• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年5月28日主日礼拝、ペンテコステ礼拝

説教題:初代教会の姿から学ぶ 聖書箇所:使徒言行録 4章32-37節 

4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 4:33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 4:34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 4:36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

ハレルヤ!5月の第四主日を迎えています。私たちの教会ではテトスへの手紙を講解で学んでいますが、今日はペンテコステ礼拝ですので、講解説教はお休みとなります。ペンテコステの日に聖霊が弟子たちの上に降り、教会が始まりました。教会の誕生日です。福音は初代教会、エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリアの全土、そして、エルサレムから見れば地の果てのような日本にも届きました。今日の聖書箇所には初代教会の姿が描かれています。4章32-37節から「初代教会の姿から学ぶ」と題してお話をします。初代教会に見られる4つの特徴をご一緒に学んで参りましょう。

①一致する教会

32節から見て参りましょう。4:32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。「信じた人々の群れ」とありますが教会です。自分が罪びとであること、それゆえキリストを救い主と信じ受け入れた人の群れが教会です。続いて、「心も思いも一つにし」とあります。教会の力とは人数や経済力によるのではありません。どんなに大きく、豊かな教会でも、派閥がありいつも対立している、足の引っ張り合いをしているというのでは、その教会は、教会としては成り立ちませんし、神の栄光を表わすことはできないのです。教会に集う一人一人が心と思いを一つにして神の栄光を表わせるのです。心と思いを一つにすることとは教会員全員が全てのことに全く同じ考えをすることではありません。人は生まれや育ちが違います。好みも違うでしょう。ですから、様々な考え方があって当然ですし、それで良いのです。アメリカのメガチャーチでは年齢層や好みによって、礼拝の時間とスタイルをかえている教会もあります。以前、私が訪問した教会では、Young Adult Senior向けの三つの主日礼拝が行われていました。それぞれ讃美も異なりますし、メッセージも異なります。しかし、ひとつの教会です。好みや伝道の対象によって分けられたもので、それ自体が、独自の信仰や方向を持った教会ではないのです。一つの教会の中の三つの礼拝にすぎません。福音は一つです。キリスト者は一つです。主の愛において一つ、聖霊に繋がれて一つなのです。フィリピの信徒への手紙1章27の後半と28節の前半を見てみましょう。1:27bあなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。キリスト者、教会が一致することにより反対者にたじろぐことなく福音宣教ができるのです。初代教会の一つ目に特徴は一致する教会です。

②共有する教会

32節の後半に一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」とありますが、これは共産主義のことではありません。このことについては後ほどお話をします。「すべてを共有してた」とありますが、共有には二種類あります。先ず、物質的共有です。私たちの教会では家庭菜園を趣味としている方や畑を所有している方がいます。そうした方が、季節に応じた野菜や果物をたくさん教会に届けてくださり皆で分けています。本当に感謝しています。二つ目の共有は霊的な共有です。物質的なものを共有することに加え、霊的な共有です。教会とは信仰と目的において一つです。主に在る兄弟姉妹の愛のよるものです。霊的共有、霊的一致は健全な教会の一つです。ローマの信徒への手紙12章15.16節をアライブ訳で見てみましょう。ローマ12:15だれかが幸せで喜んでいる時には、いっしょに喜んであげなさい。悲しんでいる人がいたら、いっしょに悲しんであげなさい。12:16互いに心を一つにし、楽しく働きなさい。高ぶってはいけません。偉い人に取り入ろうとせず、かえって、身分の低い人々と喜んで交際しなさい。何でも知っているなどと思い上がってはいけません。私たちは主に在る健全な交わりを通して独善や高慢から守られるのです。また、お互いの交わりを通して愛を実践することが出来るのです。病の方の癒し等執り成しの祈りをすることもその一つです。私たちが所属する日本ホーリネス教団はジョンウエスレーの流れを汲みますが、ウエスレーは「独りぼっちのクリスチャンはいない」と言いました。初代教会の二つ目の特徴は共有する教会です。

③力強く証をする教会

33節を見てみましょう。4:33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。「大いなる力をもって主イエスの復活を証し」とあります。初代教会の三番目の特徴は力強く証をする教会です。

