが記されているので、藁のごとく役に立たない書と断罪し、新約聖書からこの書簡を削除しようとさえしたのです。この手紙は果たして本当に信仰義認を否定しているのでしょうか。そのことも含め学んで参りたいと思います。ヤコブの手紙は教理的、神学的な内容ではなく、建徳的な説教と言えます。16世紀に活躍をしたイングランドのバプテスト教会の牧師ジョン・スミス(John Smyth、1570年頃 – 1612年8月28日)は、ある教会で礼拝での説教を依頼されました。説教題を尋ねられたときにスミスは「ヤコブの手紙」と答えました。会衆はヤコブの手紙についての話だと思っていましたが、スミスはただヤコブの手紙の全体を力強く暗唱しただけだったのです。しかし、そこには聖霊が力強く働き、全会衆は心砕かれ涙と共に悔い改めて、それがリバイバルの導火線となったそうです。(沢村五郎「聖書人物伝」)今日は1章1-11節を通し、「試練を喜ぼう!」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①試練を喜ぶ

1節から順番に見てまいりましょう。  1:1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。1節からこの手紙の著者の「ヤコブ」と宛先である「離散している十二部族の人たち」がわかります。著者は「ヤコブ」です。聖書には7名のヤコブが記されています。旧約の時代から「ヤコブ」という名前はいたって普通の名前でした。旧約聖書ではイサクの息子のヤコブ(後のイスラエル)です。新約聖書にはヤコブという名の人物が6名ほど描かれています。マリアの夫ヨセフの父のヤコブ、つまり主イエスの肉体上の祖父(マタイ1:15,16)、ゼベダイの子ヤコブ(マルコ1:19)、アルパヨの子ヤコブ(マルコ3:18)、主の兄弟ヤコブ(マルコ6:3)、小ヤコブ(マルコ15:40)、使徒ユダの父ヤコブ(ルカ6:16)です。いろいろな角度から検証をするとこの手紙の著者は主の兄弟のヤコブであるという説が有力ですが、これら6名のヤコブ以外の未知のヤコブ、第六のヤコブが記したという説もあります。著者の断定はできませんが、「神と主イエス・キリストの僕」とあるように、イエス・キリストと神を同列し、自信をその僕と呼んでいます。僕ですので自分や他人の意見に従わずに、ただただ「神と主イエス・キリスト」に従うものであることを冒頭に宣言しているのです。著者が特定できないので執筆年代も諸説ありますが、AD80~100年頃という説が有力です。「イエス・キリスト」とあります。少し意外かもしれませんが、この手紙で「イエス・キリスト」と使われているのは1章1節と2章1節の二か所だけです。受取人は「離散している十二部族の人たち」です。離散しているとあるように、元々は捕囚後に世界各国に散らされたユダヤ人です。離散したユダヤ人、ディアスポラのイスラエルとも言います。しかし、この手紙の受取人は厳密に言えば世界各国に散らされたユダヤ人のキリスト者です。ユダヤ人は先ず、BC722年頃、アッシリアに連れていかれ、次にBC586年頃にバビロニアに連れていかれ、そして、BC63年にローマに奴隷として連れていかれましたが、力強く生き残り増え続けたのです。これらのユダヤ人がキリストと出会い改宗しキリスト者となったのです。気を付けて頂きたいことはユダヤ主義のキリスト者ではありません。ガラテヤの信徒への手紙の講解説教で学びましたが、ユダヤ主義のキリスト者とは割礼派の人です。「十字架に加え割礼を受けなければ救われない」と信じ主張していた人の群れです。2-4節で信仰、試練、忍耐と喜びの関係が語られています。2節を見てみましょう。1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。挨拶に続いて「わたしの兄弟たち」とあります。同じキリスト者に対する深い兄弟愛の呼びかけで、主題を改めたり特に重要な内容を知らせたりする場合に使っています。本書中に8回も用いられています。「いろいろな試練」とあります。この手紙の受取人が、様々な試練を経験していたことがわかります。著者はそれらを「この上ない喜びと思いなさい。」と語るのです。「この上ない」と訳されている語は「全てみな」という意味です。ですから、試練の中にあって喜ぶということ以上に試練そのものを喜ぶという意味なのです。宗教改革の一人者であるカルバンは「いろいろな試練」について次のように述べています。「私たちの罪や不信仰は、一つの治療法のみでは癒されないから、神は数々の試練を用いられる」と。詩編139編17,18節を見てみましょう。139:17 あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。 139:18 数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。神の計らいは数えようとしても、数え切れないし、数え尽くしたと思っていても、それ以上に与えられるものなのです。色々な試練に耐え抜いた後にはいろいろな恵みに預かるのです。様々な祝福が待っているのです。今日、先ず覚えて頂きことは試練を喜ぶということです。3,4節を見てみましょう。1:3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。信仰者、キリスト者も例外なく試練によってその信仰を試されます。その試練が強ければ強いほど、益々信仰に固く立たなければならないのです。そのことによって忍耐が生まれるからです。忍耐とはじっと耐えて我慢しているという消極的なことではなく、栄光に満ちたものに変える積極的な能力なのです。4節の後半に「そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」とあるように、著者は恵みによって救われたキリスト者の成熟を願いこの手紙を記したのです。この手紙を理解する上でのキーワードは「キリスト者の成熟」です。使徒パウロも苦難がやがて希望になることを語りました。ローマの信徒への手紙5章,4節を見てみましょう。 5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。銀細工の職人は作業中、るつぼの中を入念に覗きこみます。その理由は、銀の中に自分自身の顔が写るようになるとその作業が終了する印だからです。不純なものが取り除かれ銀が完全なものになるためです。日本イエス・キリスト教団の初代委員長の小島伊助先生は信仰と試練と忍耐について次のように示しました。信仰×試練=信仰-かす+忍耐=全備して無欠のキリスト者。神はご自身が愛するキリスト者が試練を通して、霊的に成長することを望まれお喜びになるのです。もし、今受けている試練が大きいと感じるのであれば、神様の期待がそれだけ大きいものと言えます。霊的な成長のためには苦難がなくて、それゆえ忍耐の経験もないということはないのです。最近、読んだ本の中にある方のとても素晴らしい証が掲載されていますのでご紹介致します。「神は私をとぐために、しょっちゅう砥石を持って来られます。神は私の切れ味が悪くなると、時々、金剛砥石でとがれることがあります。その時は、火花ではなく涙がでます。しかし、そんな時、私は『神様有難うございました。わかりました』と言うのです。」試練は神が信仰者を鍛錬し成長させるためのものなのです。ですから、試練は創造的御業と言えます。

