• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年1月1日主日礼拝  

説教題:主は待っておられる~悔い改めたものへの祝福~ 聖書箇所:イザヤ書30章18-26節

◆救いのとき30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。30:19 まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ/もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。30:20 わが主はあなたたちに/災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方は/もはや隠れておられることなく/あなたの目は常に/あなたを導かれる方を見る。30:21 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。30:22 そのとき、あなたは銀で覆った像と/金をはり付けた像を汚し/それを汚れたもののようにまき散らし/「消えうせよ」と言う。30:23 主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。地の産み出す穀物は豊かに実る。その日には/あなたの家畜は広い牧場で草をはみ30:24 地を耕す牛やろばは/ふるいや箕でえり分け/発酵させた飼葉を食べる。30:25 大いなる殺戮の日、塔の倒れるとき/そびえ立つすべての山、高い丘の上に/水路が造られて、水を運ぶ。30:26 主が民の傷を包み/重い打ち傷をいやされる日/月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる。

ハレルヤ!新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。1月の一主日を迎え、2023年の最初の礼拝、今年は元旦礼拝となります。昨年はコロナの6波から始まり、二月にはロシアによるウクライナへの侵略、その他の凶悪な事件、事故など多くの悲しいことがありましたが、悲しみは悲しみで終わることはありません。希望の光である主イエスがおられるからです。今日はイザヤ書30章18-26節から「主は待っておられる~悔い改めたものへの祝福~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。先ず、今日の箇所の背景からお話をします。時は紀元前705年頃、世界を制していたのは新興勢力である大国アッシリアです。このアッシリアと古い大国のエジプトに挟まれた猫の額ほどの小国がユダで、著者のイザヤはユダの預言者です。イザヤ書の28-33章には、ユダの人々に対する神の警告が記されています。ユダはアッシリアに対抗するためにエジプトと手を結びます。神の民が神から離れ世的な力に傾いて行ったのです。しかし、神はご自分の民がご自身のもとへ戻って来ることを待っておられました。神は、イスラエルとの契約を忘れず、その不信仰を懲らしめつつ、なお、民の悔い改めを待つのです。そして、悔い改めた民、ご自分のところに立ち返ってくる者たちを大いに祝福しようというのが今日の聖書箇所です。今日の聖書個所について私たちが所属する日本ホーリネス教団の元委員長で、東京聖書学院教会 名誉牧師の小林和夫先は次のように述べています。「審判のただ中で、厳しい警告のただ中で、神の民を祝福される神の御心ががれきの中のダイヤのように輝いているのが、この30章18-26節のところです」と。

①主を待ち望む

では、18節から順番に見てまいりましょう。30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。「それゆえ」とありますが、「悔い改めて神に立ち返るならば」という意味です。神の民が世的な力から神を信頼する本来の姿に帰ってくることを神はお待ちなのです。「主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。」とありますが、原語では「恵もうとして待っていてくださる、立ち上がって手を広げて待っていてくださる神」です。日本人の神観は、悪いことをすると罰が当たるとか、たたりがあるといったものですから、神に甘えるという考えはないと思います。しかし。キリスト者が信じる真の神とはこのようなお方なのです。ですから、「もっと立派になってから教会に行く、何かをやめたから洗礼を受ける」といった考えは誤りです。神は「恵もうとして待っていてくださる、立ち上がって手を広げて待っていてくださる」のです。何と幸いなことではありませんか。ルカによる福音書の15章には神が待っていてくださることの例え話があります。放蕩息子たとえで話ですが、聖書の中で一番有名なたとえだと思います。要約をしますと。ある人に二人の息子がいましたが、弟は親が健在なうちに財産の分け前を請求しました。生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りをつくして財産を使い果したのです。やがて、大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れたものとして忌み嫌っている豚の世話の仕事をしつつ、豚の餌さえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんでいました。そこで、我に帰り、帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。15章の18,19節です。15:18「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。ところが、父親は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。この箇所のポイントは二つです。先ず、父から離れた放蕩息子(罪びと)の悔い改めです。そして、父親、つまり父なる神の愛です。ある聖書学者はこのたとえをこれは「放蕩息子のたとえ」ではなく「慈愛深い父の話」と呼ぶべきだと言います。その理由は、息子の罪よりも、父の愛のほうが中心として記されているからです。父親は一日千秋の思いで息子が戻るのを待ち続けていたのです。ですから、直ぐに愛する息子に気が付くことが出来たのです。このような慈悲深い神に対し、私たちが馬耳東風で良いはずがありません。この恵に預かる者はどうすべきなのでしょうか。それが、「主を待ち望む」ことなのです。私たちの人生には嵐、苦難があります。始まりました2023年もいろいろなことがおこるしょう。しかし、どんな時にでも主を待ち望む」ことが大切なのです。詩篇62篇1,5節を口語訳聖書で見てみましょう。62:1 わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。 62:5 わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。ですから、私たちが神の恩寵に預かるためには神を待ち望むことなのです。神に期待しない人は神の祝福に預かることができるはずがありません。始まりました2023年、先ず覚え頂きたいことは主を待ち望むということです。

