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2023年5月21日主日礼拝

説教題:神の恵みが現れた!~良き業に励む~ 聖書箇所:テトスへの手紙2章11節-3章3節

2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。◆善い行いの勧め3:1 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、3:2 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。3:3 わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。

ハレルヤ!5月の第三主日を迎えました。テトスの手紙を講解で学んでおり、今日はその三回目です。前回は1章10節-2章10節を通して、「キリストという光がある~健全な教えを学ぼう~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①キリストという光がある、②生きた信仰の手本となる、③キリスト者の行為が未信者を導くでした。今朝は、続く2章11節-3章3節から「神の恵みが現れた!~良き業に励む~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストという神の恵みが現れた

11節から見て参りましょう。2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」とあります。11節で強調されていることは「神の恵み」、恩寵です。聖書学者のW・バークレーは11節を次のように解説をしています。「新約聖書の中でこの一節ほど受肉の道徳的力を生き生きと説明している箇所は稀である」と。人はみな、生まれながらの罪人です。それゆえに永遠の裁きを受けなければならない者でした。その罪びとを救うため、神は永遠の昔から人類の救いを用意してくださっていたのです。このことは預言者を通じて繰り返し述べられ、キリストをこの世に遣わし実現したのです。この恩寵についてパウロはテモテへの手紙一でも記しています。確認をしていましょう。2:4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。「すべての人々」には先週学んだ老若男女、自由人、奴隷も含まれます。年齢、性別、人種、地位、身分といった区別はありません。全ての人です。この全ての人が救われるという恩寵が「現れました。」とパウロは語るのです。人を救い、救われた人の信仰生活を成り立たせるものは全て恵み、キリストという恵みです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストという神の恵みが現れたということです。 パウロは救いの恵みについて12-14節で具体的に語ります。 12節を見てみましょう。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、「不信心と現世的な欲望を捨てて」とありますように、この恵みは「不信心」「現世的な欲望」を戒めています。「不信心」には偶像崇拝や不道徳が含まれます。偶像は形のあるものばかりではありません。地位や名誉など無形のものもそうです。神より大事にしているものがあれば、それは偶像に他ならないのです。「現世的な欲望」には性欲や物欲など快楽、権力、所有物に対する異常な執着、欲望のことです。さらに「思慮深く、正しく、信心深く生活する」よう求めます。「思慮深」く生活することはこの手紙に記されている指導者たち、老人たち、若い男女にも要求されていたことです。「正しく」生活することとは、神の要求に従って生きるということです。善悪の基準は神なのです。これらの「思慮深く、正しく、信心深く生活する」ということはキリスト者のあるべき姿を示しています。13節を見てみましょう。2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。「祝福に満ちた希望、偉大なる神」とありまあすが、これは続く「救い主であるイエス・キリスト」を言い換えたものです。同格の表現です。13節は「キリストの栄光の現れを待ち望む」とあるように再臨待望を説いていますが、続く14節はキリストの贖いとその目的を説いています。2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。14節の御言葉は主イエスが語られたお言葉を思い起こさせます。マルコによる福音書10章45節を開いて見ましょう。10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」「贖い」とありますが、ここにある贖いとは罪に服従してしまっている人々を解放することです。人は誰でも、キリストを救い主と信じるときに、この解放を経験することが出来るものです。キリストがご自分の命を捧げて、人々を罪から解放する目的は、解放された人々をご自身の民とし、御心に沿った良き業に励む者とするためです。キリスト者とはキリストの命によって贖われたキリストのものなのです。所有者は自分ではなくキリストです。ですから、キリストに属するものは贖いの目的にふさわしいことが求められるのです。

②指導者にも弱さがある

15節を見てみましょう。2:15 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。15節はパウロからテトスへの勧め、指導者への勧めです。教会に立てられた指導者には、主から委ねられた務めが幾つかありますが、最たるものは御言葉を語ること、説教です。「十分な権威をもって」とあります。神の言葉を取り次いでいるのでそれにふさわしい権威をもって話なさいと伝えます。続いて、「語り、勧め、戒めなさい。」とあります。指導者は先ず御言葉、福音を「語り」ます。しかし、全ての人がその語られた言葉に従うとは限りません。ですから、次にすべきことが「勧め」です。この勧めと訳された原語の元々の意味は「自分の近くに呼び寄せる」で、「慰める、励ます」という意味もあります。御言葉に従えないと感じている人がいたら慰め、励まし御言葉に従えるようにするのです。「戒めなさい。」とあります。残念なことにキリスト者のなかにも不品行といった大きな罪を犯してしまう人がいないわけではありません。そのような場合には「戒め」が必要になります。戒めとは単に罪を犯した方を責めるのではなく、曇ってしまった心の目を開かせること。麻痺してしまった良心を元の状態に戻してあげることなのです。そのためには何が必要なのでしょうか。鍵は「戒めなさい」と訳された原語にあります。この原語はヨハネによる福音書16章8節でも使われています。開いて見ましょう。16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。「その方」とは聖霊のことで、「明らかにする」と訳されている原語は「戒めなさい」と同じです。この原語から認罪、罪を自覚させる戒めとは聖霊の働きよることがわかります。この「語り、勧め、戒めなさい。」という三つの働きは非常に重要で、この働きを組み合わせることにより、人を救いに導くことが出来ますし、既に主イエスを信じた人を成長させ、また、罪を犯してしまった人を悔い改めに導くことが出来るのです。このことは聖霊の働きであると同時に御言葉に従い、御言葉が語られることによってなされるものなのです。安政から昭和の初期に活躍をした金森通倫 1857年10月2日-1945年3月4日)という牧師がいます。同志社で学んだ後に牧会伝道者となり、柏木時代の聖書学院の教授をされていたこともあります。クリスチャン政治家の石破茂は曾孫にあたります。一時期、金森先生は人間中心的、合理的な立場にたち、十字架の贖罪性を批判する新神学に傾向してしまい、やがて牧会伝道者をやめ実業家の道を選びました。そんなある日、金森先生はたまたま淀橋教会の礼拝に出席していたのですが、御言葉に心を打たれ、「申し訳ありませんでした」と叫んだのです。その後、伝道牧会者に戻り救世軍やホーリネス教会、さらには米国伝道でも用いられたのです。先程、「金森先生はたまたま淀橋教会の礼拝に出席していた」と言いましたが、聖書には「たまたま」という概念はありません。聖霊の働きと御言葉が金森先生を牧会伝道者に戻したのです。勿論、背後の祈りもあったことでしょう。15節の後半に「だれにも侮られてはなりません。」とあります。人を救いに導いたり、人を成長させたりする場合に、このことは良く心得ていなければなりません。指導者は侮られてはいけないのです。だからといって権威を傘に着たり、指導者風を吹かしたりすることは禁物です。時々、指導する者と指導される者の関係を誤解している人がいます。指導者は完成、指導される者は未完成という考えですが、これは誤りです。指導者や教育者は模範となるべき存在ですが、人格的に完成された者ではありません。指導する者も指導される者も完成途上にあるのです。ですから両者とも弱さがあるのです。指導者はこのことを覚え、聖霊によって整えて頂く必要があるのです。この聖霊の働きによってはじめて「だれにも侮られ」なくなるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは指導者にも弱さがあるということです。 ですから、指導者のために祈ることも忘れてはならないのです。

