• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年3月26日主日礼拝 

説教題:信仰と忍耐をもって祈り続ける 聖書箇所:ヤコブの手紙5章7-20節(新共同訳新約426-427p)賛美196/427

忍耐と祈り

5:7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。5:8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。5:9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。5:11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。5:18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。5:19 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、5:20 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。

ハレルヤ! 3月の第四主日を迎えています。レントの時期ではありますが、私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は10回目で最後となります。前回のおさらいから始めましょう。4章13節-5章6節を通し、「御心に沿って生きる」題し三つ事を中心にお話をしました。御心にかなった計画をたてる、なすべき善い行いをする、義人は信仰によって生きるでした。今日は続く5章7-20節から「信仰と忍耐をもって祈り続ける」と題しお話をします。ご一緒に学んでまいりましょう。

①忍耐は祝福に繋がる

PPT7,8節から順番に見て参りましょう。

5:7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。5:8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

「兄弟たち、」とあります。先週学んだ5章1-5節の「富んでいる人たち」への警告は、それまで述べてきた兄弟たちに対する親愛を込めた勧告ではなく、旧約聖書の預言者がイスラエルの罪を責め、悔い改めを求め、裁きを宣告するかのような厳しい内容でした。しかし、7-11節にはこの「兄弟たち、」という呼びかけが三回も使われており、一転して著者の受取人に対する親愛の情が伺えます。続いて、「主が来られるときまで忍耐しなさい」とあります。富める者からの受けている悪事も再臨の時までなので、希望をもって耐え忍びなさいと語るのです。そのことを著者は農夫の生活をもって例証しています。それが、「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」です。農作物が育つために雨は欠かせません。「秋の雨と春の雨」とあります。「秋の雨」は前の雨とも言い、十月末から十一月下旬に降る雨で、土を和らげ耕作ができやすくなります。「春の雨」は後の雨とも言い、三、四月頃に降り穀物を実らせるため祝福の雨とも言われています。忍耐がない人は農夫になれません。著者は農夫が雨の降る日まで黙って働くように、主の再臨を待ち望みつつ、耐え忍びなさいというのです。8節は7節の例えを言い換えたもので、同じ内容を繰り返すことで強調をしています。

PPT9節を英語の聖書(NKJV)と共に見てみましょう。

5:9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。New King James Version

5:9Do not grumble against one another, brethren, lest you be condemned. Behold, the Judge is standing at the door!

「互いに不平を言わぬこと」とあります。不平や不満を言い合うことは、決して自分を高めるものではなく、人を裁く結果となるものです。人を裁きつつ、自分を正当化すること自体、自分に裁きを受けることを知るべきです。不平不満を言いたくなる状況にあっても、人を恨ます、つぶやかず、裁かす、忍耐を主の再臨を待ちなさいと説くのです。不平不満は忍耐の妨げなのです。

「裁く方が戸口に立っておられます。」とあります。NKJVではthe Judge is standing at the door!

と現在形ではなく現在進行形が使われています。

簡単な例文で現在形と現在進行形の違いをお話します。PPT

I play the guitar.

I’m playing the guitar.

1つ目の例文は「私はギターを(趣味とし)弾きます」ことを意味し、2つ目の例文は「(今)、私はギター弾いています」ことを意味します。今まさに起こっている動作が強調されていて、著者の再臨信仰の強さがわかります。

10,11節には最後(再臨)まで耐え忍ぶことについての勧告です。

PPT10節を見てみましょう。

5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。

著者は旧約時代の預言者を例示して「辛抱と忍耐の模範としなさい。」と語ります。旧約時代の預言者たちが受けた苦難が、その後に続く者への模範となるのです。それは、彼らが苦難に遭った時も「主の名によって語った」という一点です。信仰ゆえに忍ぶべきものを忍び、苦しむ者のために祈ったことなどが全て模範です。預言者は主の権威によって語ったのです。著者は受取人が主の再臨を確信し、主の権威によって語ることを願っているのです。①忍耐は祝福に繋がる

実際、旧約時代の預言者たちは迫害を受けていました。PPT伝承によればイザヤは、身体をのこぎりで二つに切られて殉教したとされています。この事を描いた多くの作品があります。手前の白い衣服の男がユダの第14代の王のマナセ王と言われています。また、エレミヤはエジプトでユダヤ人国粋派によって石打ちにあい殉教したと言われています。

PPT11節を見てみましょう。

5:11 忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐についてき、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。」とあり、「ヨブ」の名前があります。苦しみを耐え忍ぶ者の最後を義人ヨブの例を用いて語ります。ヨブはさんざん痛めつけられ、愛する一切のもの奪われるなかにあって、色々と信仰がためされましたが、最後は主を信じて悔い改めました。それ故、主から豊かな報いを頂いたのです。

ヨブ記の最後を見てみましょう。PPT 42:12 主はその後(のち)のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。 42:13 彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、

主イエスご自身も耐え忍ぶことについて、次のように語られています。PPTマタイによる福音書10章22節を開いてみましょう。

 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。①忍耐は祝福に繋がる

②自分の発言には責任を持つ

PPT12節を見てみましょう。

5:12 わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。

今日の聖書箇所の小見出しは忍耐と祈り」とあるように、今、学んできた7-11節が忍耐についての勧めで、13以降が祈りについての勧告です。12節は中間にあるのですが、どちらの勧めにでもなく、しいて言えば誓約についての勧めです。「何よりもまず」とあるように、著者はこの戒めの重要性を告げ、「誓いを立ててはなりません。」と語ります。続いて「天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」とあります。この箇所は主イエスが山上の垂訓で誓うことについての教えを念頭にいれたものです。PPTマタイによる福音書5章33-37節を見てみましょう。

