• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年4月2日主日礼拝

説教題:恐れるな!私は助けた!聖書箇所:イザヤ書41章1,2節、8-16節

41:1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。 41:2 東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き/国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。この人の剣は彼らを塵のように/弓は彼らをわらのように散らす。41:8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。41:9 わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。41:10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。41:11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。 41:12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。 41:13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。 41:14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。 41:15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする/新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。 41:16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。

ハレルヤ! 4月の第一主日を迎えています。新年度、2023年度が始まりました。今年度も宜しくお願いします。今日から受難週に入りましたが、今日は今年度の御言葉の41章10節を中心に41章1,2、8-16節から「恐れるな!私は助けた!」と題しお話をします。ご一緒に学んでまいりましょう。イザヤ書を理解する上で、いくつか覚えておきたいことがあります。先ず、イザヤという名前はヘブライ語で「主(ヤハウェ)は救う」という意味です。そして、イザヤ書は3部に分けることが出来ます。第一部 捕囚以前(1:1-39:8)第二部 捕囚にある神の民への良いお知らせ(40:1-55:13)、第三部 捕囚後の神の民への警告と約束(56:1-66:24)で、今日の聖書を含む第二部が中心と言えます。

①真の解放者は主なる神

1,2節を見てみましょう。41:1 島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。 41:2 東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き/国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。この人の剣は彼らを塵のように/弓は彼らをわらのように散らす。「島々よ」とありますが、地中海にある島々のことですが、広義で解釈をすれば全世界の国々とも言えます。「裁きを行おう。」とあります。いつの日か必ず全ての人々が主なる神の御前に立たされるのです。2節に「東からふさわしい人を奮い立たせ、王たちを従わせたのは誰か。」とありますが、ペルシアのキュロス王です。イザヤ書44章28節からわかります。44:28 キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。イザヤは紀元前八世紀後半活躍したユダ王国最大の預言者です。そして、イザヤは約200年後の紀元前539年にペルシアのキュロス王によって神の民がバビロン帝国から救い出されるという預言を託されました。この預言が成就したことがエズラ記1章1節に記されています。確認をしてみましょう。1:1 ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。バビロンからの解放の預言はエレミヤをも通して語られていたのです。神は約200年後に起こる出来事と人名さえもおわかりなのです。時空を超えた全知全能なお方で、世界は歴史をも支配される神によって動いているのです。「主は、、、、キュロスの心を動かされた。」とあるようにバビロンからの真の解放者は主なる神なのです。キュロス王ではありません。私たちの人生にも苦しいときやどうしていいかわからない時があります。そんなときに主は人を用いて解決をしてくださる場合がありますが、その背後でが主が働かれていることを忘れてはならないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは真の解放者は主なる神ということです。