②知恵は神から与えられる

5節を見てみましょう。1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。「知恵」とあります。1-4節までに試練、忍耐等の意義と目的が記されていました。これらに処する道が知恵なのです。一般的に知恵と言えば生まれながらのもの。あるいは育てられる途中で身につく知的な才能や能力のことだと思います。広義で解釈をすれば判断力、分別、人生訓、処世術なども知恵に含まれるでしょう。しかし、この箇所で著者が語る知恵とは神から頂けるものなのです。求めてくるものに神が賜物として与えてくださる知恵なのです。そして、この知恵なくして試練に耐えることは出来ません。ですから、この知恵に「欠けている人がいれば、だれにでもとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と語るのです。ダビデの息子のソロモンが王に即位するときに祈った祈りと主からの応答が列王記上3:9-12に記されていますので、見てみましょう。列王上 3:9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」 3:10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。 3:11 神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。 3:12 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。神が与えてくださる知恵とは様々の状況において正しく対処することが出来る知恵なのです。それを神はソロモンに与えられたのです。知恵は神からの賜物です。しかも、神はこれらの願いを寛大に人に与えてくださるのです。ですから、必ず必要な知恵が与えられるという信仰に立とうではありませんか。人間の心をもって神の心を計るなどといったことは出来ないのです。5節の中ほどに「惜しみなく」とありますが、寛大、無条件、広く、深く、幅のある意味です。続いて、「とがめだてしない」とあります。私たちはしばしば神の御心に従わないことがあります。それは神を悲しませることですが、それにもかかわらず神は私たちを叱責しないということです。「そうすれば、与えられます。」とありますが、主イエスが山上の垂訓で語られた通りです。マタイによる福音書 7章7-8節を見てみましょう。7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。色々な問題があります。それらに対処できる知恵が与えられるように祈りましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことは知恵は神から与えられるということです。この知恵についてはこの手紙の3章18節以降で詳述されていますので、後日に学びます。

③信仰を持って願う

6-8節を見てみましょう。1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。5節に「願いなさい。」とありましたが、その具体的な方法が6節に記されています。「信仰をもって願」うのです。信仰とは神に対する絶対的な信頼です。ですから信仰を持って願い事を求めなければ、どんなに求めても無益です。祈りさえすれば赦されるとか、求めさえすれば与えられるといった安易な信仰ではなく、神への絶対的な信頼が求められるのです。6節の前半に「疑う」とありますが、元々の言語の意味は「二分する」という意味です。時には信仰を持って祈り、時には信仰がなく祈るという祈り方ではだめなのです。著者は、常に神に絶対的な信頼をおけない者を「風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と厳しく戒めるのです。6節の後半に「風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。」とあります。海の波とはあてどなく、休むことなく上下左右に揺れ動くもので、不安定さを象徴するものとして記されています。8節、新共同訳では「心が定まらず」と訳されていますが、口語訳と新改訳では「二心」と訳されています。信仰とは絶対でなければなりません。従ってその徹底さが求められます。徹底と二心はまさに正反対です。二心のキリスト者はその行動に安定がなく無節操でもあります。しかし、真のリスト者とはその信仰において常に徹底さがある者なのです。疑いつつ祈る者へ神は何もお与えにならないと著者は厳しく言うのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは信仰を持って願うということです。

Today’s Take-away

①試練を喜ぶ、②知恵は神から与えられる、③信仰を持って願う

Thinking Time 二心になってはいませんか