• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年2月26日主日礼拝

説教題:何を求めているのか 聖書箇所:ヨハネによる福音書1章35-42節  

1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

37節を見てみましょう。二人の弟子とありますが、一人はアンデレ、もう一人はこの福音書を書いたヨハネではないかとも言われていますがはっきり分かりません。バプテスマのヨハネは二日前に、私の後から私よりはるかに優れた方が来られる、私は靴紐を解く資格もないと言い、昨日は自分の方にイエス様が来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と、証されました。その翌日のことです。今度はイエス様が歩いておられるのに目を留めて、今日は「見よ、神の子羊だ」と再三、証されました。私たちもくじけずに何度も主を証していきたいと思います。またヨハネはイエス様が歩いておられるのに目を留めたのです。イエス様はいつも私たちの近くにおられます。すでに二か月たちますが、始まりましたこの一年いつも、主は私たちと共にいてくださるのです。大切なことはどんな時も主に目を留めることです。日々の生活の中で、大小さまざまなことを心配しやすいものですが、イエス様がいつも共にいてくださることに目を留めましょう。マタイ14:27にはイエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(「心やすかれ、我なり、恐るな」)とあります。どんな時も共にいて、慰め、励まし、導いて下さいます。今朝の一番目のポイントはどんな時も主に目を留めると言うことです。

②忍耐強く主を証し続ける

1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 バプテスマのヨハネの証を聞いて、二人の弟子はイエス様に従っていきました。この「従った」と言う言葉は、ただついていったという軽い意味でなく、イエス様の弟子になる決心をしたという意味を持っているそうです。バプテスマのヨハネの弟子だった者が、彼の証を聞いてイエス様の弟子になっていったのです。バプテスマのヨハネはイエス様を証しするという、自分に与えられた使命を忠実に果たしています。この二人の弟子は、キリストについての証を聞いたからこそ、彼らはイエス様のところにいったのです。ローマの信徒への手紙には次のように記されています。 10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。イエス様について誰かが宣べ伝えてくれたからこそ、イエス様を求め、イエス様のところに行く人々が起こされるのです。バプテスマのヨハネが何度も主を証したように、私たちもくじけず忍耐強く主を証していきましょう。今朝の二番目のポイントは忍耐強く主を証し続けると言うことです。

