• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年3月19日主日礼拝

説教題:御心に沿って生きる 聖書箇所:ヤコブの手紙4章13節-5章6節

◆誇り高ぶるな4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。◆富んでいる人たちに対して5:1 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。5:2 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、5:3 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。5:4 御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、5:6 正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。

ハレルヤ! 3月の第三主日を迎えています。レント期間ではありますが、私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は9回目となります。前回のおさらいから始めましょう。4章1-12節を通し、「主イエスが友」題し三つ事を中心にお話をしました。①不純な動機の祈りは応えられない、②主イエスが友、③審判者はおひとりでした。今日は続く4章13節-5章6節から「御心にそって生きる」と題しお話をします。ご一緒に学んでまいりましょう。

①御心にかなった計画をたてる

13,14節を見てみましょう。4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。昔からユダヤ人は商才に長けており、古代世界の大貿易商でした。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」とありますが、あたかも地図を見ながら、商売を広げる計画をし、金儲けすることをほくそ笑んでいる様子が生き生きと描写されています。商売の計画を立てることは良いことですが、自分の生き方や人生まで自分で決めることが出来ると思ってしまうこと、つまり自己過信が問題なのです。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。」日本語で「明日をも知れぬ身」と言いますが、明日、自分がどのような境遇に陥っているか誰も予測できません。ひょっとしたら命がないかもしれないのです。交通事故や災害などで元気だった人が突然、お亡くなりになるということがあるのです。私の中学時代の親友にU君という方がいました。別の高校に進学をしたのですが、高校時代も親しくしていました。U君の隣にはU君の叔父さんが住んでいましたので、U君の家で朝から晩までU君、U君の弟、U君の従兄弟と私の4名でロックのレコードを聴いたり、ギターを弾いたり、ゲームをしたりで一日中、遊んでいました。高校卒業後、U君は料理人の道に進みました。私は大学に進んだのですが、料理人下積みは大変です。U君とはあまり会えなくなってしまいました。そんなある日、通学の電車の中で中学時代の同級生とばったり会いました。彼は「U死んじゃったな」と言いました。私は「えっ!、何で」と聞いたところ交通事故とのことでした。U君は19歳でした。私にとって初めて友を失うとう経験で、その日のことは今でも忘れることが出来ません。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。」とある通りです。「わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」とありますが、私たちのこの世の命は露のようにはかなく消え去るものなのです。15節を見てみましょう。4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。15節を見てみましょう。「主の御心であれば」とあります。これがキーワードです。計画が実現しない理由の一つに人間側の問題があります。杜撰な計画、努力不足、怠慢などがそうです。逆に、計画や予定がいかに緻密であり、用意周到なものであったとしても、神を無視したもの、御心にかなわない計画は実現しないのです。一切が神の計画に置かれているのです。箴言には計画について次のように記されています。見てみましょう。 19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。人間の側からみれば、人生は複雑で不確実です。ですから、神により頼む、祈りつつ御心を求め計画を立てることが求められるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは御心にかなった計画をたてるということです。

②なすべき善い行いをする

16,17節を見てみましょう。4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。「誇り高ぶっています。」とあります。神を無視し、自分自身に頼って計画し、その計画が実現すると誇り高ぶっているのです。既に学んだように、このような誇り高ぶりが、人を分け隔て、党派を作って争ったり、隣人を裁いたりすることになるのです。著者は「そのような誇りはすべて、悪いことです。」と断罪をします。誇り高ぶりは罪、悪魔にそそのかされた所業にほかならないのです。高慢の反対は謙遜です。高慢は人が神を離れて自らを高めようとすることから生まれ、謙遜は神の前に悔い改め自らを低くすることです。高慢であることとは罪の状態なのです。著者はこれまでに著者は何が悪であり、何が善であるかをこの手紙に記してきましたが、17節はその結論となる言葉で、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」と述べ悔い改めを促しています。Iさんという教会学校に通う小学生の女の子がいました。ある日、授業が終わりに近づくと、突然激しい雨が降り出しました。Iさんの家は小学校から近く、Iさんのお母さんは学校に傘を届けてくれていたのです。おかげでIさんは雨に濡れる心配がありません。周りをみるとクラスのいじめっ子が、しょんぼりと立っていました。傘がないのです。Iさんは「いつも意地悪ばかりしているので、いい気味だわ」と思い帰りかけました。その時です。教会学校で覚えた御言葉を思い出しました。それが、この17節の御言葉です。4:17 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」Iさんは「困っていて、いい気味だ」と思った自分を恥ずかしく思い、学校に戻り、いじめっ子に傘を差しだし「一緒に帰りましょう」と声をかけ一緒に帰宅したのです。御言葉には小学生の心をとらえて実行させる力があるのです。さて。私たちはどうでしょうか。Iさんのようになすべき善い行いをしているでしょうか。心を探ってみようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことはなすべき善い行いをするということです。