「使徒たちは」とありますが、使徒たちに限らず、信徒も伝道しました。エルサレムで迫害にあって外国に散らされていった信徒たちが、アンテオケまでやって来て、そこでギリシャ人にも伝道したのです。このことは開きませんが、Read使徒言行録11章19-21節に記されていますので、後ほど読まれてください。使徒たちはエルサレムで、ユダヤ人にしか伝道していなかったのが、信徒たちはユダヤ人だけでなく、ギリシャ人にも伝道していったのです。信徒の一人一人が聖霊の力によって「地の果てまで」のような場所へ伝道していく、それが初代教会の姿でした。福音はエルサレムから始まって、ユダヤ、サマリア、そして、ヨーロッパへとひろがり、ヨーロッパからアメリカへ伝えられました。そして、日本には、ヨーロッパやアメリカから多くの宣教師が来て、福音が伝えたのです。今日のように、交通、通信が発達しますと日本は地理的には「地の果て」ではなくなりました。インターネットを使えば国内は言うに及ばず海外の方とも無料でビデオ通話ができます。しかし、クリスチャン人口が長らく日本人の人口の1%に留まっている状況から判断すると霊的な意味では、日本や日本人はまだまだ「地の果て」にいるような状態です。日本人の多くは福音を聞いたことがなく、霊的には神から遠く離れているからです。日本人に伝道している私たちは、まさに、「地の果て」への伝道の使命を果していると言っても良いでしょう。伝道にはさまざまな困難がつきまとうかもしれませんが、聖霊の力をいただく時、私たちもキリストの証人となることができるのです。昭和の時代の話です。Aさんという女性のクリスチャンがいました。ある日、Aさんは宣教師の方から「私たちは誰かを導かなければなりません。そして、これは誰にでも出来ることです。」と告げられました。Aさんは戸惑いながら次のように答えました。「先生、うちはこどもが小さく手間がかかり、とてもそんな時間はありません。外出なんか出来ませんよ」と。すると宣教師は「でも、あなたのところへ誰かがくるでしょう。」と言いました。Aさんは「ええ、牛乳屋さんやクリーニング屋なら来ます」と答えました。宣教師は「それでよいのです。その方たちに話をすればよいのです」と言いました。とはいえ、Aさんは自宅にくる方になかなか話しかける勇気がありませんでした。しかし、ある日のディボーション箇所が使徒言行録1章8節でした。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となるAさんは聖霊の満たしを求め祈り、翌日、Aさんは自宅にきた牛乳屋さんに話しかけたところ、牛乳屋さんには悩みがあったらしく、会話が弾みました。そして、キリストのことを伝え、まもなくその牛乳屋さんは信仰を持ち救われました。その後もAさんは自宅にくる方に証をし続け10名もの方が信仰を持つようになったのです。キリストの証人になる、キリストを証しする、と言われたことを、弟子たちは、文字通り実践しているのですが、その力は、聖霊でした。ユダヤの指導者たちの迫害を恐れて逃げ隠れしていた弟子たちが、何者も恐れずに、キリストの復活を宣べ伝えることができたのは、聖霊の力以外にありえませんでした。力強い証、伝道の秘訣は聖霊の働きです。8節で着目をして頂きたいことは「わたしの証人となる」です。「わたしの証人となれ」とう命令ではなく「なる」という宣告なのです。主の宣告は必ず実現することを覚えたいと思います。