②主は答えてくださる

19-21節を見てみましょう。30:19 まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ/もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。30:20 わが主はあなたたちに/災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方は/もはや隠れておられることなく/あなたの目は常に/あなたを導かれる方を見る。30:21 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。20節に「主はあなたたちに/災いのパンと苦しみの水を与えられた。」とありますが、これは悔い改める前の民に懲らしめを与えたことです。19節に「直ちに答えてくださる。」、21節に「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。」あります。神は悔い改めたユダの民に御心を示されたのです。今日においても主なる神はハッキリと御心をお示しになることがあります。ホーリネス教団の牧師ではありませんが、私の親友のS牧師が献身する前に経験された御業をご紹介したいと思います。一度二年前にご夫妻で八街にも来てくださいました。Sさんは大学卒業後、大手商社で働いていました。ながらく上海に駐在し、最後の何年間は取引先に出向していたのですが、出向の期限が迫ったSさんには二つの選択肢がありました。出向元の商社に戻るか、出向元を退職し出向先に転籍をするかです。Sさんは頭脳明晰、中国語はネィティブ並み、また、学生時代には合気道で日本一になった文武両道の人物です。出向先からは熱烈に転籍をオファーされていましたが、3名の学生のお嬢さんもおり、簡単には判断ができない状況でした。そんなある日、日本に行く機会が与えられ、御心を求めるため聖書を持ち大好きなサウナに行きました。長い時間、祈りました。するとSさんの耳にハッキリと聞こえたものがありました。。。蛍の光でした。サウナの営業終了を告げるものです。Sさんは、「主よ何んで御心を示してくださらないのですか。私の祈りを聞いてくださらないのですか」と心の中で叫びました。帰宅するため、ロッカーで着替えようとしていた時のことです。「Sさんではありませんか。」と声をかけられたのですが、その方の顔をみるとなんと、熱心に入社をオファーしている出向先の社長さんだったのです。こんなことがおこるでしょうか。宝くじの一等にあたる確率は2千万分の一と言われています。また、二人の男女が出会う確率は72億分の一と聞いたことがありますが、私には転職を考えているある人と、それを大歓迎している会社の社長がサウナで出会う確率を計算をすることは出来ません。そもそもこんなことが起こりえるのでしょうか。でもこれが御業です。私たちにとって奇跡と思えることも神には奇跡ではありません。神に奇跡はありません。神はハッキリと御心をお示しになることがあります。Sさんにとってこれ以上に明確な御心はないでしょう。転職しその後、約10年間その会社で祝福された生活を送り、献身し3年前から牧師をしています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主は答えてくださるということです。2023年、個人においても教会としても重大な判断をしなければならないことがあると思います。明確な御心を示して頂きましょう。そのために祈り続けましょう。

