• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年5月14日主日礼拝

説教題:キリストという光がある~健全な教えを学ぼう~ 聖書箇所:テトスへの手紙1章10節-2章10節

1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。 1:11 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。 1:12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」 1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、 1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。 1:15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。 1:16 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。◆健全な教え 2:1 しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。 2:2 年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。 2:3 同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。 2:4 そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、 2:5 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。 2:6 -7同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、 2:8 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。2:9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 2:10 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。

ハレルヤ!5月の第二主日を迎えました。テトスの手紙を講解で学んでおり、今日はその二回目です。前回は1章1-9節を通して、「指導者の資格~御言葉が羅針盤~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①神の時に期待する、②非難される点がない人格者を目指す、③御言葉が羅針盤でした。今朝は、続く1章10節-2章10節から「キリストという光がある~健全な教えを学ぼう~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストという光がある

10節から順番に見て参りしょう。1:10 実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。教会は羊の群れに例えられます。この羊の群れである教会は、たえず羊の衣を着た狼の脅威にさらされているのです。教会の指導者はこのことに留意する必要があります。直前の9節には「反対者」とありました。 1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。「反対者」についての具体的な言及が10節です。この手紙の受取人の中には「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者」が多くいたのです。「不従順な者」とは教会の規則に服従しない者のことです。教会の規律を破り秩序を乱す者です。「無益な話をする者」とありますが、「無益な」の部分の原語の意味は空しい、空虚なという意味で異教の礼拝を指す形容詞として使われていました。パウロは皮肉を込めて、教会に入り込んだ人を「無益な話をする者」と呼んでいるのです。「人を惑わす者」とは間違ったことをあたかも真実、事実のように教えて人を欺く者のことです。続いて「特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。」とありますが、「割礼を受けている人たち」とはユダヤ教的律法主義のキリスト者です。11節を見てみましょう。1:11 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。「その者たちを沈黙させねばなりません。」とあるようにパウロは厳しく断罪をします。その理由が後半の「彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。」です。このような者たちが羊のような恰好をした狼として、教会内で活動するのを断じて許してはならないのです。彼らは口では神のためなどと高尚な理由を掲げるでしょうが、真の動機は自分たちの「利益を得るため」に他ならないのです。極めて利己的です。福音でないものを教え「数々の家庭を覆して」しまっていたのです。 12節を見てみましょう。1:12 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、パウロはクレタ人の短所を古人の言葉を引用しています。「クレタ人はいつもうそつき、/悪い獣、怠惰な大食漢だ。」とありますが、元々は紀元前6百年頃に生存していたと思われるギリシャの詩人であるユピメンデスの言葉です。この言葉からギリシャ語でクレーティゾーという言葉が生まれその意味は「クレテ人のように嘘をつく」です。なぜそのように言われるようになったかですが、伝承によればクレタ島にある「ゼウスの墓」がその理由のようです。ゼウスはギリシャ神話で最高神です。その死ぬはずのない最高神が墓に葬られているのですから、クレテ人は噓つきと呼ばれ始めたようです。パウロはそのようなクレタ人の民族性を考慮しながらも、テトスに戒めを伝えるのです。13,14節です。1:13 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、 1:14 ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。二つのものに「心を奪われないようにさせなさい」と戒めています。「ユダヤ人の作り話」「真理に背を向けている者の掟」です。「ユダヤ人の作り話」とは人間によって作られた聖書の教えではないことです。いわゆる偽典も含まれるでしょう。同段落PPT偽典とは旧約聖書の正典・外典に含まれない文書で、旧約偽典とも呼ばれていて、ヨベルの書、第1,第2エノク書等多数あります。「真理に背を向けている者の掟」とは異端の教えと解釈が出来ます。このように一見、正しい聖書の教えであるように思えても偽の教えであったり異端の教えであったりするのです。そして、このことは今日に至るまで続いているのです。 15節を見てみましょう。1:15 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。「清い人」とは心の清い人であり、信仰によって清められている人です。そういう人にとって宗教的にきよいものとかそれ以外の清さという区別がありません。神の御旨に従って用いられるときは全ての物は清いのです。逆に心が汚れている不信仰な人には「何一つ清いもの」がないのです。それはその人たちは「知性も良心も汚れて」いるからです。15節は非常に厳しいことを突き付けていますが、この箇所を見方を変えて言えば「汚れ切った者をいかに清くするか」なのです。ここにイエス・キリストという光があるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストという光があるということです。福音です。 16節を見てみましょう。1:16 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。「嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。」とあります。口で信仰を告白しても行為においてそれを否定している人を三つの言葉を用いて厳しく非難しています。「嫌悪すべき」と訳された原語は箴言17章15節にも使われています。見てみましょう。 17:15 悪い者を正しいとすることも/正しい人を悪いとすることも/ともに、主のいとわれることである。「いとわれる」と訳されている部分がそうです。「反抗的」とは神が清さを求める聖なるお方であることを認めないという意味です。「失格者」と訳された原語は色々な場面で使うことが出来ます。偽造通貨に使われることもありますし、怖気づいて戦場から逃げ出す臆病な兵士に使われる場合もあります。捨てられてしまった物にも使われます。いずれにしても「失格者」とは無用な人を意味します。「こういう者たちは」神と人にとって無用な者なのです。