④献身的に支え合う教会

34,35節を見てみましょう。4:34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。自分の財産を処分してお互いに助け合っていたのです。初代教会の四番目の特徴は、献身的に支え合う神の家族の教会だったということです。初代教会の時代にキリスト者になるということは、大変なリスクを背負うことでした。最初のキリスト者はすべてユダヤ人でしたが、彼らはキリストを信じた時、ユダヤの会堂から追放されたのです。ユダヤでは会堂が社会の中心で、会堂から追放、破門されるということは、ユダヤの社会での市民権を失うことと同然でした。そのため仕事を失い、貧しくなった人々も多かったはずのです。しかし、「一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り」とありますので、実の家族のように助け合っていたのです。私は、今日の説教準備をしているときに二人の家族愛に満ちた献身的な方を思い出しました。一人目の方は、今年のWBCメキシコ代表のランディ・アロサレーナさんです。WBCは日本の優勝で終わりましたが、アロサレーナさんが侍ジャパンの得点をファインプレーで再三阻止したことは記憶に新しいと思います。アロサレーナさんは2014年に父親が亡くなりました。2015年にキューバから8時間もカヤックのようなボートを漕いでメキシコに亡命したのです。正に命がけの亡命でした。その理由は父親が亡くなったので愛する家族を養うためです。キューバ時代から野球で活躍をしていましたが、メキシコの地で花が開いたのです。SNS上で神様への感謝の言葉や好きな聖句をUpしていますのでキリスト者でしょう。アロサレーナさんの半生の映画化が決まったそうです。楽しみです。二人目の方は、私が神学生時代、夏休みでバイトした飲食店のバイト仲間です。ミャンマーから来ていたグレンさんという方です。とても忙しいお店でした。私は10時~16時まで洗い場を担当していたのですが、帰宅すると顔がげっそりしていて、体重を測ると一日で二キロ近く痩せたこともありました。ある晩、別の飲食店の前を通るとグレンさんに似た人が働いていました。しばらく見ているとその方が私に手を振りました。グレンさんだったのです。翌朝、バイト先でグレンさんに「二つもバイトしてきつくなかい。」と尋ねると、グレンさんは「いや三つしているんだよ。深夜はビルの掃除をしているんだよ」と答えました。私は「そんなにバイトしたら体をこわすよ。やめたらと」と伝えました。すると彼は嬉しそうな顔で「大丈夫、大丈夫、ミャンマーの家族に仕送りをしているんだよ」と答えました。この時の笑顔を忘れることはできません。ペンテコステの日以前の信者は百二十人でした。ペトロの説教の後には三千人の人々が加わり、その後も次々と人々が加わり、短い期間に男性だけでも五千人になりました。そのことは開きませんが使徒1章15節、2章41節、4章4節をお読みください。このように成長をした背景には、初代教会には主にある兄弟愛、家族愛に溢れていた方がいたのです。また、人々は主イエスが自分のために死んでくださったということを信じただけでなく、これからは、この主イエスのために生きるのだという決意をもって、教会に加わったのです。神のために生きる、キリストのために生きるという決意、これが「献身」です。「献身」を狭義で言えば、神学校に行って牧師、伝道者、宣教師になることとですが、ほんとうの献身とは、一人一人のクリスチャンがその置かれた場所で神を第一にして生きること、自分自身を神の手に任せて生きることにあります。そういう意味で初代の教会は献身者の群れでした。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」というのは、神の家族の一員として神への献身の表われの一つだったのです。36,37節を見てみましょう。4:36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 4:37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。「バルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフ」とあります。著者のルカはバルナバ(ヨセフ)の行動を引き合いに出します。バルノバは地中海のキプロス島出身のレビ人で、先祖は祭司をしていたと考えられています。バルナバはエルサレム教会の有力な信徒で、パウロが回心をしたとき誰も受け入れなかったのですが、バルナバは教会に受け入れたばかりか、後にタルソまでパウロを迎えに行っています。また、パウロの第一回目の伝道旅行の同労者でした。バルナバについては使徒言行録9章以降やガラテヤ書に記述がありますが、一か所開いて見ましょう。使徒11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。そのバルナバが「持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」のです。このことから初代教会が共産主義でなかったことがわかります。というのは、共産主義は私有財産を認めていないからです。個人の自由を認めず、権力によって、すべてを国家のものにしてしまう制度ですが、初代教会では、資産を持っている人が強制的にそれを手放さなければならないというのではありませんでした。バルナバは強制されて財産をささげたのではありません。信仰のゆえに貧しくなった人々に、愛の手をさしのばすために、自発的に、持っているものをささげたのです。主は、一致している教会、共有する教会、力強く証する教会、そして、家族的で献身の思いがある教会をかならず、祝福してくださるのです。この祝福にあずかることができるよう、さらに励んで参ろうではありませんか。

Today’s Takeaways ①一致する教会、②共有する教会、③力強く証をする教会、④献身的に支え合う教会

これらの特徴は初代教会から今日の教会、そして未来の教会が行うべきものです。

Thinking Time 兄姉との愛の交わりは出来ていますか