• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年2月19日主日礼拝 

説教題:心の思いが舌となる 聖書箇所:ヤコブの手紙3章1-12節

◆舌を制御する3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。3:3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。3:4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。3:5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。3:6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。3:7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

ハレルヤ! 2月の三主日を迎えています。私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日はその六回目となります。前回のおさらいから始めましょう。2章14-26節を通し、「行いで表された信仰」と題し三つ事を中心にお話をしました。①行いとは信仰は表裏一体、②行いは信仰の質、③信仰の手紙でした。ヤコブ書はルターが酷評したような藁の手紙ではありません。信仰の手紙に他ならないのです。今日は続く3章1-12節から「心の思いが舌となる」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。毎回のようにお話をしていますが、この手紙を読み解くキーワードは「キリスト者の成熟」です。著者は恵みによって救われたキリスト者の成熟を祈り願いこの手紙を記したのです。1章では、試練を勝ち抜く忍耐を備えたキリスト者が記され、2章では信仰から出る行為を行うキリスト者を語り、今日の箇所では舌を制御することが出来るキリスト者について記されています。

①模範となる人の責任は重い

1節から順番に見てまいりましょう。3:1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。「わたしの兄弟たち」とありますが、著者はこの呼びかけを好んで用いています。この手紙中、8回使われていますがが、4度目です。主題を改めたり特に重要な内容を知らせたりする場合に使っています。「教師になってはなりません。」とあります。この箇所の「教師」とは、ユダヤ教のラビに相当するもので、一般に尊敬をされる人をさす敬称です。彼らは聖書を教え、教会の秩序を保ち、信徒を訓練することを目的としていました。それで、多くの者が教師になることを希望したのですが、著者は「教師になってはなりません。」と説くのです。これは教師になること自体を否定しているのではなく、当時、教師という名のもとに、非人格的な偽善者の教師がいたのです。特にこれから詳しくお話をしますが、舌、つまり言葉の問題がある教師がいたのです。ですから、このような言葉に問題がある教師になってはいけないという戒めです。「わたしたち教師」とあります。著者は自分も教師の中に入れています。自らが教師の一人として、その責務の重大さを知っていました。もし教師が、教師としてあるまじき言動を行ったとすれば、神の裁きは何者にもまして、先ず教師の上に厳しく下ってくることを知らなければばらないのです。教師も含めてですが、模範となる人には責任が重いのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは模範となる人の責任は重いということです。

②言葉は凶器になりえる

2節を見てみましょう。3:2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。2節は1節の理由です。「わたしたちは皆」には著者も含まれ、広義には全ての人間という意味にも解釈が出来ます。全ての人間は例外なく「度々過ちを犯」しますが、最たるものは言葉の上での過ちです。諺で「口は災いの元」と言いますが、失言で職を失う方も少なからずいます。不用意な発言、無責任な冗談が相手の人格を傷つけ、誤解を与えることにもなるものなのです。ですから、範となる教師の言葉遣いは一層、慎重なものでなければならないのです。舌を制することが出来ずに問題を引き起こしてしまうようであれば、教師になるなというのです。後半に言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」とありますが、言葉を制することが出来る人は、全身を制することが出来る完全な人です。逆に言えば言葉を制するということは非常に困難なことなのです。昔、ある重大事件の容疑者が取り調べ中に自分の舌をかみ切ろうとしたとを聞いたことがあります。取り調べでの自白を免れるためです。究極の黙秘権の行使かもしれませんが、未遂で終わり長い懲役刑に服しました。3,4節を見てみましょう。3:3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。3:4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。「くつわ、ごく小さい舵」とあります。著者は舌をこれらに例え、その重要性を語ります。「馬」「船」「くつわ、ごく小さい舵」に比べれば、はるかに大きな物です。馬を扱う人は必ず馬の口をとるものです。馬の口にくつわをつけて、それに手綱を付けるのです。そのことによって暴れ馬でも制することができるのです。以前、世界一周をする豪華な大型クルーズ客船をTV番組で見たことがあります。操縦席も見たのですが、舵は意外と小さなものでした。この小さい舵が大型客船の全体を支配出来るのです。5節を見てみましょう。3:5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。3,4節での「くつわ、小さい舵」の例えの通り、人間の舌そのものは小さな器官にすぎませんが、人間全体を動かし支配する力をもっているのです。多弁で人に迷惑をかけるのも、毒舌で人に不愉快な思いを与えるのも、出まかせ、「大言壮語」も、これらはみな舌の働きによるものです。舌は、その人の人格を決定するといっても過言でないほど、大きな力をもっているのです。後半に「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」とあります。二年ほど前のことですが、栃木県足利市で山火事が発生しました。鎮火まで一ヶ月近くかかり、焼失面積は167万平方メートル(なんと、東京ドーム約40個分の面積)でした。火災の原因は「たばこ」と推定されています。こんな小さなたばこの火が東京ドーム約40個分の面積を焼き尽くしてしまうものなのです。6節を見てみましょう。3:6 舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。「舌は火です。」とあるように、舌も部分的には小さな器官ですが、火と同様に恐ろしい力を秘めたものでもあるのです。続いて「不義の世界」とありますが、原語を忠実に訳せば「不義の世界そのもの」です。舌には不義の力が満ち満ちているのです。このことは非常に危険なことであり、舌の制御いかんによっては全身を汚すことになるのです。5,6節は舌のもたらす災いについて記されていますが、小さなものから生じる大きな災いが示されています。舌は舌を含め全てを焼き尽くす恐ろしい力をもっているのです。作家の芥川龍之介は次のように人生を語りました。「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱わねば大事に至る」と。舌、言葉は私たちの日常生活の一部で、何気なく用いていますが、これもまた重大に扱わなければ大事に至ってしまうものなのです。舌、言葉で人生を棒に振ってしまうことがあるのです。7,8節を見てみましょう。3:7 あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。7節は創世記1章28節と9章2節を念頭に置いての表現です。開いてみましょう。PPT 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。 9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。地上、空中、水中にいる全ての動物は、神によって人間に服従するものとされています。人間が全ての物を支配してきたことを挙げたうえで著者は舌の制御について話を展開します。8節を見てみましょう。3:8 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。」とあるように人間は他の被造物を支配することが出来ても、自分の舌だけは制御が出来ないのです。続いて「死をもたらす毒に満ちています」とあります。舌は人間を傷つけたり、殺したりすることもできます。一年半位前のことですが、女子プロレスラーの木村花さんがTV番組出演時の言動などをめぐりSNS上で誹謗中傷を受けて自殺に追い込まれてしまいました。今日、二番目に覚えて頂きたいことは言葉は凶器になりえるということです。木村花さんがお亡くなりなった後、母親の木村響子さんもいわれのない誹謗中傷を受け、昨年、ネット上での誹謗中傷の根絶に取り組むNPO法人を立ち上げました。このような活動を応援したいと思います。