③義人は信仰によって生きる

5章1-5節は「◆富んでいる人たちに対して」と小見出しにあるように「富んでいる人たち」への勧告です。著者が、これまで述べてきた兄弟たちに対する親愛を込めた勧告ではなく、旧約聖書の預言者がイスラエルの罪を責め、悔い改めを求め、裁きを宣告するかのような厳しい内容です。先ず富について確認をしておきたいことがあります。聖書は富そのものを非難しているわけではありませんし、勿論、罪でもありません。正当な手段で獲得された富はありますし、その富をも来御心に沿って有効に活用すれば祝福も与えられますが、富は両刃の剣なのです。ミシェル・クオストが記した「神に聴くすべを知っているなら」の中に「百フラン前の祈り」と詩があります。富が両刃の剣であることを如実に示しています。一部をそのまま引用します。「それ(お札)は、医者の往診代に支払われ、子どもに本を買うために、可愛い娘たちのドレスを買うために使われたでしょう。しかしそれは、婚約破棄の悲しい手紙(慰謝料)ともなり、のんだくれの酒代にも、未成年に有害な映画の製作にも、犯罪の凶器を買うために、使われてきたでしょう。」富は使い方次第で両刃の剣になるのです。このことを覚えつつ、5章1節から見てみましょう。5:1 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。冒頭の「富んでいる人たち」とは単なる富裕層、お金持ちの人の意味ではありません。貧しい者へ不正を行い、富を得たお金持ちの人のことを指しています。このことは4節からわかります。後ほど、お話をします。著者はそのような貧しい者へ不正を行い、富を得た人々に「よく聞きなさい。」と特に注意を払って聞くように伝えます。続いて「自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。」とあります。泣けという言葉は旧約の預言者がしばしば口にした言葉でした。イザヤ書13章6節を見てみましょう。 13:6 泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。預言者イザヤはイスラエルの民に自分たちの滅びの日が近づいたことを知って、「泣き叫べ」と語ったのです。富んでいる者が泣きわめく具体的な内容が2節以降に記されています。2,3節を見てみましょう。3節は口語訳も一緒に見てみましょう。5:2 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、5:3 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。5:3 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。(口語訳)「あなたがたの」とあるようにこの箇所では、地上から全ての「富、衣服、金銀」がなくなることを述べているわけではありません。貧しい者に対して不正を行い得た「富、衣服、金銀」が消え去るというのです。当時、「衣服、金銀」は富の象徴でした。「金銀もさびてしまいます。」とあります。実際には金銀が錆びるということはありませんが、「不正を働いて得た富は永続しない」という意味で解釈をすればよいと思います。「悪銭身に付かず」といったところです。主イエスもこの世の富について次のように語っています。マタイによる福音書6章19節を開いてみましょう。6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。主は山上の垂訓で、地上の富や宝は終末にはなんら価値を持たないことを語られたのです。また、さびるという表現には心の汚れとも言え、心の汚れがそのまま財宝に付着するのです。富んでいる人の心の汚れという罪により蓄えられた富です。ですから、「このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。」と警告をするのです。「このさびこそが」の部分を「この心の汚れこそが」に置き換えると意味が明確になります。「終わりの時」とは最後の審判の日です。この日がいつ来るかは父なる神のみの知ることですが、必ず来ます。必ず来るということは、一日一日、その日が近づいているのです。審判の日には全ての人が裁かれるのです。著者は貧しい者から、不正の手段で蓄えたお金持ちの人々に審判の日に裁かれる「ために宝を蓄えた」と厳しく警告をするのです。口語訳聖書では、「終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。」と訳されていますが、この「なお」という言葉に「終りの時にいる」のにもかかわらず、富める者の気が付かない愚かさを見出すことが出来ます。先程、5章1-5節は「◆富んでいる人たちに対して」と小見出しにあるように「富んでいる人たち」への勧告ですとお話しましたが、この勧告の基準は「終わりの時」、最後の審判の日です。世の中の人にはこの世の状態がいつまでも続くと思っている人がいますが、聖書の教えは終わりの時が来るのです。4-6節から富める者が犯した三つの罪がわかります。 4節を見てみましょう。5:4 御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。」とあります。先程、お話した通り、今日の聖書箇所のお金持ちとは一般的な意味でのお金持ちではありません。労働者に支払うべき賃金を払わず富を築いた悪質な金持ちの人たちです。彼らが犯した一つ目の罪は搾取です。賃金の支払いについては、律法にも次のように定められています。レビ記19章13節を見てみましょう。レビ 19:13 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。「叫び声をあげています。」とありますが、搾取された賃金があたかも叫び声をあげていると語ります。そして、「刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」とあるように、万軍の主は金持ちの悪事をご存じなのです。 5,6節を見てみましょう。5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、5:6 正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり」とあります。これが富める者が犯した二番目の罪です。奢侈享楽、快楽を求めての贅沢三昧です。この世には終わりの日、最後の審判の日が必ず来ます。富めるものがどんなにこの世で栄え、快楽にふけっていても、審判の日は厳かに近づいているのです。「屠られる日」とはその日のことです。動物には「屠られる日」はわかりませせん。そもそも屠られるという概念はないと思います。ですから、動物は常にいつまでも欲望を満たそうとします。著者は富める者をそのような動物と同じだと酷評をしているのです。6節に「正しい人を罪に定めて、殺した。」とあります。これが富める者が犯した三番目の罪です。冤罪、殺人です。「正しい人」とは義人のことですので、口語訳聖書では義人と訳されています。義人とは神を信じる人のことです。創世記15章6節に記されています。開いてみましょう。15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。富める者たちは、この義人を捕らえて罪に定め殺したのです。しかし、その義人は「あなたがたに抵抗していません。」と著者は語るのです。これはとても大事なことですが、何故、義人は無抵抗だったのでしょうか。それは、義人は神の審判を信じていたからです。ただ神おひとりだけが、救う権威と滅ぼす権威をもっておられるのです。先週学んだ4章12節の御言葉を確認してみましょう。4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。義人はその信仰によって生きるのです。断じてこの世の権力や財宝によって生きる者ではないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは義人は信仰によって生きるということです。

Today’s Take-away

①御心にかなった計画をたてる、②なすべき善い行いをする、③義人は信仰によって生きる

Thinking Time 

どこに富を蓄えていますか