②生まれる前から助けられている

10節を見てみましょう。41:10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。Is.41:10 Fear not, for I am with you;Be not dismayed, for I am your God.I will strengthen you,Yes, I will help you,I will uphold you with My righteous right hand.’(NKJV)10節は今年度の私たちの教会の年度聖句です。今から50年近くも前のことですが、現聖書学院教会の名誉牧師の小林和夫先生が経験されたこの聖句に関する話をご紹介したいと思います。当時、小林先生は個人的にも牧師としても、また、聖書学院の教授としても非常に辛い状況が続いていました。「このままで行ったら、私の生涯はどうなるだろうか」と苦悩する日々が続いていました。そんなある日、大先輩の山崎亭治先生が突然来られ、「小林先生これをあなたにあげますよ」と言って、長い掛け軸を下さったそうです。その掛け軸にはイザヤ書41章10節の御言葉が文語訳で書かれていたのです。見てみましょう。41:10 おそるるなかれ 我なんぢとともにあり 驚くなかれ我なんぢの神なり われなんぢを強くせん 誠になんぢを助けん 誠にわがただしき右手なんぢを支へん。小林和夫先生は大変励まされ、その後も何かあるごとにこの掛け軸を見て祈ったそうです。10節の冒頭に、「恐れることはない」とあります。聖書には恐れるなという言葉が365回記されていますが、今日の聖書箇所には3回も記されています。新しい年度を迎え、今後、私はどうなるのだろうか。私たちの教会はどうなるだろうと思われる方もおられるかもしれませんが、「恐れることはない」のです。その理由が「わたしはあなたと共にいる神、わたしはあなたの神。」だからです。「私は神だ、私は時空を超えた全知全能の神だ」ではありません。時空を超えた全知全能の神が「わたしはあなたと共にいる神、わたしはあなたの神。」と宣言をされているのです。英語聖書では、I am with you. I am your God.です。当時、イスラエルの民は神の民と呼べるような状態ではありませんでした。神の民であればその国は栄えその文明を誇る国であるはずが、不信仰ゆえに神から見捨てられてしまっていたのです。バビロンの捕囚です。どこから見ても神がいるならこんなことにはならないと思われる状態でした。それにもかかわらず神は「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。」と言われるのです。続いて「勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」とありますが、この箇所には三つの動詞があります。「与える、助ける、支える」です。I will strengthen you,Yes, I will help you,I will uphold you with My righteous right hand.’(NKJV)英語の聖書ではwillが使われていますので未来形です。英語には過去形、現在形、未来形と時間の流れにしたがったもので、それぞれに完了形、進行形、完了進行形ありますので、12種類の時制があるのですが、ヘブル語には完了形(perfect)と未完了形(imperfect)のたった二つしかありません。ヘブル語の動詞には過去、現在、未来という概念はなく、既に完了しているかそうで無いかです。10節は原語のヘブル語では、この三つの動詞は全て「完了形」が使われています。ですから、この箇所は「勢いを与えるつもりだ、助けるつまりだ、支えるつもり」ではないのです。「勢いを与えた、助けた、支えた」というその行為が完了していることを意味しているのです。また、「右の手」とは権威や力を象徴する言葉です。このような神の言葉に対して、「神様、有難うございます。感謝します。」という言葉は一つも書かれていません。民は神に背を向けていたのです。11,12節を見てみましょう。41:11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。41:12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。11,12節は主が「既に与えられた、助けられた、支えられた」結果です。たとえどんなに力があるものでも主はそれらを防ぎ「無に等し」くし、「むなしく」させる力があるのです。13,14節を見てみましょう。41:13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。41:14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。「わたしは主、あなたの神。」とありますが、10節の「わたしはあなたの神」を繰り返し強調しています。13節の最後に「助ける」とありますが、この助けるもヘブル語では完了形ですので、「助けた。」です。14節の冒頭に「あなたを贖う方」とあります。贖うという言葉はイザヤ書の第一部では一回しか記されていませんが、第二部以降では20回以上も使われ、重要なキーワードです。エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民を贖い出されたように、バビロンの捕囚の身から贖い出されるのです。贖いとはお金を払って買い戻すことです。2004年にご召天されましたが、ホーリネス教団の大先輩に千代崎秀雄先生がいます。最後は東京中央教会の牧師でした。千代崎先生が聖書学院を卒業してから数年後の出来事です。佐原教会に遣わされ、大工さんの二階を借りていたのですが、ちょくちょくコソ泥に入られたそうです。大きなものは盗まれないのですが、気が付くと何かがなくなっていたそうです。ある日、千代崎秀雄は同労者の先生と古本屋に行きました。渡辺善太先生の著書に目が留まり見ていたのですが、急に「あっ!」という声を発したのです。同労者の先生が「千代崎先生どうしたのですか」と尋ねると、千代崎先生は「これを見てください」といいその本の裏を見せました。何とそこには千代崎秀雄と書いてあったのです。コソ泥によって盗まれた千代崎先生の本がこの古本屋に売られていたのです。