• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年1月15日主日礼拝

説教題:最高の賜物~誰に頼っていますか~ 聖書箇所:ヤコブの手紙1章9-18節

貧しい者と富んでいる者1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。1:11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。試練と誘惑1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

ハレルヤ! 1月の第三主日を迎えています。先週からヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は二回目となります。前回のおさらいから始めましょう。1章1-11節を通し、「試練を喜ぼう!」題し三つ事を中心にお話をしました。①試練を喜ぶ、②知恵は神から与えられる、③信仰を持って願うでした。今日は続く1章9節-18節から「最高の賜物~誰に頼っていますか~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①より頼むべきお方は主イエスのみ

9節を見てみましょう。1:9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。9節は貧しい兄弟への忠告です。「貧しい」とありますが、色々な状態が考えられます。お金や財産などの物質的なものありますし、社会的な身分の低さ、知的なことも考えられます。感受性や想像力に欠けるといったことも貧しさに含まれるでしょう。続いて、「自分が高められることを誇りに思いなさい。」とありますが、様々な貧しさを抱えている者は、それゆえ自分の弱さを知ることが出来ます。自分自身の中に何も頼るべきものがないことを知り、他の絶対的なものに頼ろうとします。これが主イエス・キリストを受け入れる戸口となるのです。自分の貧しさとは神を締め出す働きではなく、神が宿る場所となるのです。それを著者は「自分が高められること」と語ります。キリスト者は神の子とされ、永遠の命が与えられることであり、貧しさゆえに高められることを「誇りに思いなさい。」と語るのです。10節を見てみましょう。1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。10節は富んでいる兄弟への忠告です。「富んでいる」とは、社会的地位、経済的なことなど様々な環境に恵まれていることを意味します。富ゆえに自分が中心となったり謙遜さがなくなったりしてしまうことがあります。10節をわかりやすく訳されているアライブ訳聖書で見てみましょう。1:10また、裕福なイエスの信者クリスチャンは、神様がプライドを取り除いてくれることを喜べ!その栄華は、花のように、生涯とともにはかなくちる。(アライブ訳)後半に、「その栄華は、花のように、生涯とともにはかなくちる。」とありますが、この世の富は永続をするものではありません。詩編49編17-18節には次のように記されています。 49:17 人に富が増し、その家に名誉が加わるときも/あなたは恐れることはない。 49:18 死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。10節に戻り、「低くされること」とありますが、主イエスがご自分を低くしたことはフィリピの信徒への手紙2章8節に記されています。私はこの箇所を究極の遜りと思っています。見てみましょう。2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。つまり、著者が語る「低くされること」とはキリスト者が主イエスに倣った歩みをするということなのです。そのこと「誇りに思いなさい」と言うのです。11節を見てみましょう。1:11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。11節はイザヤ書40章7節を念頭に置いて記したものと思われます。40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。パレスチナ地方には特有の乾燥した熱波があり、美しさを誇る草木も太陽に照らされた熱風によりたちどこに枯れてしまいます。まことにその美しさは一時的であり、むなしくもあります。この世の富もそれと同じなのです。9-11節を通して著者が伝えたいことは貧しい境遇にある兄弟も富んでいる境遇にある兄弟のどちらもより頼むべきお方は主イエスのみということを伝えているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはより頼むべきお方は主イエスのみということです。