③偶像を取り除く

 22節を見てみましょう。30:22 そのとき、あなたは銀で覆った像と/金をはり付けた像を汚し/それを汚れたもののようにまき散らし/「消えうせよ」と言う。22節は偶像について記されています。イスラエルの民族を一番悩ませ、預言者たちを一番苦しめたのは偶像の問題なのです。旧約聖書にはいかに人間が偶像を生み出し続けていたことが記されています。出エジプト記32章では、モーセがシナイ山に行って十戒の板を神様から貰いに行った時、イスラエルの民が、モーセの兄のアロンに頼み、民の持っている金を集めて、若い雄牛の像を造り拝んでしまったことが書かれています。イスラエルの民は、たびたび偶像を作ってしまいます。そして、偶像を神として拝むということをします。どんな時に、そのようなことをするかと言えば、それは、民が恐れや、不安、苦しみの中にある時です。出エジプト記では、指導者のモーセがいなくなって、帰ってくるのを待ちきれず、不安になり、自分たちで偶像を作ってしまい拝んでしまったのです。聖書、特に列王記や歴代誌は偶像崇拝のオンパレードと言っても過言ではありませんし、預言書もそうです。イザヤ2章8節には「この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す。」と当時のイスラエルの状況を描いています。偶像は、人の手の業、指で造ったものです。開きませんが、イザヤ書46章には自分の手で造った、像を拝んで、ひれ伏していたということが記されています。後ほど、読まれてください。このように人類の歴史は偶像崇拝の歴史とも言え、カルヴァンは「人間の心は、まさしく偶像を作り出す工場である」と言いました。私たちはどうでしょうか。同じようなことをしてしまっていませんか。自らの手で偶像を作るようなことをしてはいないでしょうか。病気、不遇、人間関係や家族関係といった問題に出会うときに、本当に苦しくなります。その時に、身近にあるものを、偶像に仕立て上げ、それに逃げてしまってはいないでしょうか。偶像礼拝は悪魔の試みです。ですから、「悪魔よ去れ!」と主イエスの御名で大胆に命じようではありません。今日、三番目に覚えて頂きたいことは悔い改めには偶像を取り除くことが伴うということです。注意していただきたいことがあります。偶像とは形のあるものに限りません。名誉がそうです。神より大事にしてしまうものがあればそれは偶像なのです。英語で偶像をフォールス ゴッズ(偽の神々)と訳されている場合もありますし、アイドルと訳されている場合があります。真の神は唯一ですが、偶像はたくさんありますので、文脈により複数形にもあります。アイドル歌手のアイドルです。クリスチャン家庭で生まれ育ったある牧師は献身前に女性アイドルグループがまさに彼にとっての偶像だったという証を聞いたことがあります。

④世界観が変えられる

23-26節は主を待ち望む者、偶像を取り除く者への祝福が記されています。23,24節を見てみましょう。30:23 主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。地の産み出す穀物は豊かに実る。その日には/あなたの家畜は広い牧場で草をはみ30:24 地を耕す牛やろばは/ふるいや箕でえり分け/発酵させた飼葉を食べる。雨や農作物のために偶像に頼ってはなりせん。主なる神が与えてくださるからです。神を第一として歩む者には物質的な祝福も神はしてくださるのです。神の祝福は物質にも及ぶのです。ですから、物質を第一とする。偶像としてしまったら大きな落とし穴なのです。25,26節を見てみましょう。30:25 大いなる殺戮の日、塔の倒れるとき/そびえ立つすべての山、高い丘の上に/水路が造られて、水を運ぶ。30:26 主が民の傷を包み/重い打ち傷をいやされる日/月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる。25,26節は解釈が難しいところがありいくつかの解釈があるのですが、「大いなる殺戮の日、塔の倒れるとき」は敵軍アッシリアの滅亡のことだと思われます。紀元前612年に新バビロニアやメディア王国の攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落し、巨大帝国アッシリアは滅んでしまいました。「主が民の傷を包み/重い打ち傷をいやされる」とあります。心の傷も肉体の傷も神はいやしてくださるのです。主なる神は最高の名医、癒し主なのです。月の光は太陽の光になり/太陽の光は七倍になり/七つの日の光となる。」とありますが、これは神を第一にする人はその世界観が変わるという意味に解釈ができます。月の光は太陽の光のようになり、太陽の光は7倍の明るさをもつかのように世界観が変わるのです。聖霊さまが世界観を作り変えてくださるのです。主イエスと出会う前の私たちは真っ暗闇の中にいました。イエスキリストによる十字架と復活は暗闇を打ち破り、イエスを救い主と信じるものの世界観をも変えてくださるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは世界観が変えられるということです。キリスト者を迫害していたパウロがそうでした。ダマスコの途上で主イエスから声をかけられ、その語の人生は180度変わり、主の働き、宣教に励み使徒という称号も与えられたのです。世界観をも変えてくださるとはなんという恵でしょうか。

Today’s Take-away

①主を待ち望む、②主は答えてくださる、③偶像を取り除く、④世界観が変えられる

Thinking Time

気が付いていない偶像はありませんか。