③聖霊によりきよめて頂く

9,10節を見てみましょう。3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。「主を賛美し、人間を呪います」とあるように二心について記されています。同じ口、同じ舌から賛美と呪いが出てくるほど、舌は不定で無節操です。言葉となって表れてくるのです。このような二心は昔から人間の罪の一つですが、神の子とされたキリスト者にはあってはならないと著者は語るのです。高齢の母を在宅で介護するために同居してから四年ちかくなります。昨年96歳となりましたが認知症です。認知症の典型的な症状に「物とられ妄想」があります。母もそうです。自分が大事にしているもの(指輪、腕時計、通帳印鑑など)が盗まれるといけないと思い隠しこんでしまうのです。その事をすっかり忘れてしまい盗まれたと言うのです。そして、お世話をしている私たちが犯人扱いされます。認知症の方に良くないとはわかってはいるのですが、ついつい母の言動に声を上げて言い返してしまうことがあります。母は礼拝に来るときもありますが、未信者です。礼拝で主を賛美した私のこの口が、帰りの車の中で母に対してきつい言葉を言ってしまうのです。なんとも情けない話です。是非、私の成熟、成長をお祈りください。11,12節を見てみましょう。3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。3:12 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。11,12節では明らかに不可能なことを例えを用いてを語ります。「泉」は地の底から湧いて溢れ出るものであり、その泉から「甘い水と苦い水がわき出る」ことなどあり得ません。「わたしの兄弟たち」と語りかけ、舌についての結論を例えをもって語ります。この表現が使われるのは5度目です「いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶこと」など絶対にあり得ません。ですから、この例えの言わんとすることは、一つの心から全く相反する二つの言葉は出てくるはずがないということです。罪の奴隷となった人間から正しい言葉は出てきませんし、噂や悪口にしか興味を持たない人の心からも隣人愛の言葉は発せられることはないのです。逆に恵みによって神の子とされたキリスト者の口からは正しい言葉しかでないはずなのです。本来はそうですが、悪魔の誘惑により悪い言葉を発してしまっている場合があるのです。悪魔の働きにより、「塩水が甘い水を作ること」をしてしまうのです。私が誰かの悪口や陰口を言ったとします。誰が喜ぶでしょうか。悪魔です。私が誰かの悪口や陰口を言うたびに、背後で悪魔がほくそ笑んでいるのです。留意していただいたいのですが、舌が毒を吐くのですが、心の思いが舌によって外に現れるのです。人間の心の在り方が言葉となってあらわれるのです。マタイによる福音書15章に記されている通りです。11節と18節を見てみましょう。15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」 15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。心にある思いが言葉となるのです。心にある良い思いは良い言葉となり、心にある悪い思いが悪い言葉となるのです。そして言葉は行動になるのです。マザーテレサは次のように警告をしました。「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。」キリスト者の成長は聖霊の働きによるものです。創造されたのは「父なる神」、贖って下さったのは「子なる神・救い主イエス・キリスト」、そして育てて下さるのは「聖霊なる神」です。「聖(きよめ)」という言葉の原語の意味は「俗なるものからの分離」と「聖なる方の所有となる」ということです。このことを可能にして下さるのが聖霊の働きなのです。言動となって表れる前に私たちの悪い思いを聖霊によって聖めて頂くことが求められるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは聖霊によりきよめて頂くということです。

Today’s Take-away

①模範となる人の責任は重い、②言葉は凶器になりえる、③聖霊によりきよめて頂く

Thinking Time 

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