• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年5月7日主日礼拝

説教題:指導者の資格~~御言葉が羅針盤~ 聖書箇所:テトスへの手紙1章1-9節 

◆挨拶 1:1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。 1:2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 1:3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。―― 1:4 信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。 ◆クレタでのテトスの仕事 1:5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。 1:6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。 1:7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、 1:8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、 1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。

ハレルヤ!5月の第一主日を迎えました。今日からテトスへの手紙を講解で学びます。今日は初回ですので、先ず全体的なことからお話をします。手紙ですのですので「いつどこで誰が誰に何のために」書いたのかを理解する必要があります。いつ=執筆年代の特定は難しいのですが、テモテへの手紙一とテモテへの手紙二の間に書かれたと思われます。学説によるとAD67年位とのことです。パウロ書簡(パウロが書いた手紙)の中で、テトスへの手紙とテモテへの手紙一、二の三巻を牧会に対する勧告がメインですので、牧会書簡と言います。どこで書いたかの有力な情報はこの手紙の結びの部分の3章12節に書かれています。確認をしてみましょう。3:12 アルテマスかティキコをあなたのもとへ遣わしたら、急いで、ニコポリスにいるわたしのところへ来てください。わたしはそこで冬を越すことにしたからです。とありますので、この手紙はニコポリスで書かれた可能性があります。ニコポリスという名前の都市はいくつかあるのですが、恐らくアテネの北西のニコポリスだと思われます。「誰が誰に何のために」については1-5節でお話をします。今日は1章1-9節を通して、「指導者の資格~御言葉が羅針盤~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神の時に期待する

では、1節の前半から順番に見て参りましょう。1:1a 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから1-4節は挨拶の部分ですが、これは他のパウロが書いた手紙に比べ、テトス書の手紙全体の量を考えると長い挨拶と言えます。「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロ」とあります。この手紙の差出人は使徒パウロです。パウロは自身のことを「神の僕、イエス・キリストの使徒」と呼称していますが、僕には所有者がいます。パウロは自分の所有者が神といいます。創造主なる神の意のまま働くためにイエス・キリストから召された「イエス・キリストの使徒」と語ります。イエスキリストから直接、任命された使徒であることを明示しています。かつて、パウロは熱心なユダヤ教徒でした。それ故にキリスト者と教会を迫害していました。そのパウロが回心し、キリストに仕える者とされたのですから、このことを疑う人もいたのです。それが、「イエス・キリストの使徒」と書き出した理由です。ほとんどのパウロ書簡が同様な書き出しをしていますが、ローマの信徒への手紙1章1節を開いてみましょう。1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、1節の後半から3節には使徒とされた理由が記されています。1:1b――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。 1:2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 1:3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。――「神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。」「神に選ばれた人々」とあります。ユダヤ人は自分たちのことを「神に選ばれた人々」と呼びますが、この箇所ではキリスト者の意味です。キリスト教会と言っても良いでしょう。信仰」とありますが、信仰とは「これは私にとって良いことだ。だから神が私に与えてくださったのだ」という考え方ではありません。「神が与えてくださったのだから、私にとってよいことに違いない」という考え方なのです。パウロの使命は教会、信仰の共同体が持っているその信仰を正しく深めることです。そのためには必然的に「真理の認識」が必要となるのですが、「真理の認識」とはなんでしょうか。主イエスの十字架と復活によってもたらされた福音です。2節に「これは」とありますが、パウロが使徒となったことです。そのことが「永遠の命の希望に基づく偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました」というのです。つまり、使徒とは人間の教えによって作られたものではなく、永遠に存在する創造主ご自身が定めたものなのです。3節に「神は、定められた時」とありますが、原語であるギリシア語には、「時」を表わす言葉が二つあります。「クロノス」と「カイロス」です。「クロノス」とは、時の流れのことです。過去から現在を通って未来へと“水平に流れる”<時>のことです。「クロノス」は、置き時計を意味する英語の“クロック”の語源にもなっています。一方、「カイロス」とは、ある一時、神の定めし時、神の時であり、天から地上に“垂直に降りて来る”<時>のことであります。「その時、歴史は動いた」というような、決定的な時を「カイロス」と言います。PPT3節の時は原語ではカイロスですので、新共同訳では「定められた時」と訳しています。この箇所からとても大事なことがわかります。私たちは物事がうまくいかなかったり、問題を抱えたりしてときに人間を見て、人間に期待してはいませんか。コヘレトの言葉には神が定めた時について記されています。3章1節を見てみましょう。3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。神を見上げて神のご計画に望みをおこうではありませんか。神により「すべて定められた時がある」からです。個人にも教会にも「すべて定められた時がある」のです。この信仰に立って歩みましょう。今日、先ず覚えて頂きたいことは神の時に期待するということです。後半に「わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。」とありますが、パウロは自分に委ねられた使命を深く思い挨拶の中で記したのです。4節を見てみましょう。1:4 信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。「信仰を共にするまことの子テトスへ」とあるようにこの手紙の直接の宛先、受取人はテトスですが、テトスを通して教会全体に読んでもらいたいとの思いが汲み取れます。そのテトスには「信仰を共にするまことの子」と形容されています。テトスについてはガラテヤの信徒への手紙2章1,3節に記述がありますので、開いてみましょう。 2:1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。 2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。パウロはエルサレムで開かれる会議のためバルナナバとテトスも同行させました。テトスは割礼を受けていない者の典型として連れていったのです。テトスはギリシア人で、恐らくはパウロによって回心をした人物だと思われます。また、テトスはパウロによりコリントに遣わされ、コリント教会の混乱と混乱を治めました。開きませんがこのことについてはコリントの信徒への手紙二7章6-16節に記されています。後ほどお読みください