神の栄光を表す者とされる

1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエス様は振り返り、ついてくる2人に向かって「何を求めているのか」と尋ねました。なぜこのような質問をされたのでしょうか。皆さん、どう思われますか。初めて教会に来る人は何を求めて教会に来られるのでしょうか。問題の解決、慰め、平安、愛を求めて、聖書を学びたい、自分の人生にプラスになりそうだから、英会話教室やカルチャーコニュニティがあるから、あるいはただ何となく、また興味はなかったけれど誘われて仕方なく、と言う場合もあるかもしれません。皆さんはどうでしたか。誰でも何かを求めています。今すぐに必要なものであったり、または自分の夢をかなえてくれる何かであったり、それが何なのかを自分でもよくわからないけれど、何かを求めているということもあるでしょう。イエス様がこう尋ねたのは、その人が自分は一体本当は何を求めているのか。はっきり気づくことができるように、と言うためだったかもしれません。自分についてくるこの二人に、「あなた方は何を求めて行動しているのか。」さらには「何を求めて生きているのか」と本質的なことに光を当てようとされたのかも知れません。「何を求めているのか」と言うイエス様の質問にたいして、彼らは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ね返しました。これはイエス様が泊まっておられる場所を見たかったというわけではなく、自分が何を求めているのか、それはここで立ち話で済むような話ではなく、イエス様の泊まっておられるところで、じっくりと交わりながら話したかったからです。時間をかけてイエス様と交わることは大切です。40年近く前になりますが、救われてイエス様のために働きたいと思っていたのですが、いろいろなことを思い煩い、献身して神学校に行くことに、なかなかはっきりと決断できずにいました。ある日、当時70歳代の森山牧師から、「今晩、主のみ心を求めて、一人で礼拝堂で、朝まで主に祈りなさい」と言われ、大きな教会の広い礼拝堂で、朝まで一人で祈ったことを思い出します。寒くはなかったので多分夏だったと思います。講壇の前の席に座り、聖書を読み、祈り、賛美し、途中で寝りこけたと思いますが、主のみ心を求めました。朝になってもはっきりとしたみ声はなく、確信は得られなかったのですが、主に信頼して前進しようという思いに変えられ、やがてマタイ28:18~20大宣教命令のみ言葉で決心しました。また30年位前、長崎で開拓伝道をしていました。そのころは独身で、時間もあり、日々のディボーションも十分時間を取れました。み言葉を黙想していると、いつも「私に信頼しなさい」と言う主の語り掛けのようなものを感じました。孤軍奮闘している時でしたので、主との交わりこそ命の源でした。またいろいろな問題で苦しくなると、聖書をもって近くの海や山に、また26聖人のモニュメントの前のベンチに座り、心を注ぎだして祈る時間を持つことができました。今から思うと平和な時代だったと思います。時間をかけて主と交わり、魂の養いをすることができました。今は世界の情報が瞬時に入ってくる時代となり、私たちはいろいろなことに心を向け、忙しくなり、主とゆっくりと深く交わる時間がなかなか取れないような状況ではないでしょうか。これこそサタンの罠です。何とか改善すべきです。主の前に時間をかけて、主と交わることはとても大切です。1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。私たち人間は、理性があるので何かをする時よく調べ、理解してから取り組みます。「わかったから、大丈夫だから、行こう」の順番です。もちろんそれは大切です。よく調べないで飛び込むことは危険です。かつて私が統一協会に行ってしまったのもそうでした。しかし「来なさい。そうすれば分かる」とイエス様は言われました。イエス様への信仰は、頭で理解したから行くのではなく、まずイエス様のところに行くこと、そうすればわかる世界なのです。「この料理はとてもおいしい」と言われても、実際に食べてみなければどんなにおいしいかはわからないのと同じです。イエス様のところに行きましょう。そうすればその大きな恵みがわかります。バプテスマのヨハネからイエス様のことを聞いたこの二人の弟子は、イエス様の弟子になりたいと思うほどのものをイエス様に感じたのではないでしょうか。もっと深い話がしたいと、イエス様の泊まっておられる所までついていったのです。午後4時ころから、一晩中イエス様と話し、彼らの中にある求めについて深く語り合い、恵まれ、更に心の目が開かれたことでしょう。ここで当時のユダヤの国の状況を確認しておきましょう。当時ユダヤの国は、異教徒であるローマの支配下にあり、神の選民としての誇りが傷つけられていました。彼らはなんとかローマから独立し、自分たちの国をたて上げ、神の民としての誇りを回復したいと願っていました。そのための政治的リーダーとなるメシヤ(油注がれた者)を求めていた頃です。旧約時代は、預言者や祭司や王が任職の時に油を注がれたので、「油注がれた者」と呼ばれました。そして徐々にメシヤと言う言葉は罪からの救い主を意味するようになっていきます。1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 1:41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。イエス様と一晩深く語り合ったアンデレの心に変化がありました。彼の心の渇きは満たされ、恵まれたのです。38節ではイエス様のことを「ラビ、先生」と呼んでいたのにここではメシヤ(油注がれた者)と呼んでいます。一晩イエス様と深く語り合い、彼はイエス様こそメシヤであると感じたのです。多分ここで言うメシヤとは、政治的なリーダーとして国を復興なさるお方はこの方だと思いメシヤと言ったのでしょう。当時はそのようなリーダーがたくさん起こっては、消えていったようです。人々の中には、本当に国を復興させてくれる真のメシヤが待ち望まれていました。アンデレは一晩イエス様と話して、(あるいは政治的リーダー以上のものをイエス様に感じたかもしれませんが)この方こそ真のメシヤに違いないと確信したのでしょう。そしてこの大きな喜びを、まず兄のシモンに伝えます。これが家族伝道です。私たちもイエス様の救いに与りその恵みを味わったなら、まず家族に伝えたいと思います。1:42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。聖書にアンデレについての記事は多くはないですが、彼が導いた兄のペテロは偉大なリーダーとなっていきます。そのことでアンデレは卑屈になったり、妬みを感じたりしたでしょうか。また、イエス・キリストを証ししたら、二人の弟子がイエス様の方に行ってしまったことをバプテスマのヨハネは怒ったでしょうか。いいえ、むしろ自分たちが導いた人々が神に大きく用いられることを喜んだと思います。人それぞれに神から与えられた使命があります。バプテスマのヨハネはキリストを証しすることで、与えられた使命を果たしました。アンデレは兄のペテロをはじめ、何人かの人々をイエス様のところに導いています。それは彼の賜物だったのでしょう。自分の使命を果たしたのです。人と比較する必要はありません。自分に与えられた使命を果たしたという喜びと満足が与えられたことでしょう。私たちも、置かれたところで自分に与えられた使命(役割)を確認し、果たしていきたいです。イエスは彼に目を留めて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。 シモンとはヘブライ名(名前)、ケファとはアラム名、ペテロはギリシャ名だそうですが、これは同一人物です。ケファもペテロも「岩」と言う意味です。性来のシモンはおっちょこちょいで、すぐに気が変わりやすい性格の持ち主でした。多分その性格から、今までに失敗したことも多かったのではないでしょうか。けれどもイエス様はそのシモンに、不動の岩を意味するケファ(ギリシャ名はペテロ)と言う名前を与えられました。神様はご自身の大きなご計画を進めるために、大きく用いる人を選ばれます。聖書には名前が変えられ、神に大きく用いられた人々がいます。アブラムはアブラハムに、ヤコブはイスラエルに、サウルはパウロに変えられました。イエス様はここでシモンに目を留められたのです。おっちょこちょいなシモンがやがて不動の岩に変えられることを見ていたのでしょう。性来のシモンにそのような可能性はなかったと思います。どんな弱さや罪深さがあっても、ただイエス・キリストにつながっていくことによって、その人は変えられ、神の栄光を表す者とされていくのです。この言葉を聞いたペテロの心は喜び踊ったと思います。当時の彼が何歳だったか分かりませんが、おっちょこちょいで変わりやすい自分、自分はこの程度の者かと思っていたかもしれません。しかしその彼に、「あなたは不動の岩となる」とイエス様が言われたのです。人生を変える大きな希望が与えられたのではないでしょうか。彼はイエス様についていこうと思ったと思います。私たちは、パウロやペテロのような者ではないですが、むしろそのような人は少数であって、今日まで世界にキリスト教が増え広がり、多くの人々が救われてくるためには、むしろ名もない小さな存在かもしれませんが、同じように神に選ばれた者として、自分の置かれた所で、イエス様にしっかりつながり、忠実に神に従っていった人たち、神に用いられた人々がたくさんおられたわけです。私たちも同じではないでしょうか。2023年を生きている私たち、言ってみれば悪い時代、暗い時代、終末に近づいている時代に生かされたいます。その私たちこそ、神に選ばれ、神と共に歩み、共に働き、地の塩、世の光として、神の栄光を表す者として、神様は私たち一人一人に目を留め期待してくださっていると思います。大切なことはイエス様につながっていることです。自分のうちにそんな力はありません。主から恵みが、信仰が、力が、愛が注がれてきます。全ての良きものは上から来ます。神様との管、パイプが詰まっていないか、切断されていないか、チェックし、通りよき管とさせていただきましょう。毎日聖書を読み祈り、神様と会話して人格的な交わりを深め、従っていきましょう。今朝の三番目のポイントは、神様につながっているならば、人は変えられ、神の栄光を表す者とされると言うことです。