③良き業に励む

3章1,2節を見てみましょう。3:1 人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、3:2 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。「支配者や権威者に服し、これに従い」とあります。これらはとりわけ発展途上にある教会にとって極めて重要なことです。上に立てられている権威に従うことは聖書の教えです。開きませんが、マタイによる福音書22章21節、ローマの信徒への手紙13章1-7節、ペトロの手紙一2章13-17節に記されていますので、後ほどお読みください。「支配者や権威者」、とあります。為政者がその典型でしょうが、広義には親や学校の先生も含まれるでしょう。為政者には世襲の場合もありますし、民主的に選挙で選ばれたケースもあるでしょう。いずれにしても私たちが為政者に従わなければならないのは、その人が立てられているのは、神がお許しになり、神がお立てになったからです。上に立つひとは神の代行者とも言えますが、その人の命令に従うのはその命令が御心にかなっている限りであることを忘れてはならないのです。続いて、「すべての善い業を行う用意がなければならない」とあります。ヤコブ書の講解説教でキリスト者にも社会的な責任があることをお話ししましたが、キリスト者は良い業をおこない社会に協力することが求められるのです。キリスト者だけで集い、社会から全く離れてしまうことがないようにしなければなりません。そうでなければ福音を述べ伝えることもできません。著者は更に「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならない」ことを勧めています。このような態度は、ただ外面的にそのような素振をすることではなく、キリストによって新しく生まれ変り成熟した者のあるべき姿なのです。私たちも御霊の実を結ばせて頂き、地の塩、世の光として主の働きを行おうではありませんか。今日、三番目に覚えて頂きたいことは良き業に励むということです。 

④福音には人を変える力がある

3節を見てみましょう。3:3 わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。1,2節の勧めは発展途上にある教会にとって大切ですが、クレタ人の性質を考えると困難とうつるかもしれません。そこでパウロは「わたしたち自身もかつては」と切り出し、主エスと出会う前の自分自身の事を「無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。」と語り、このような自分であっても福音によって救われて新しい者とされたのだ、だから、1,2節の要求は無理ではないだろうと暗に伝えているのです。3節には救われる前の人間の状態が描かれています。先ず「無分別」です。これは霊的なことについて理解することができないという意味において「無分別」なのです。次が不従順」です。具体的には良心を無視し、指導者の声に従わず、法律を違反することさえしてしまうのです。「道に迷い」とありますが、真理という道から迷い出てしまっているという意味です。放縦と自由を思い違え罪の奴隷に陥ってしまっているのです。種々の情欲と快楽のとりこ」とは節操のない生活や暴飲暴食、浪費などですが、これらは自分自身をコントロールすることが出来ないことの結果なのです。「悪意とねたみ」とあります。悪意とは心が悪い思いを持っていることで、そのことが言葉や行動になるのです。「ねたみ」が引き起こした結果については旧約聖書にも記されています。人類最初の殺人と言われているカインによる弟のアベルの殺人です。ヨセフが他の兄たちから受けた仕打ちもそうです。また、サウル王がダビデを付け狙い殺そうとしたことも「ねたみ」が原因でした。聖書はねたみについてどのように教えているでしょうか。コリントの信徒への手紙一13章14節を開いて見ましょう。 13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。「愛」の部分を神、キリストと替えるとピッタリしますが、自分の名前を入れるとどうでしょうか。私は恥ずかしくなります。救われる前の人間の状態の最後に「忌み嫌われ、憎み合っていた」とありますが、聖書の大切な教えの真逆です。ヨハネによる福音書を見てみましょう。 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。救われる前のパウロの状態は罪の百貨店のようなものですが、恵みによってパウロは目が開かれ主の働き人となり生涯を捧げたのです。このことについては次回、学びます。キリスト者にはクレタ島のような異教の社会にあっても信仰によって新しくされたものとして、それに応じた生活ができるものなのです。この節から福音が人を変化させるダイナミックな力がわかります。今日、最後に覚えて頂きたいことは福音には人を変える力があるということです。

Today’s Take-away ①キリストという神の恵みが現れた、②指導者にも弱みがある、③良き業に励む、福音には人を変える力がある

Thinking Time 神の恵みにどう応えますか