②非難される点がない人格者を目指す

5節を見てみましょう。1:5 あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。5節はこの手紙が記された目的です。パウロはテトスのコリントでの働きの実績を踏まえクレタの諸教会の形成をテトスに委ねたのです。「クレタ」の場所の確認をしてみましょう。クレタ島は地中海にあるギリシア共和国の最大の島です。クレテという場合もあります。使徒言行録27章7,8節にはパウロがローマに護送される途中、クレタ島の島影に沿って航行しながら、かろうじてクレタ島の南岸にありました、「良き港」と呼ばれる港に着いたことが記されています。パウロはテトスと共にクレタで伝道し教会を建てたのですが、「残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうため」にテトスを残したのです。「町ごとに」とあるように町が沢山あったことがわかります。古代詩人のホメロスは「大きな都市があるクレタ島」と言いました。6,7節を見てみましょう。1:6 長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。1:7 監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、「長老、監督」とあります。この手紙が記されたときには「長老、監督」という職務の区別がありました。今日でも長老・改革派の教会では長老、執事と異なる職務の役割がありますが、今日の説教では厳密に区別をすることなく「信徒で教会を指導する人」の意味で解釈をするとよいと思います。クレタ島にはいくつかの教会がありましたが、初めの頃は設立された教会の数に牧師の人数が間に合わなかったのです。一教会一牧師ではなく兼牧をしていたのです。ですから、教会ごとに「信徒で教会を指導する人」を任命する必要があったのです。パウロは「信徒で教会を指導する人」の資格、資質について語ります。「信徒で教会を指導する人」は選挙で選ばれていないことがわかります。資格、資質が第一で、それにあった人が選ばれて任命を受けるのです。「非難される点がなく、非難される点があってはならない」とあるように「信徒で教会を指導する人」の資格の第一条件は非難される点がないということです。このことはこれ以降に述べられている個々の資格、資質の総まとめとも言えるもので、人格的、倫理的に非難されることがないという意味です。指導者もそうでない方も非難される点がない人格者を目指そうではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは非難される点がない人格者を目指すということです。「一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、」とあるように、家庭における良き夫、良き父親であることが教会の指導者として立てられる人には求められるのです。家庭生活は全ての物ごとの根本ですが、特に信仰が継承されるようにしなくてはならないのです。のちのカルタゴ宗教会議で「監督、長老、執事は、その家族全員が公同教会のメンバーになる前に就任してはならない」と議決しています。「わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、」とありますが、「信徒で教会を指導する人」にとってのあるまじき姿、不適格な振る舞いが描かれています。このような戒めはいつの時代にも必要なことですが、特に発展途上にある初代教会には必要なことだったのです。これらの不適格な振る舞いを原語の意味で見てみましょう。「わがまま」と訳された言葉の原語の意味は「自分を喜ばす」です。ですから他人のことを喜ばすことなど考えもしないことです。「怒らず」とありますが、「怒る」にはギリシア語では二つあります。「沸騰する」という語源から出でいる「瞬発的な怒り」と「根深い怒り」です。今日の箇所は後者です。瞬間的な怒りではなく、心の中に留めてしまっている怒りです。エフェソの信徒のへの手紙にはつぎのような御言葉があります。 4:26 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。「怒ることがあっても」の怒りは「根深い怒り」です。ですから、この御言葉は根深い怒とならないように怒りを早く鎮めなさいといいう意味です。「酒におぼれず」とありますが、酒に溺れてしまい、そこから粗暴な行為をするという意味にもなっています。ですから、お酒が入ってない状態でも粗暴な振る舞いをする人にも使います。「乱暴」は「殴り合いをする」の意味です。熱心さゆえに暴力行為をしてた指導者がいたことが読み取れます。「恥ずべき利益をむさぼらず」とは「利益を追求するためには手段を選ばない」という意味です