④何よりもまず、主を求めよう

2023年が始まりすでに2か月が過ぎようとしています。「何を求めているのか」と言うイエス様の問いかけの前に、静まる時を持ちたいものです。なかなか忙しくて立ち止まれないのも現代人の病ではないでしょうか。「まず神の国と神の義を第一とせよ」と聖書は語ります。思い切って立ち止まり、主のみ前に心を注ぎだし、時間をかけて交わり、魂の養いをいただきたいと願います。自分が本当は何を求めているのかに気づくことはとても大事です。人生の優先順位がはっきりしてきます。私たちが求めるもの、健康、病の癒し、家族を含め良い人間関係、仕事の祝福、経済的な祝福、夢の実現などなど。今年の夢、ビジョン、それぞれにあると思います。その実現のために主に祈り、また努力していきましょう。と同時に、もっと掘り下げていって本質的な求めは何でしょうか。自分の願いが叶っても人は誰しもやがて必ず死ぬのです。聖書は死後に永遠の世界があることを語っています。ヨハネの黙示録には次のように記されています。21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示録は難しいですが、21章からは使徒ヨハネが幻のうちに魅せられた、新天新地(天国)の情景が書かれています。そこは神と共に住むところであり、涙も、死も、悲しみも嘆きもないところです。やがて私たちはそこに入れて頂けるという希望があります。けれどもそこに行くまでの地上の人生には、時につらく、悲しく、苦しい試練の中を通ることもあります。耐えられないと思う時があるかもしれませんが、いいえ、イエス様はいつも共にいて守り助け、乗り越えることができるように導いてくださいます。本当につらい時こそ、主を見上げましょう。み言葉に固く信頼しましょう。助け主聖霊様が導き、神の家族として互いに祈り支え合う兄弟姉妹もいます。コリントの信徒への手紙一を見てみましょう。10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。必ず乗り越えることができると聖書は約束しています。これから世界がどのように変わっていっても、どんな時も主に望みを置き、希望をもって主に信頼し、やがては栄光の天国に入れて頂けるのです。「何を求めているのか」と言うイエス様の問いかけに対して、願わくは禍から遠ざけて、健康が支えられ平安な生活ができますように。夢が実現しますようにと、自分の願いを求めますが、更に良きもの、主の御心がなりますように、主の御心を行っていけますように、何よりもまず主ご自身を求めていきましょう。最後のポイントは何よりもまず、主を求めようです。

Today’s  Point

①どんな時も主に目を留める、②忍耐強く主を証し続ける、③神の栄光を表す者とされる、④何よりもまず、主を求めよう

考えてみよう

仮に、後一年の命だとしたら、何を求めますか。