②生きた信仰の手本となる

2章1-8節はキリスト者の品性につての勧めです。2章1節を見てみましょう。2:1 しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。「しかし、あなたは、」とあります。クレタ人は自堕落でした。パウロは彼らのことを考えながらテトスにあなたは、神と人にとって無用ではなく有用なのだから「健全な教えに適うことを語りなさい。」と語ります。「健全な教え」と訳された原語はこの手紙の1章9節や同じく牧会書簡であるテモテへの手紙でもよく用いられています。1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。開きませんがテモテへの手紙一4章6節,6章3節、 テモテへの手紙二1章13節,4章3節を読まれてください。キリスト者にとって教えと実生活とは一致、調和しているものでなければならないのです。具体的な教えが2節以降に記されています。2節を見てみましょう。2:2 年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。2節は「年老いた男」への勧めです。年をとると子どものようになりわがままになる人がいます。十分に働いたのだから残りの人生を好き勝手に過ごしたいという考えからでしょう。しかし、主の前ではむしろ逆です。主の前に立つ日が近づいているのですから、益々主の前で信仰生活に励み人生をしっかりと締めくくるべきなのです。「節制、品位、分別」とありますが、これらは神の賜物ですが、それらに加え「信仰と愛と忍耐の点で健全であるよう」勧めています。3節を見てみましょう。2:3 同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。3節は「年老いた女」への勧めです。「聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。」と勧めています。大酒のとりこにならず、」とあります。昔から大酒を飲む女性の方がいたことがわかります。少し前のことですが、コロナ禍、アルコール依存症になってしまった女性の方の話がTVで紹介されていました。在宅勤務が増えたこと、様々なストレスを抱え、飲酒の量が増え気が付けば周りに迷惑をかけ、自分ではどうしょうもできず、専門医のお世話になり改善に向かっているとの内容でした。年配の婦人を含めキリスト者は主の愛で心を満たして生きるべきなのです。使徒パウロがエフェソの信徒への手紙5章18-20節で述べている通りです。PPT 5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。4,5節を見てみましょう。2:4 そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、 2:5 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。「そうすれば」とあります。教会の中での婦人の働きは重要です。中でも年配の婦人の働きは非常に大切であって、若い婦人たちへの生きた信仰の手本となるからです。4,5節は「年配の婦人」から「若い女」への教えるべき七つのことが記されています。「夫を愛し、子供を愛し、 2:5 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従う」です。これらは全て家庭に関することです。先週もお話をしましたが、家庭は社会の根本ですので家庭を大事にすることが求められるのです。これが主の御心であることは「神の言葉が汚されないため」という説明からわかります。大人にとって家庭とは憩いの場です。しかし、こどもにとって家庭は憩いの場であると同時に親から人生を学ぶ教育の場でもあります。親はこのことを忘れてはいけないのです。こどもを愛するとは、わがままを聞いてやることではありません。人間として独り立ちするのに必要なものを家庭生活の中で体得することです。6-8節を見てみましょう。2:6 -7同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、 2:8 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう6-8節は「若い男」についての教えです。「思慮深くふるまうよう」に勧められています。若い男性には意気込みはあっても人生経験には乏しいものです。知識や経験不足からくる不安もあるでしょう。ちょうど自動車教習所の運転に例えられます。教習所内のコースでは不安なく走れても仮免許を取り路上教習では大きな不安を感じるものです。逆に知識や経験不足ゆえに若者は自信過剰になり横柄な態度をしてしまうこともあるでしょう。ですから、「思慮深くふるまう」ことが求められるのです。このことについてパウロはテトスに「あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、 2:8 非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。」と教えています。若者には良い模範が必要です。若い時に成熟したキリスト者と過ごすことができることは何と幸いなことではないでしょうか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは生きた信仰の手本となるということです。

③キリスト者の行為が未信者を導く

9,10節を見てみましょう。2:9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 2:10 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。9,10節は「奴隷」についての教えです。この手紙が書かれた当時は、奴隷制度が存在していた時代でした。「わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります。」とあります。この時代の教会において年配の方や若者だけではなく奴隷も大きな役割を果たしていましいた。とくに奴隷がキリスト者で主人が未信者の場合です。奴隷であるキリスト者は日常の実生活、を通して未信者の主人へ福音を示す以外の方法がないからです。勿論、これは全てのキリスト者と未信者にもあてはまることです。中世イタリアで最も著名な修道士の聖フランチェスコには次のような逸話があります。ある若い修道士に「さあ町に行って説教をしょう」と言い出かけました。一軒一軒の家をまわり食料をもらっていました。若い修道士がフランチェスコに「私たちはいつ説教をするのですか」と尋ねるとフランチェスコは「私たちの行為の一挙手一投足が説教なのだよ」と答えました。教会に来ようとしない方には私たちの行為がキリストに導く証となるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト者の行為が未信者を導くということです。

Today’s Take-away ①キリストという光がある、②生きた信仰の手本となる、③キリスト者の行為が未信者を導く

Thinking Time 未信者の方に躓きを与えていませんか