③御言葉が羅針盤

8,9節を見てみましょう。1:8 かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、1:9 教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。8,9節は「信徒で教会を指導する人」にとってのあるべき姿、肯定的な面が記されています。原語の意味を確認してみましょう。「客を親切にもてなし」とは「旅人を愛する」という意味です。へブル書の講解説教の時にもお話をしましたが、この時代は宿泊費が高く、不衛生でもあり、不道徳の巣でもありました。ですから、旅をするキリスト者を自宅に泊めて歓待をしたのです。開きませんがヘブル書13章1節を読まれてください。「善を愛し」とは「無私」の意味です。「分別があり」とは「自分の感情、欲望を制御できる」という意味です。ソクラテスはこのことについて「美徳の礎石」と述べました。「正しく」とありますが、神と人間との双方を正当に取り扱うという意味です。「清く」とは生活の基本的な礼儀作法を重んじるという意味です。「自分を制し」は原語に忠実な訳です。他人のために仕える人は、先ず自分自身を治めることが求められるのです。この6-9節を同じく牧会書簡のテモテへの手紙一3章1-7節と比較すると興味深いことがわかります。ほぼ同じ内容で、後ほど全部を読まれて欲しいのですが3,6節に記されていることが異なります。開いてみましょう。3:3 また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、 3:6 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。3節に「金銭に執着せず」、6節に信仰に入って間もない人ではいけません。」とあります。テモテが牧会していたエフェソの教会には金銭的なトラブルがあったことがわかります。また、6節に「信仰に入って間もない人ではいけません。」とありますので、テモテが牧会していたエフェソの教会には信仰歴の浅い方が指導者になろうとしていた問題があったことが読み取れます。9節の後半に「教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人」とあります。これは全てのキリスト者に当てはまりますが、教会の指導者にはなおさらの資格です。船が正しく進行するためには羅針盤が必要です。羅針盤は航海などに際し、方位を知るための装置のことです。教会を正しく前進させていく羅針盤は御言葉です。船は羅針盤がなければ目的地にたどり着くことは出来ません。同様に教会もキリスト者にも御言葉なくして成長はありえないのです。教会を指導する人はその資質に富むばかりではなく御言葉をしっかりと自分のものとしていることが必要なのです。もしそうでなければ、「健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。」とあるように、教会が信仰の破船をしてしまうのです。

Today’s Take-away ①神の時に期待する、②非難される点がない指導者を目指す、③御言葉が羅針盤

Thinking Time 「羅針盤」を蓄えていますか