千代崎先生は「私の本なのだけどなぁ」と思いつつも、その本に付けられていた値札通りの価格で買い戻されたのです。その時、同労者の先生から「千代崎先生、損をしましたね」と言われると、千代崎先生は「これは『あがない』ということをよく表すんじゃない。僕はそのことを知った。僕はこのくらいの代価を払っても、高くはないと思いますよ」と語られたのです。私たちは元来、神に造られた存在です。しかし、罪を犯して罪という主人のもとに売られたようなものです。しかし愛と哀れみ恵み深い父なる神は御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。御子イエスの血潮という代価をはらって私たちを罪という主人からもう一度買い戻して解放してくださったのです。贖いとはこういうものです。一度、人手に渡ってしまったものをもう一度、代価を払って買い戻すことなのです。イスラエルの民は、不信仰ゆえにバビロンに捕囚され70年、奴隷のような生活を強いられ続けてきたのです。神はその民に対して「虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ」と語りかけます。「虫けらのような」とは侮蔑的な意味ではなく、無力で小さなものに使われる親愛の表現といえます。「ヤコブ」とはイスラエルの12が部族の象徴です。この無力でちいさな虫けらのような民に対して、「イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」というのです。この箇所の助けるもヘブル語では完了形ですので、「イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助けた。」です。10,13,14節で「恐れるな」と「助ける」が三回も記されています。主はイスラエルの民への助けを保証するのです。このような確実な補償を受けるのは、イスラエルが大きな勢力を持ち主に忠実で主に喜ばれる働きをしていたからではありません。そのことが「虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々」という呼びかけでわかります。たたただ、主の恵みによるものなのです。小さな虫けらのような民でも主が助けてくださったので主の僕としての働きができるようになったのです。キリスト者でも信仰が弱まったりぐらついたりすることがあります。その弱い虫けらのような私たちにも主は既に助けたと約束の御言葉を与えてくださったのです。御言葉とは単に書かれている格言や名言といったものではありません。私たちの一人一人に力を与えるものなのです。詩編19編7-11節には次のように記されています。リビングバイブルで見てみましょう。7-8主のおきては完全で、私たちを守り、賢くし、喜びと光を与えます。9主のおきては純粋で正しく、変わることがありません。10また、金よりも慕わしく、みつばちの巣からしたたるみつよりも甘いのです。11主のおきては、危険に近づかないように警告し、従う者には祝福を約束します。ところで、私たちは「助ける」というと、今困っている人を助けることだと思うかもしれませんが、主なる神が「助けた」という意味はそれだけではないのです。 8,9節からそのことがわかります。41:8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。41:9 わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハム末よ」とありますが、キリスト者とは霊的なアブラハム、ヤコブ、イサクの子孫なのです。9節に「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。」とありますが神の助けとは今、問題が起こっているから助けるだけではなく、私たちがこの地上に生まれて来る前から私たちを選び、神の助けの対象としておられるのです。開きませんが、エレミヤ書 1章5節と詩編139編16節を読まれてください。キリスト者は信仰告白をした日や洗礼の恵みに預かった日を大事にします。これはこれで大事ですが、そのはるか前から、神の助けは私たちが生まれる前から既に始まっているのです。それは、私たちが人生のどのような戦いの中を通るときにも、神は助ける対象として虫けらのような私たちを選んでくださっているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは生まれる前から助けられているということです。

③主を喜び褒め称える

15,16節を見てみましょう。41:15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする/新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。 41:16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。15,16節は「恐れるな」と言われる理由を比喩的に語ったものです。神は「打穀機」のようにイスラエルを強めます。その「打穀機」「新しく、鋭く、多くの刃」が付いているのです。その強靭な脱穀機のようにイスラエルの民は「山々を踏み砕き、丘をもみ殻」とし、もみ殻はあおられ「風が巻き上げ/嵐がそれを散らす」というのです。主が助けられると小さな虫けらのようなイスラエルの民に圧倒的な力が与えられるのです。そして、おそれることはやみ、「主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。」ようになるのです。私たちが生まれる前から主なる神は私たちを助け続けてくださっているのです。恵みとしかいいようがありません。このことがわかれば主を喜び褒め称えざるを得ないのではないでしょうか。今日、最後に覚えて頂きたいことは主を喜び褒め称えるということです。

Today’s Take-away

①真の解放者は主なる神、②生まれる前から助けられている、③主を喜び褒め称える

Let’s do it!

41章は法廷に例えられます。下記を念頭にいれて41章全体を読まれてください。(21-29節は偶像崇拝者について)

神が裁判長で、原告はイスラエル、被告は敵であるバビロン、証人は異邦人

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