②日々、悪から守られるように祈る

12,13節を見てみましょう。1:12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。1:13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。「試練、誘惑」とあります。私たちの教会では毎週、主の祈りを唱和しています。「我らを試みに遭わせず」とあります。この祈りは主イエスが弟子に教えたもので、マタイによる福音書6章6-13、並行箇所ルカによる福音書11章2-4に記されています。マタイ6:13を口語訳、新共同訳で見てみましぃう。6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』新共同訳では試みが誘惑にかわっています。今日の箇所の12,13節に試練、誘惑とありますが、試み、試練、誘惑とも原語ギリシャ語では「ペイラモス」と言います。日本語の聖書では文脈によって訳を決めていますが、その基準となるのはこの手紙の1章13節の御言葉です。誘惑とは神ではなく悪魔の所業です。信仰者をキリストから引き離すためのもの、堕落させるためのものです。一方、試練とは先週、学んだ通り、神がご自身の子どもである信仰者を鍛錬し成長させるためのものなのです。試練は神の御業の一つなのです。試みとは試すことですので文脈によって誘惑、試練の両方の意味でも使えます。主イエスご自身も荒野で悪魔から誘惑、試みを受けたことが共観福音書(マルコによる福音書1章12,13節、マタイによる福音書4章1-11節、ルカによる福音書4章1-13節)に記されています。開きませんが、後ほどお読みください。12節の後半に「神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」とあります。「命の冠」という言葉は黙示録2章10節でも使われています。開いてみましょう。 2:10 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。冠は勝利者、王権、名誉、尊厳の印です。ですから、「命の冠」とは真の命、新しい命とも言えます。これが与えられるということは神から完全に救いが保証されるということです。ヤコブ書の著者は御心にかなった仕方で試練や困難に直面するキリスト者にはこの世でも御国においても喜びがあるのと語るのです。14-16節を見てみましょう。1:14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 1:15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。14,15節には罪の根源が記されています。「欲望」、「誘惑」、「罪」、「死」と連鎖的にあります。聖書は罪を単一の行為としてみてはいません。「誘惑」の源が「欲望」であり、「欲望」の増長、助長した結果が「罪」です。さらに「罪」「死」となるのです。ちょうど魚が餌に惹かれて安全な場所から出て、針で釣られ死に至るのと同じです。誘惑のない人生はありませんし、欲望を何一つ持たない人もいません。全ての人間に神の愛が注がれているのと同時に、悪の勢力からも常に堕落させようという試みがあるのです。第二次世界大戦後、ドイツの神学者のティーリケは誘惑に陥るときの恐ろしさを次のように指摘しています。「われわれが神なしで何事かをやっていこうという誘惑に屈するとき、初めのうちは非常に成功することがある」と。ここに誘惑の恐ろしさがあるのです。自分の中にある欲望が悪魔によってそそのかされて、神に背を向けた生き方をし始め、その中に新しい喜びを見出します。はじめのうちはすべてが順風満帆、順調に思います。有頂天になり、我を忘れてしまいます。まんまと悪魔の手口にだまされているのですが、気が付いたときは完全に罪の深みに陥ってしまった時なのです。ですから、「欲望」、「誘惑」、「罪」、「死」という負の連鎖を早くどこかで断ち切ることが求められます。誘惑自体は罪ではありませんが、それに陥ってしまうことが罪なのです。私たちはそうならないように悪の勢力と闘わなければならないのです。主イエスは次のように祈られました。ヨハネによる福音書17章15節を見てみましょう。17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。主イエスは神に弟子たちを誘惑,悪しきものから守って下さいと祈られました。ですから、私たちも日々の祈りを通して悪から守って頂く必要があるのです。このことからも、主イエスが弟子に教えられた主の祈りとは本当に素晴らしい祈りであることわかると思います。今日、二番目に覚えて頂きたいことは日々、悪から守られるように祈るということです。ところで、15節を原語で見ると興味深いことがわかります。「罪を生み」「死を生み」と訳されている「生む」という動詞は異なります。「罪を生み」の生むという動詞は人間の子どもが生まれる場合に使いますが、「死を生み」の生むは動物が子を産むときに使う動詞です。罪に生きる人間は、人間以下のものとなり、動物の水準まで低下してしまうことを著者は暗に述べているのです。16節に「わたしの愛する兄弟たち」とあります。1章2節では「わたしの兄弟たち」でした。16節では「愛する」が加えられています。同じキリスト者に対する深い兄弟愛の呼びかけで、語調を改めて、今まで述べてきた内容に関して、決定的な点を強調するのです。それは、「思い違いをしてはいけません。」とあるように、誘惑が神からくるという間違った考えに釘を刺しているのです。神の試練と悪魔の誘惑を混同してはならないのです。

③最高の賜物は主イエス

17節を見てみましょう。1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。人間の欲が罪と死を生みますが、神の御旨はキリスト者という新生命を生むのです。神は真理の御言葉によってキリスト者を生み出してくださるのです。前節までの誘惑に陥らないように注意を与えつつ、良い贈り物、完全な賜物」は悪魔の誘惑に対してはるかに勝る良さと完全さを持っていることを強調しています。「良い贈り物、完全な賜物」「光の源である御父」、つまり天地万物の創造者なる神からあたえられるのですが、神から与えられる賜物は完全です。たとえそれが試練であっても、その終わりは成熟したキリスト者という人格的完成であり、命の冠りを受けるのです。そして、完全な賜物中の賜物、最高の賜物は、主イエス・キリストです。イザヤ書9章5節abを見てみましょう。 9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。③今日、最後に覚えて頂きたいことは最高の賜物は主イエスということです。そして、最高の賜物が既に与えられているのです。後半に「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」とありますが、著者は神の不変性を説いています。神は変化せず変化されないお方です。ですからその神がお与えになる贈り物と賜物の約束は真実であることを述べているのです。18節を見てみましょう。1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。18節には私たちを新たに生み出してくださる新生命について記されています。この新生命は「御心のままに」与えられたものであり、救いの恵です。後半に「初穂」とあります。キリスト者のことを初穂といったり、家族で一番初めにキリスト者になった方を初穂といったりもしますが、元々は動物の初子、穀物の初穂などを意味します。旧約時代、ユダヤの民は初穂を神聖なものとして神に捧げる習慣がありました。神はキリスト者をこの初穂とするために「真理の言葉」すなわち神の言を通し、聖霊によって新しく誕生させたのです。キリスト者とは神に選ばれ、聖別され、神に喜ばれる存在として新しく誕生したものなのです。私たちは生まれつきのままであれば誘惑に打ち勝つことは不可能ですが、新しく生まれ変わり神の子となったときにそれが可能になるのです。最後に、エフェソの信徒への手紙2章10節を見てみましょう。2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。私たちは誘惑に陥るのではなく「善い業」をおこなうために初穂とされているのです。

Today’s Take-away

①より頼むべきお方は主イエスのみ、②日々、悪から守られるように祈る、③最高の賜物は主イエス

Thinking Time

鼻で息をするものに頼っていませんか

(イザヤ書2章22節)