誓ってはならない 5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

『然り、然り』『否、否』は古い表現ですので、わかりやすく言えば「イエス」は「イエス」、「ノー」は「ノー」です。主は、「イエス」は「イエス」、「ノー」は「ノー」とだけ言えば十分と語られました。それは、守れもしないことを誓うな。自分の言ったことを守る人になりなさいと教えられたのです。人間の発言には責任が伴います。誓ってその責任を果たすと言いながら、人間の弱さ、不誠実さによりそれが破られてしますと「裁きを受け」てしまうのです。②自分の発言には責任を持つ

③教会を離れてしまった方のために祈る

PPT13,14節を見てみましょう。

5:13 あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。5:14 あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

先程、お話した通り13節以降は祈りにつての勧めです。「苦しんでいる人、喜んでいる人、病気の人」とあるように人はそれぞれの状態におかれるものです。そして、これが人間の生活です。喜びも悲しみも経験しますが、主はどんな場合でも人を主に立ち帰らせるのです。「苦しんでいる人」は祈る。「喜んでいる人」は主を賛美する。「病気の人」は長老からオリーブ油を塗って頂き祈って癒しをもらうのです。

この聖書箇所を根拠として、オリーブ油を塗り病の癒しを祈ることをカトリック教会では「病者の塗油」とい七つの秘跡の一つです。プロテスタント教会でも教団、教派によりオリーブ油を塗り病の癒しを祈ることはありますが、聖礼典ではありません。病人の癒しについて、私たちが所属する日本ホーリネス教団では神癒と言い、PPT四重の福音の一つです。神癒とは神の力により信仰によって肉体の疾病の癒されることを信じることです。注意して頂きたいことは神癒を強調するあまりに医薬に頼ることを罪悪視したり、そのような人を裁いたりしてはならないのです。聖書は医薬を認めています。ルカによる福音書の記者のルカは医者でした。開きませんが、コロサイの信徒への手紙の4章14節には「愛する医者ルカ」とあり、これは神が医者という職業、医業を認めていることに他ならないのです。

PPT15,16節を見てみましょう。

5:15 信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。5:16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

「信仰に基づく祈り」は、苦しみも喜びも病のときも祈り続けられるものでなければなりません。

「信仰に基づく祈り」には病人を「起き上がらせ」る力があります。罪を告白し合い」とありますが、病の原因が罪の結果であるなら、その人に謝罪するのです。そうすれば、主が「赦して」くださり、結果として病気も癒してくださるのです。お互いに不平不満を言い合い裁きあうのではなく、御前に悔い改めて罪を告白し、お互いのために祈ろうではありませんか。苦しみのときも喜びのときも病のときも教会全体のこととしようではありませんか。使徒パウロはローマの信徒への手紙12章15節で次のように述べています。

PPT 12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

PPT17,18節を見てみましょう。

5:17 エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。5:18 しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

信仰のない祈りは無意味です。信仰なくして祈りは出来ません。著者は、このことを強調するために「エリヤ」の例を用いて証明をします。「エリヤ」は旧約時代を代表する偉大な預言者ですが、「わたしたちと同じような人間」にすぎません。ですから、偉大な預言者であるから祈りが聞かれたのはなく、あきらめることなく「熱心に祈った」から「天から雨が降り、地は実をみのらせました。」信仰の力により祈りが答えられたのです。

列王上18:41,42を開いていましょう。PPT◆干ばつの終わり 18:41 エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる。」 18:42 アハブは飲み食いするために上って行き、エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝の間にうずめた。旧約聖書にはエリヤが干ばつのために祈ったという直接の記述はありませんが、この箇所(列王上18:41,42)から干ばつが終わるためにエリヤが熱心に祈っていたことが容易に推測できます。

PPT19,20節を見てみましょう。

5:19 わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、5:20 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。

「わたしの兄弟たち」とあります。同じキリスト者に対する深い兄弟愛の呼びかけで、主題を改めたり特に重要な内容を知らせたりする場合に使っています。1章2節が最初でこの19節が8回目で最後です。「真理から迷い出た者」とありますが、教会から離れ信仰があやふやになってしまった人や信仰を捨ててしまった人のことです。その人たちにことを20節では「罪人」と厳しく言い換えられています。以前、お話をしたように教会とキリスト者にも社会的責任はありますが、教会の第一の使命は宣教で、キリスト者の第一の使命は宣教の証人となることです。ですから、教会から離れたり、信仰を捨ててしまったりした人を「真理へ連れ戻」さなければならないのです。

(残念ながら私たちの教会でも足が遠のいてしまった方がいます。)

言うまでありませんが、教会から離れてしまった方を力ずくで連れ戻すことは出来ません。エリヤが祈ったようにあきらめることなく、その方が戻ることを熱心に祈り続け、主から示されたことを実行してまいりましょう。

Today’s Take-away

①忍耐は幸せに繋がる、②自分の発言には責任を持つ、③教会を離れてしまった方のために祈る

Thinking Time あきらめてしまった祈りはありませんか