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2023年1月22日主日礼拝

説教題:御言葉を心に留め実行しよう! 聖書箇所:ヤコブの手紙1章19-27節

神の言葉を聞いて実践する

1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。 1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

ハレルヤ! 1月の第四主日を迎えています。先々週からヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は三回目となります。前回のおさらいから始めましょう。1章9-18節を通し、「最高の賜物が与えられている~誰に頼っていますか~」題し三つ事を中心にお話をしました。①より頼むべきお方は主イエスのみ、②日々、悪から守られるように祈る、③最高の賜物は主イエスでした。今日は続く1章19-27節から「御言葉を心に留め実行しよう!」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①御言葉を心に植え付ける

19-21節には御言葉を聞くことについて記されています。19節を見てみましょう。1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。「わたしの愛する兄弟たち」とあります。著者はこの切り出し方を好んで使っています。先週学んだ1章16節でも使われていました。1:16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。注意を喚起する場合や何かを強調するため、ストレートに内容入らず、「わたしの愛する兄弟たち」をクッション的に用いているのです。続いて「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」とありますが、ユダヤのラビ(教師)の格言につぎのようなものがあります。「人間の気質には四種類ある。聞くに早く忘れるのに早い。このパターンは長所と短所が五分五分で互いに打ち消し合い何も残らない。聞くに遅く、忘れるに遅い。このパターンは短所を長所がカバーしているものです。聞くに早く、忘れるのに遅い。このパターンの人は智者です。聞くに遅く、忘れるのは早い。このパターンは手に負えないものだ。」ヤコブ書の著者はこの格言を知っていたのかもしれません。正に、「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」とは智者のあり方と言えるでしょう。怒りを制する教えが箴言14:29節にありますので口語訳聖書で開いてみましょう。14:29 怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。(口語訳)20節を見てみましょう。1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。人間の怒りでは、どんなものでも神の義を行うことはできません。筋道が通った怒りでも人間の怒りでは神の義を行うことは出来ませんし、人間の怒りの無価値を知るべきなのです。そもそも人間の怒りと神の義を同列に考えるということは根本的に間違っています。人間の不義と神の怒りについて、ローマの信徒への手紙1章18節に記されています。見てみましょう。1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。21節を見てみましょう。1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。「捨て去り、受け入れ」とあります。捨て去るべきものとはあらゆる汚れやあふれるほどの悪で」、受け入れるべきものが「心に植え付けられた御言葉」です。マタイによる福音書13章1-9節には主イエスが語られた種まきの例えが記されています。要約をしますと種とは神の言葉であり、土地は人間の心です。この例えの中で主イエスは四種類の人間の心を描いています。道端=御言葉を聞いても悟らず受け入れない道端の心。岩地=御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、深みがなくすぐに躓く岩地の心。茨=御言葉を聞くがこの世のものに惑わされ実を結ばないいばらの地の心。良い地=御言葉を聞いて悟り良い実を結ぶ良い地の心です。良い地に撒かれた種は30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは御言葉を心に植え付けるということです。21節の後半にこの御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」とあります。御言葉とは主イエスが語られた言葉、新旧約聖書、そして、主イエスご自身です。ヨハネによる福音書1章1節を見てみましょう1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。神の言であるキリストがこの世にこられたのは私たちを救うために他ならなかったからです。

②御言葉を実行する人は祝福を受ける

22節を見てみましょう。1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。「御言葉を行う人になりなさい。」とあります。19-22節には御言葉を聞くことについて記されていましたが、22-25節では御言葉を実行することが記されています。以前にもお話をしましたが、この手紙を理解する上でのキーワードは成熟したキリスト者です。受取人が成熟したキリスト者となることを願いこの手紙を記しているのです。著者は集会に出来し御言葉を聞く。それだけでよいのか。それで、成熟したキリスト者と言えるのかと問うているのです。主イエスは山上の垂訓(家と土台の例え)で御言葉の実行について次のように語られました。マタイによる福音書7章24,26節を見てみましょう。 7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。さて、私たちはどうでしょうか。主日礼拝を守ることで成熟をしたキリスト者と思っていないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。23節を見てみましょう。1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。「鏡」とあります。21節では御言葉が種に例えられていました。23節では、御言葉を聞くだけで行わない人が「鏡」に例えられています。鏡について記されている他の聖書個所を二箇所見てみましょう。出エジプト 38:8 更に、青銅の洗盤と台を作ったが、それは臨在の幕屋の入り口で務めをする婦人たちの青銅の鏡で作った。二コリント 3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。古代、鏡は高度に磨き上げられた青銅でできていて、洗い清めの洗盤は鏡から作られていました。じぶんの顔を鏡で見るように、自分の心の姿を御言葉によって正確に示して頂くのです。鏡は自己を顧みる器なのです。また、鏡が主の栄光を反映させるように、御言葉によりキリスト者は成長をさせて頂き主の栄光を表すのです。御言葉を聞くだけで行わない人とは、何かが示されても何も行わない人、また、それによって成長が止まってしまっている人なのです。24,25節を見てみましょう。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。「立ち去る、すぐに忘れてしまいます」とあります。24節は御言葉を聞いても行わない者への批判で、鏡を見ながら忘れる人に例えられています。神の言葉を深く心に留めずに聞いても実行しない人は、丁度、自分の姿を鏡にちょっとだけ映してすぐ立ち去るような人なのです。立ち去るだけでなく、今映した自分の姿をも忘れてしまう人なのです。神の言葉は心の鏡として人の心を明確に映すものです。24節は御言葉を聞いても行わない者への批判でしたが、25節はその反対の人、御言葉を実行する人への祝福についてです。元来、ユダヤ人は律法を固守していました。ユダヤ人にとって律法とは神の御言葉で絶対に守るべきものです。しかし、これらは人を束縛し、罪の自覚をさせるものに過ぎないものでした。著者は「自由をもたらす完全な律法」と語りますが、この表現は1章18節の「真理の言葉」、1章21節の「御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」を言い換えたもので、「キリストの福音」です。福音とも言えます。キリストの福音とは自由を与える新しい完全な律法なのです。続いて「一心に見つめ」とあります。23,24節では「眺める」とありましたが、意味が真逆です。辞書によると「眺める」とは「風景などを遠く見る意。また、一点に視線を集中せず、広く全体を見る意」です。一心に見つめるとはある目的物に対して、熟視することなのです。ですから、これを守る人」とは、キリストの福音をわき目も振らずに熟視している人のことなのです。「行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」神の御言葉の実行者、御言葉に立って行動するものには神の祝福が約束されているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは御言葉を実行する人は祝福を受けるということです。ところで、御言葉の実行について覚えて頂きたいことがあります。御言葉は全員に画一的な行動を求めているわけではありません。高齢や病気の方もいますし、信仰歴の長短もあります。ですから、それぞれの人が相応しい形で御言葉を実行することが大切なのです。祈りによって神との真剣に向き合い示されたことを行うことです。一つの御言葉の中にも多様な行動の可能性があります。同じ御言葉を聞いても自分と周りの方との行動は異なることはあるのです。ですから、自分は御言葉を行っているけど、あの人は行っていないなどと短絡的に考えてはいけないのです。それが周りの方を裁くことになるのです。また、私たちは周りの方の全ての行動を見ているわけではありません。自分の見ていないところで御言葉の実践をしている可能性もあるのです。あの人は御言葉を聞くだけで実行していないと軽率に判断してはいけないのです。決して裁いてはならないのです。

③キリスト者には社会的責任がある

PPT26節を見てみましょう。

1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。「舌を制することができず」とあります。「舌を制する」とは、心にある悪、汚れ、不義等を言葉で表さないようにすることです。そういった感情を抑えることです。宗教改革者のカルバンは悪口について次のように語りました。「悪口という病は、私たちが他の人の欠点を前に出し、自分の欠点を後ろに追いやって見えないようにするところから生まれる。」と。キリスト者として舌を制することが出来ない人は見せかけの信者にすぎません。人間の欺瞞は神の義を全うすることはできません。「自分の心を欺くには人の信仰生活の欠点や失敗ばかりを話題にし、自己の優位性を誇張することも含まれます。キリスト者が口先ばかりの信仰生活を続けたり、信仰深い信者に振る舞つつ、毒舌を吐いたりするなら、その信仰の実体は「無意味」であると教えています。27節を見てみましょう。1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。舌を制することを述べた著者は続いて信仰を行為によって示そうと語ります。愛の実行と純潔を保つことです。「神の御前に」とあります。もし、神の前と人の前の使い分けをしているとしたらこれも立派な「自分の心を欺く」こと、自己欺瞞に他なりません。具体的な愛の実行として「みなしごや、やもめが困っているときに世話」をすることが挙げられていますが、「みなしごや、やもめ」とは文字通りの意味に加え社会的弱者を意味します。詩編には「みなしごや、やもめ」に対する神のかかわり方が記されています。68編6節を開いてみましょう。詩編 68:6 神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり/やもめの訴えを取り上げてくださる。イスラエルの指導者や預言者たちも社会的弱者を守ることを訴えています。イザヤ書1章16,17節を見てみましょう。 1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。主イエスにあるキリスト者同士の交わりは本当に楽しいものですが、キリスト者がキリスト者としか交わらない傾向があることは否定できません。果たしてそれで良いのでしょうか。それでは伝道すらできません。1974年、スイスのローザンヌで開催されたローザンヌ世界伝道会議に2,300人の福音派のキリスト者たちが集い、ローザンヌ誓約が結ばれていますが、第5項にキリスト者の社会的責任が明記されています。最後の部分を引用します。「私たちが主張する救いは、私たちの個人的責任と社会的責任の全領域において、私たち自身を変革して行くものである。行いのない信仰は死んだものである。」私たちが所属する日本ホーリネス教団も基本的にはローザンヌ誓約の立場です。ローザンヌ運動は福音派の宣教の中核ですし、ホーリネス教団も聖書学院も福音派に属しています。私たちは私たちの周りにいる社会的弱者を見落としてはいないでしょうか。その方のために私たちが出来ることを真剣に考えてみようではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト者には社会的責任があるということです。

Today’s Take-away

①御言葉を心に植え付ける、②御言葉を実行する人は祝福を受ける、③キリスト者には社会的責任がある Thinking Time怒りを制していますか どうしますか